詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

パオロ・ビルツィ監督「人間の値打ち」(★★★★)

2016-12-21 20:58:06 | 映画
監督 パオロ・ビルツィ 出演 バレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリッツィオ・ベンティボリオ、マティルデ・ジョリ

 交通事故の「真犯人」探し、がストーリーを動かしていく。しかし意外と簡単に「真犯人」を明らかにする。テーマは「真犯人探し」ではないのだ。「事故/事件」のまわりで、ひとがどう動いたか、がテーマ。
 そのテーマにそって言いなおすと、最後が絶妙な展開である。観客は「真犯人」がだれかわかっている。しかし、どうして「真犯人」がつかまったのかは明らかにされていない。
 少女の父親が「証拠/情報」を金持ちの母親に売り、金持ちの母親が「情報」を警察に持ち込んだから?
 いちばん「論理的」だが、私はそうは見なかった。
 これでは少女の父親がいちばん非人間的になってしまう。金のことしか考えていない人間になってしまう。金持ちの母親が警察に通報するというのも、後味が悪い。
 ラストシーンの刑務所に入った少年と、面会に来た少女の美しさにそぐわない。
 だから、私はこんなふうに見る。
 少年は「逃げる」ということを拒否したのだ。そのために自殺しようとした。死ぬことで犯罪を償おうとした。同時に、それは少年をかばう少女を救う唯一の方法だった。少女さえ「証言」しなければ、罪を金持ちの息子に押しつけることができる。少年は「無罪」でいられる。でも、そうなったとき「虚偽の証言」をしてしまった少女はどうなるのだろうか。刑務所には入らない。けれど、ずーっと嘘を人生を生きていかないといけない。少年は、これを知っていて、「犯人」になることを選んだ。ただし、刑務所に入るのはいやなので自殺しようとしたということだろう。
 でも、なんとか助かった。命を取り留めた。
 命を取り留めたあと、少年は刑務所に入る。刑期を終えることで、新しい人間として生まれ変わる。少女もそのときいっしょに生まれ変わっている。そう暗示している。
 この「再生」の展開の仕方はとても魅力的である。
 映画のほんとうのテーマは「再生」かもしれない。だからこそ、「再生」できなかった少女の父親は重要人物であるにもかかわらず、事件が解決したあとは出てこない。少女の父親は「人間」として死んだのである。金持ちの母親は、生きてはいるが、虚無を生きている。状況を傍観することしかできなくなっている。つまり「死んでいる」。
 繰り返しになってしまうが、この二人の「死/半死」と比較すると、刑務所の少年と少女が「生まれ変わって生きている」ということがよく分かる。

 「人間の値打ち」を何によって測るか。映画の最後には、死亡した被害者への「賠償金」が「値段」として出てくるが、これは「反語」のようなもの。映画は「正直」と「再生する力」を「人間の値打ち」として静かに語っているように思う。
 いい映画だと思った。

 細部では、少女が少年と出会うシーン。少年が少女の肖像画を描き、それを見た少女が「ほんとうの自分」を見つめられていると感じたと語るシーンが、とてもいい。そのあと二人で道端に座って語るシーンもいい。
 少年は、少女が少年をかばうこと(どういう人間であるかということ)も、たぶんこのときにわかっていた。見抜いていた。だから苦しんで、自殺しようとしたのである。
 あからさまな「伏線」ではなく、何気なく描かれているだけに、とても印象に残る。
 描かれた「絵」が少女に似ているというよりも、少女が「絵」に似ていると感じさせる映像(演技)もすばらしい。
 少女を演じたマティルデ・ジョリ。これまで見たことがあるかどうかわからないが、見続けたい女優だ。
                      (KBCシネマ1、2016年12月21日)



 KBCシネマのスクリーンはあまりにも暗い。映画そのものの画像の質というよりも、映写器機が原因だと思う。私は目が悪いせいもあるかもしれないが、KBCシネマで見たあとはからだが以上に疲れてしまう。
 福岡ではミニシアター系の映画館はここしかない。ここで見るしかないのだが、みたいけれどやめるか……とあきらめる作品も出てきてしまう。
 なんとかスクリーンを明るくしてもらいたい。

 *

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尾久守侑『国境とJK』

2016-12-21 10:12:55 | 詩集
尾久守侑『国境とJK』(思潮社、2016年11月30日発行)

 尾久守侑『国境とJK』は何が書いてあるか、わからない。わからないけれど、気になるものがある。
 「海街」の一連目。

どこにいても辿り着いてしまう
青空を見兼ねて、やって来た
アイランド
海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている瞬間が
何度かあって、それも
ただの気のせいだと思うには
雨が多すぎた

 「どこにいても辿り着いてしまう」。「いる」という「動詞」が「辿り着く」という「動詞」と結びついている。「学校文法」では「矛盾」(間違い)と指摘されるだろう。この「矛盾」した「動詞」の結びつきは、「海まで走る原付バイクに乗っていると/昔とおなじ街に暮らしている」という部分に逆の形で反復されている。「バイクに乗って走る(移動する)」と「おなじ街(動かない)に暮らしている(いる)」。
 「矛盾」を「矛盾」ではなくする「動詞」は何だろう。「ただの気のせいだと思うには」の「思う」かもしれない。「思う」は「思い」という「名詞」に変化する。(「思い」は「思う」から派生した名詞と考えることができるだろう。)。「思い」は「気でもある」。

どこにいても(思いは/気は)辿り着いてしまう

海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている(思う)瞬間が
何度かあって
 
 「動詞」以外にも「矛盾」というか、相反するものの結合がある。「青空」と「雨(空)」。ここには「見兼ねて」という「動詞」がからみついている。「見ることができない/見るに耐えない」。「できない/耐えない」は「気/思い」が「できない/耐えない」ということだろう。
 「思い/気」が「矛盾」したものを強く結びつけている。「思い/気」というものが尾久守侑の「キーワード」なのだろうと思う。
 だが、よくわからない。

あれから毎日
晴れているのに雨がふる                      (「海街」)
 
つめたいラジオから               (「ぼくの海流に雪はつもる」)

 「矛盾」、「矛盾」とは言えないかもしれないが「異質なものの結合」と呼べるいくつかの行(ことば)を読み進んで「コールドゲーム」という作品に出会う。この詩は尾久の作品のなかでは「矛盾」が目に留まらない作品と言える。
 ここで、思わず「傍線」を引いたことばがある。

すべての色素を失って歩く
国道から校舎への
三百メートル
Yシャツの袖をまくって
紺の手提げカバンを
肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて
とったばかりの
二輪の免許で
かたちの変わる海岸線を走った

 「みえなくて」と「みえない」。「思い/気」が「名詞(主語/テーマ)」のキーワードだとしたら、「みえない」は「動詞/述語」のキーワード。「思い」も「気」も「みえない」。「みえない」けれど「ある/存在している」。そういうものを書こうとしている。ことばの運動によって「みえない存在(ある)」をつかみ取ろうとしている。

すべての色素を失って歩く

 魅力的な一行は、「すべての色素をうしなって、色素がみえなくなった(みえなくなったという気持ち、思いを抱きながら)歩く」ということになるだろう。

肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて

 というのは、野球部(員)の「感じている/つかみとっている」朝の練習のときの「空」が「みえない」。おなじ「思い/気持ち」で朝の空をつかみきれないということか。「つかみきれない」は「認識できない」でもあるのだけれど、「認識」というよりもなにかあいまいな「思い/気分」の方が強い。
 このあと「みえない」はもう一度出てくる。

卒業まであと 日
破り去られた数字のなかに
僕はいきていた
うしろから
勢いよく肩を叩いたきみの
たぶん、北のほうの訛りと
お気に入りの
水玉のワンピースが
ゆらゆらと揺曳して
みえなくなった

 この「みえなくなった」は「遠ざかった」という「意味」なので「ある」のに「みえない」というのとは違うのだが、この微妙な「違い」がキーワードをみえにくくしているのがおもしろいと思った。無意識のうちにキーワードを隠してしまうのかもしれない。一種の「本能」。大事なものは、ほんとうに必要なときにしか出てこない。言い換えのできないときにだけ「ことば」として動き、言い換えができるときは隠れてしまう。キーワードとは、そういうものだと私は思っている。
 この「みえない」「思い/気」は最終連で、また言いなおされている。

大小のテレビにうつった
高校野球
アップになった
不甲斐ないエースの顔は
紛れもない僕だった
つめたい雨のふる外野席
コールド負け寸前の僕を応援する
夏服のきみがいた
水玉と
クリームソーダの季節
アンパイアの掛け声で
黒焦げのグローブを
ぐっと握りしめると
空が一瞬で
透明になった

 「透明」は「みえない」。「透明」は尾久のキーワードを結晶させる「象徴」である。「透明」へ向けて尾久のことばは動く。
 そこに「ある」のに「みえない」。「みえない」を「みえる」にかえるためには、尾久のことばがそこに「ある」ものよりもさらに「透明」になる。
 「つめたい雨のふる」空は「透明」ではない。しかし、それを「一瞬で/透明」に「する」。尾久は「透明になった」と書いているが、尾久が「透明」に「する」。

 「透明」「みる/みえない」は、多くの詩に書き残されている。詩集のタイトルになっている「国境とJK」には少し違った形に言いなおされている。

先の丸まった鉛筆で
マークシートを塗りつぶす
答えはどこにあるのだろうか

 「答えがみえない」。「透明」は「鉛筆で塗りつぶす」という逆のことばで浮かび上がってくる。「黒」の反対側に「透明」がある。

いつもの教室
皺一つないチェックのスカート

だれとメールしているのか
おしえてくれなくて

そう、顔のないせんせいが云ったのだ

 「皺一つない」の「ない」も「みえない」。「おしえてくれなくて」の「なくて」も「みえない」。「顔のないせんせい」の「ない」も「みえない」。そこには「不透明」も含まれるのだが、尾久は「不透明」も「思い/気」をくぐらせることで「透明」に濾過してしまう。尾久の「透明な(純粋な)思い/気」があらゆめる存在を「透明」にかえて、詩に結晶させる。
 私の読み方は強引すぎて「誤読」にしかならないのだが。
 「ナショナルセンター」には次のことばがある。

どしゃぶりのハチ公前から、TSUTAYAにむかって歩いていくさやかさん。よくみると泣いていた。空が灰色だった。考えてみれば雨の日にあまり空は見ない。

 灰色の雨空を見る。その「見た」ものの影で「泣いていたさやかさん」が「透明」になっていく。名色の空を見ることが「泣いていたさやかさん」を「透明」に「する」。「さやかさん」を「透明にする」のか「泣いていた」ということを「透明にする」のか。区別できない美しさが、青春の透明さというものかもしれない。

国境とJK
尾久 守侑
思潮社
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