詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(メモ25)

2016-12-12 11:19:07 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ25)

三日後のオフィーリアが侮辱する。
「あなたの連れ、にぶいんじゃない?」
振り返ると鏡の中に一時間前のオフィーリア、
自分の目しか見えないくらいに目をみひらいて、
「どうして?」
訪ねる声がふるえるのは憎しみの予感か、恐怖か。
「三日前、ドアを開いて入ってきた男にあなたが目を向けたすきに、
彼は私を見たのよ。私は横を向いていたけど気づいたわ。
でも、なんてにぶいんだろう。
私がわざと横を向いているのに気づかないなんて、
盗み見している男に気づいていないと思うなんて、」

「長い廊下をつけてくる足音を聞いたとき、
私がどんなに振り返りたいこころを抑えていたか知らないなんて、
ゆるせないわ。」
「待って」
四日後のオフィーリアはさえぎる。
「それ、私が書いた手紙よ。
ラブレターまで盗むの?
何の権利があって?」
「私がオフィーリアだからよ」
八十五歳になったオフィーリアが笑う。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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サミュエル・ベンシェトリ監督「アスファルト」(★★★)

2016-12-12 08:55:25 | 映画
監督 サミュエル・ベンシェトリ 出演 イザベル・ユペール

 フランス人(あるいはパリっ子)とはどんな人間なのか。フランスの個人主義がどういうものか。それがわかる。といっても、私の勝手な「誤読」だが。
 いちばんわかりやすいのが、最初のエピソードの男。アパートのエレベーターがトラブルつづき。管理組合は修理しない。住民が金を出し合って新しいエレベーターに交換することになる。しかし、ひとりが金を出さないという。「2階に住んでおり、エレベーターなんかつかわない」。で、「では金を出さなくてもいい。ただしエレベーターはつかうな」。
 この男。「会議」があった部屋で、スポーツジムにあるような自転車を見つける。エレベーターには金を出さずに、同じ自転車を買う。そして、自転車を「自動走行(?)」にして漕いでみる。自転車がかってに足を動かしてくれる。これじゃあ、運動にならないとも思うのだが、運動していないから途中で気を失う。自転車はまわりつづけ、足を痛める。車いす生活になる。さて、困った。2階まで、どうやって階段を上る?
 ここからがフランス人。「助けて」とは言わない。ひとがいなくなる瞬間をみつけて、なんとか自分の部屋に帰る。このあとが、また大変。ドアの隙間からエレベーターの利用時間をチェックする。夜中から早朝まで誰も利用しない。あたりまえだ。そこで買い物に出かける。でも、店は閉まっている。どこか何か売っていないか。病院に自動販売機がある。そこなら食い物がある。で、真夜中に病院の自動販売機を目指して買い出し。この、ど根性がフランス人。自己主張を曲げない。わがまま。わがままの責任は自分でとる。
 これは別な角度から言いなおすと、他人には干渉しない、ということ。車椅子なのでエレベーターをつかいたい? そんなこと知らない。エレベーターには乗らないから金を出さないといったのはお前。「助けよう」とは言わない。
 こんなことで、社会が成り立つ? なぜか、成り立ってしまう。どうしてだろう。ひとを愛しているからだ。そして、この「愛」というのが「対等」の関係を守ることにつながっているからだ。
 イザベル・ユペール(落ちぶれた女優)と鍵っ子高校生(母親はいるが出てこない)。年齢に差があるのに、年齢差を越えて「対等」に語り合う。プロの女優に対して、演技に注文をつける。イザベル・ユペールは最初は反発するが、指示に従い、台詞回しを変える。このシーンが「おっ、すごい」と目を見張る。下手くそな演技が、撮りなおすたびに変化し、最後は「迫真」。高校生の、観客としての視線がイザベル・ユペールを変えていく。ここには少年の映画への「愛」がある。映画への「愛」をとおして、イザベル・ユペールと少年が「支えあう」る。
 「不干渉」(非干渉が正しい?)と「不干渉の干渉」が奇妙な形で表現されているのが、墜落した(?)宇宙飛行士を匿うアラブ系の女性と周囲の関係。空から落ちてきた宇宙飛行士を見ているひとがいるのに、だれも騒がない。
 宇宙飛行士がNASAに電話して「助けてくれ」というと、NASAは「ちょっと待て。墜落したことがばれると予算が出なくなる」。あ、こんな「わがまま」な屁理屈をストーリーにしてしまうこと自体がフランスだけどね。アメリカじゃ、絶対に考えられない。コメディーだとしても。
 で、宇宙飛行士を匿うことになった女性だが。息子がいる。息子は刑務所に入っている。寂しくて仕方がない。だから宇宙飛行士を息子がわりに匿う。得意料理をつくって愛情を注ぐ。「母」を演じながらいきいきとしてくる。これがおもしろい。NASAから口止めされているのだが、刑務所で面会した息子に「宇宙飛行士を匿っている」とついつい口走り(うれしくてたまらない、犯罪者になって、息子の「罪」を共有している)、「アルツハイマーになったのか」なんて言われてしまうんだけれどね。

 それにしても。
 なぜ、フランス人の「わがまま」を見ても「嫌い」にならないのだろうか。「わがまま」な人間はいやなものだが、フランス人の「わがまま」を見ていても「いや」という感じが起きない。「不器用」だからかもしれない。「不器用」が「個性」になって「規則」のようなものをほぐすからかもしれない。「合理性」からはみだしてししまうものが「肉体」を刺戟してくる。いとおしくなる。
 こういう映画を見ると、フランス人がとても好きになる。
                      (2016年12月11日、KBCシネマ2)





 *

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「この世界の片隅で」(追加)

2016-12-12 08:33:19 | 映画
「この世界の片隅で」(追加)

 私がいまいちばん気になっているのは「静か」ということば。
 日露首脳会談は、どうみても「北方四島」の問題はたなあげ。歯舞、択捉の二島先行返還などありえない。先の外相会談で明確になった。日本が金を投資させられるだけ。
 その「予測」が広がると、読売新聞は「プーチン氏の来日は、静かな環境で迎えたい」と社説に書き(12月05日朝刊)、安倍は「静かな雰囲気の中で胸襟を開いて率直に議論する」(12月05日読売新聞夕刊)で語っている。
 「静かな雰囲気」とは「安倍批判が聞こえない環境で」ということであり、ことばを変えると「安倍批判をするな」ということである。
 たとえば首脳会談がおこなわれる山口県に右翼の街頭宣伝車があつまり「ロシアは北方領土から出て行け」と騒いだとしよう。国民の目は安倍が「前宣伝」していた歯舞、択捉の返還はどうなるだろうと注目してみつめることになる。何の成果もないと、きっと失望する。安倍批判が広がる。
 そういうことがあっては安倍が困る(支持率が低下する)から、何もなかったかのように「静かに」していろ、というのである。
 北方領土返還問題には触れず、「経済協力」と、「経済協力」に必要な「ビザなし上陸」だけを安倍はアピールするだろう。首脳会談は成功した、と宣伝するだろう。
 北方問題についてだれかが騒がないと、つまり「静か」にしていると、その問題は存在しなかったことになる。

 「静か」作戦は、夏の参院選で絶大な効果を上げた。大成功だった。
 私は7月3日(いわゆる選挙サンデー、投票日の一週間前の日曜日)に「異変」に気づいた。籾井NHKが参院選報道を抑えた。だれも「参院選」といわなくなった。
 その結果「参院選」は存在しなくなった。(週間予定でもNHKは予告しなかったし、投票日の前日のニュースでも「七月十日」は、「なな」と「とう」で「納豆の日」とういくらい、参院選隠しに終始した。)わずかに伝えるニュースは「民進党にはもれなく共産党がついてくる」という安倍の「言い回し」だけである。この報道によって参院選は自民党か共産党かの二者択一の選挙になり、他の政党は存在しないことになってしまった。

 「静か」であることは、「政権」にとってつねに「有利」に働く。
 問題がどこにあるか、それを指摘する「少数意見」は抹殺される。
 あらゆる声を聞く、多様な声によって「騒がしい」というのが「民主主義」。「静か」は「多様性」を否定する。

 「反戦」を語らない。「イデオロギー」がない。だから「すばらしい」という「この世界の片隅で」への評価は、安倍の好む「静か」につながっている。
 この映画を「反戦」語る出発点にすると、映画の感動が薄れる。「反戦」ということばをつかわずに、そこに描かれている「暮らし/生き方」に感動しろ、というのは、次に戦争が起きたときは、国民は映画の登場人物のように「反戦」を語らず、「日々の暮らしを工夫して生きろ」という「押しつけ」になって働きかけてくる。
 「野にある食べられる草花をつかえば食卓は豊かになる。おいしく健康な生活ができる。ほしがりません、勝つまでは」を実行しろ。「政府批判はしません、勝つまでは」。「静かな雰囲気」のなかで安倍のいう通りにします。そういうことが強制される。

 「静か」を主張するあらゆるものに、私は反対したい。
 
 天皇の「生前退位」問題も、「静かな雰囲気」のなかで検討されている。「生前退位」というの表現は天皇が「生きている」という生々しさ、一種の「うるささ」が伴うので、いまは報道機関は「退位」としか言わない。誰の指示かわからないが、朝日、毎日、読売新聞は足並みをそろえている。(テレビは見ないので、NHKがどうなのかは知らない。)
 「静かな」というのは、安倍の思うがままということである。
 安倍の考えに反対のことを言えば、どうしたって「うるさくなる」。意見が対立するというのは議論がはじまるということであり、議論とはうるさいものだからである。
 「有識者会議」などというものは、議論をするための組織ではなく、議論を抑圧するためのものである。「論点の整理」とは反対意見を封じるためにどういう考えを前面に出すかというだけのことである。

 最近話題になった「流行語大賞」の「日本死ね」騒動も同じ問題として考えてみることができる。
 「死ね」というのは物騒な表現である。怒りがこめられた「うるさい」ことばである。「うるさいことば(乱暴なことば)」を排除し、「静かな雰囲気」で語り合わなければならない、というのが「日本死ね」を批判している人たちの考えの奥にある。
 安倍の好んでつかう「しっかり説明する」は、国民が説明を要求することをあきらめるまで「しっかり口を閉ざす」、余分なことを言わない、「静か」を守り続けるということである。

 「静か」とか「静かな雰囲気」ということばは目立たない。目を引かない。だから、おそろしい。どなことばにも「思想」はある。それを見落としてはならない。



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