そとめそふ『卵のころ』(ミッドナイト・プレス、2016年11月27日発行)
そとめふそ。五月女素夫、という名前の方が私にはなじみがある。久しぶりに、そとめの詩に出会えてうれしい。
『卵のころ』は横書きの詩と縦書きの詩から構成されている。横書きの方は「poem essens 」というタイトル通り「詩のエッセンス」が断章とし書かれている。
文字が「中央揃え」で組まれている。引用は「頭」を揃えた。
どの「断章」もとても短い。引用した2行は「思考/精神」と「感情」をぶつける。どちらが「主役」なのか、わからない。「精神/理性」と「感情/感性」は「相対的」なものではないのかもしれない。「特定」できないものかもしれない。
「精神/理性」と「感情/感性」を区別しないで「こと」に向き合っているそとめがいる、ととらえるべきなのだろう。
「こと」というのは、そとめが「ということ」「そのこと」と呼んでいる「こと」である。学校文法ではその「こと」を「考える」という「動詞」を指していると「分類」するかもしれない。
でも、私は、そうしたくない。
「ということ」といったん言って、もう一度「そのこと」と言いなおしている。この重複はことばの経済学からいうと「むだ」。どちらかひとつでいい、と「学校作文」は指摘するかもしれない。「こと」が「考える」を指し示すなら、たしかにそうなるだろう。
しかし、それなら、そとめは繰り返さないだろう。
目を向けなければならないのは「こと」そのものよりも「という」「その」という「指し示し」かもしれない。「という」「その」というあいまいな、何か身振りのようなもの。「具体的」には指し示せない、「ことば以前」の何か。「未分化/未分節」を経由することで「考える」という「精神の運動/理性の運動」が「淋しい」という「感情/感覚/感性」へと変わる。
この不思議な「運動」をそとめは形を変えながら「断章」にしていると感じた。
「断章」のなかでは、この一行がいちばん印象に残った。「指」は「その」とか「あれ」とか指し示す身振りといっしょにある。「ことば」を「頭」で読むのではなく、「頭」で整理する前の「肉体」で読むときの「感覚」(非論理/未分節の論理)が、「淋しい」感じで動いていると思った。
縦書きの詩の中からは、どの作品を引用しようか。何について語ることができる。「砂丘」について書いてみよう。
「見えてはいるが」「見えはしないもの」。これは「矛盾」。学校作文(文法)なら、どっちなんだ、と怒りだすかもしれない。
しかし、こういう「矛盾」は世界にはあると思う。
「見えている」は「存在している」。「見えていない」は「存在とは意識されていない」ということ。「見る/見える」は「目(肉体)」には「見える」が、「頭(意識)」には「見えない」と読み直すならば、その「存在」は「未分節」のなかにある。「混沌」のなかにある。
ただし、このときの「見る/見えない」「目(肉体)/頭(意識)」というのは、相対化し、固定化できない。
時には「頭(意識)」には見えているが、「肉体(目)」には見えないというものもある。素粒子の運動とか、宇宙の天体の法則とか。
これが現実の「砂丘」について起こりうるか。わからない。けれど、「砂丘」が「比喩」ならば、いつでも起こる。
「砂丘」という「比喩」とはは何か。
私は、先に「断章」で触れた「それ」とか「という」とか、あるいは「こと」を思う。「身振り」では指し示すことができる。けれど、「頭」で整理して、論理的に提示することはできない。
そういう「何か」。
これをそとめは、こう言いなおす。
「言葉」は「対象」とイコールで結びついていない。むしろ「対象」になる前の何か、「未分節」の何か、混沌のなかにある「未生」の何かと結びついて、何かが生まれてくるのを待っている。この「待つ」をそとめは「たたずんでいる」と言いなおしているように思える。
「だれかである」「だれでもない」という「矛盾」をつなぎとめる「同時に」がこの詩の「核」かもしれない。「矛盾」とは「同時(同じ時間)」であるから「矛盾」。「時間」が違えば、あるいは「場所」が違えば、正反対のものは存在しうる。
「同じ」ところから「違う」もの、言い換えると「矛盾」したものが、生まれる。「言葉」は「矛盾」を生み出してしまう。
「矛盾」を生み出してしまうことばの運動--それが、そとめの詩の「現場」ということになる。
「同時」という瞬間に「境界」はない。「境界」はうしなわれ、そこから「新しい何か」が生み出され、それが「境界」をつくる。「言葉」が「存在」を生み出し、同時に「境界」をつくる。
この運動を、しかし、そとめは私のように「結論」として語るのではなく、最後の2行でたたき壊す。「砂丘」にもどってしまう。
書き出しでは「砂丘」は「対象」。ある人には「見えてはいる」。同時にしあるひとには「見えはしない」。「見る/見えない」の主語は「ひと」である。
最後の二行では「主語」は「砂丘」。倒置法によって、書かれている。ふつうの文章にすると「砂丘は、言葉よりもとおくを見ていた」ということになる。
もちろん「私」を補い、「私は言葉よりも とおくを見つめていた」。そしてそこに「砂丘」があった。「私は砂丘にいた」と読むこともできる。「特定」はできない。
「砂丘」と「人」が、ことばを生み出していくとき、入れ替わってしまう。どちらが「砂丘」、どちらが「人」という「固定」がなくなる。(境界がうしなわれる。)
大きなストーリーが書かれていないのでわかりにくいが、小さな何かにこだわりながら、そういうことを書いていると感じた。
そとめふそ。五月女素夫、という名前の方が私にはなじみがある。久しぶりに、そとめの詩に出会えてうれしい。
『卵のころ』は横書きの詩と縦書きの詩から構成されている。横書きの方は「poem essens 」というタイトル通り「詩のエッセンス」が断章とし書かれている。
考える ということ そのことがもう
ずいぶん 淋しい行為だったのかもしれない (24ページ)
文字が「中央揃え」で組まれている。引用は「頭」を揃えた。
どの「断章」もとても短い。引用した2行は「思考/精神」と「感情」をぶつける。どちらが「主役」なのか、わからない。「精神/理性」と「感情/感性」は「相対的」なものではないのかもしれない。「特定」できないものかもしれない。
「精神/理性」と「感情/感性」を区別しないで「こと」に向き合っているそとめがいる、ととらえるべきなのだろう。
「こと」というのは、そとめが「ということ」「そのこと」と呼んでいる「こと」である。学校文法ではその「こと」を「考える」という「動詞」を指していると「分類」するかもしれない。
でも、私は、そうしたくない。
「ということ」といったん言って、もう一度「そのこと」と言いなおしている。この重複はことばの経済学からいうと「むだ」。どちらかひとつでいい、と「学校作文」は指摘するかもしれない。「こと」が「考える」を指し示すなら、たしかにそうなるだろう。
しかし、それなら、そとめは繰り返さないだろう。
目を向けなければならないのは「こと」そのものよりも「という」「その」という「指し示し」かもしれない。「という」「その」というあいまいな、何か身振りのようなもの。「具体的」には指し示せない、「ことば以前」の何か。「未分化/未分節」を経由することで「考える」という「精神の運動/理性の運動」が「淋しい」という「感情/感覚/感性」へと変わる。
この不思議な「運動」をそとめは形を変えながら「断章」にしていると感じた。
指さきから 本へ 入っていく (26ページ)
「断章」のなかでは、この一行がいちばん印象に残った。「指」は「その」とか「あれ」とか指し示す身振りといっしょにある。「ことば」を「頭」で読むのではなく、「頭」で整理する前の「肉体」で読むときの「感覚」(非論理/未分節の論理)が、「淋しい」感じで動いていると思った。
縦書きの詩の中からは、どの作品を引用しようか。何について語ることができる。「砂丘」について書いてみよう。
砂丘
見えてはいるが だれにも見えはしないもの
「見えてはいるが」「見えはしないもの」。これは「矛盾」。学校作文(文法)なら、どっちなんだ、と怒りだすかもしれない。
しかし、こういう「矛盾」は世界にはあると思う。
「見えている」は「存在している」。「見えていない」は「存在とは意識されていない」ということ。「見る/見える」は「目(肉体)」には「見える」が、「頭(意識)」には「見えない」と読み直すならば、その「存在」は「未分節」のなかにある。「混沌」のなかにある。
ただし、このときの「見る/見えない」「目(肉体)/頭(意識)」というのは、相対化し、固定化できない。
時には「頭(意識)」には見えているが、「肉体(目)」には見えないというものもある。素粒子の運動とか、宇宙の天体の法則とか。
これが現実の「砂丘」について起こりうるか。わからない。けれど、「砂丘」が「比喩」ならば、いつでも起こる。
「砂丘」という「比喩」とはは何か。
私は、先に「断章」で触れた「それ」とか「という」とか、あるいは「こと」を思う。「身振り」では指し示すことができる。けれど、「頭」で整理して、論理的に提示することはできない。
そういう「何か」。
これをそとめは、こう言いなおす。
ずっと忘れないでいる言葉のように
たたずんでいる
「言葉」は「対象」とイコールで結びついていない。むしろ「対象」になる前の何か、「未分節」の何か、混沌のなかにある「未生」の何かと結びついて、何かが生まれてくるのを待っている。この「待つ」をそとめは「たたずんでいる」と言いなおしているように思える。
だれかであると同時に だれでもない
きみの知らない夏が また一つ越えていこうとしている
「だれかである」「だれでもない」という「矛盾」をつなぎとめる「同時に」がこの詩の「核」かもしれない。「矛盾」とは「同時(同じ時間)」であるから「矛盾」。「時間」が違えば、あるいは「場所」が違えば、正反対のものは存在しうる。
「同じ」ところから「違う」もの、言い換えると「矛盾」したものが、生まれる。「言葉」は「矛盾」を生み出してしまう。
「矛盾」を生み出してしまうことばの運動--それが、そとめの詩の「現場」ということになる。
境界をうしなっていくまま
言葉よりも とおくを見つめていた
砂丘
「同時」という瞬間に「境界」はない。「境界」はうしなわれ、そこから「新しい何か」が生み出され、それが「境界」をつくる。「言葉」が「存在」を生み出し、同時に「境界」をつくる。
この運動を、しかし、そとめは私のように「結論」として語るのではなく、最後の2行でたたき壊す。「砂丘」にもどってしまう。
砂丘
見えてはいるが だれにも見えはしないもの
書き出しでは「砂丘」は「対象」。ある人には「見えてはいる」。同時にしあるひとには「見えはしない」。「見る/見えない」の主語は「ひと」である。
最後の二行では「主語」は「砂丘」。倒置法によって、書かれている。ふつうの文章にすると「砂丘は、言葉よりもとおくを見ていた」ということになる。
もちろん「私」を補い、「私は言葉よりも とおくを見つめていた」。そしてそこに「砂丘」があった。「私は砂丘にいた」と読むこともできる。「特定」はできない。
「砂丘」と「人」が、ことばを生み出していくとき、入れ替わってしまう。どちらが「砂丘」、どちらが「人」という「固定」がなくなる。(境界がうしなわれる。)
大きなストーリーが書かれていないのでわかりにくいが、小さな何かにこだわりながら、そういうことを書いていると感じた。
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