金子敦の俳句(「出航」64、2016年12月発行)
フェイスブックで見かけた金子敦の俳句。
「ピラフ」の句がとてもおもしろい。秋の夜、ピラフをつくって食べる。冷凍ピラフを解凍し、たぶん電子レンジで加熱して食べる。フライパンで加熱するよりも、手軽。同時に、まあ、味気ない。それが「独り」ということばにつながっていく。
情景は、だれでもぱっと思い浮かぶと思う。ぱっと思い浮かぶのは、だれでもそういう経験をしたことがあるからだと思うのだが。
おもしろいのは、「解凍して」だね。
電子レンジで「チンして」、あるいはフライパンで「加熱して」の前の「肉体」が描かれている。食べるとき、たいてい、この「解凍して」は忘れてしまう。「解凍して」よりも「チンする」「加熱する」の方が重要だからだ。「解凍して」は肉体の奥に、無意識にしまいこまれてしまう。(電子レンジの場合、解凍から加熱までひとつづきなので、よけいに見えなくなる。)この無意識にしまいこまれた「動詞」を引っぱりだしてきている。あ、そうだ。先に解凍があるのだった。あたりまえのことに、はっと気づかされる。ここに驚き、おもしろいなあと感じる。
「秋燕」の句もおもしろいが、この句の場合、私の「肉体」が動いていかない。宮大工が働いているところを実際に見たことがない。テレビや何かでも、ちらりとは見たことがあるけれど、じっと見たことはない。熟練の宮大工は身軽に動くだろう。若い宮大工も若さ特有の機敏さで軽く動くかもしれない。「ひよい」ということばに身軽さが出ているのだが、熟練の大工と若い大工のどちらを思い浮かべていいのかわからない。どちらを思い浮かべるにしても、それから先は「頭」で考えて感想を書いてしまうことになる。
「雲梯」は、運動会か。あるいは「宮大工」を引き継いで同じ現場か。「子」を宮大工の若い弟子と思えば、前の句の宮大工は熟練者。「ひよい」に対して「息荒し」が対応していておもしろいが、これも私の「頭」の考えたこと。
「廃材」はやはり現場の一画の描写。「さんかく、しかく、ことり、くる」の「く」が小気味よい。「小鳥」が何かわからないが、具体的な名前ではなく「小鳥」が効果的だ。「小」がいきいきしている。
「狛犬」は同じ現場。私は神社へはあまり行かない。近くにある神社にはいちおう「狛犬」はいる(ある)が、稲妻が光れば逃げ出しそうなもの。情景を思い浮かべようとすると、完全に「空想」になってしまう。空想でもいいのだけれど、私には美しすぎるように思える。「頭」で整えた感じ、整えすぎた感じといえばいいか。
「鬱」。曼珠沙華の細い花びらのからみあい(からまってはいないかもしれないが、なんとなくからみそうである)の複雑さが「鬱」の書きにくい感じに通じる。これも、私は「頭」でつかんでしまう。
「瘡蓋」。この句は「鬱」に似ている。「肉体の記憶」よりも「瘡蓋」という「文字」に反応してしまう。子供の頃、夏休みにはよくころんで擦り傷をつくった。それが新学期がはじまるころ、かさぶたになっている、というようなことを思い出したりする。かさぶたには「秋」が似合う。でも似合いすぎて、これはある時期の「現代詩」、とりわけ「抒情詩」がはやったころの雰囲気を感じさせる。「瘡蓋」「秋思」の組み合わせが、新しそうで、意外と古いかもしれない。
「月光」は、なるほど、と思う。「拒む」という動詞が強くて、「ピラフ」の次にはこの句がおもしろいかなあ。獣道自体見えにくいものだが、月が出ていてもなお月を拒むということろに、獣の真剣さが浮かび上がる。いのちの強さが。私は子供時代、山の中で遊び回ったので、そうか、月光さえも拒んでいるのかと感心した。昼間でも、目で見えるというよりも歩いたときに足に感じる草や土の雰囲気で知るのが獣道である。
「写生」ではなく「比喩」と読むのもおもしいろかもしれない。「獣道」は人間が「獣」になるためにあるく道。夜這いだね。月よ照らしてくれるな。
そう読むと、次の「メレンゲ」は男を待っている女が見る月かも。あ、これでは既成のジェンダーにとらわれていることになるかな?
「夜食」は「ピラフ」かな。「吾が猫が」ではなく「吾が膝に」と「吾が」がすれちがうところが、なかなかおもしろい。「吾が膝」なんていわなくても「独り」なら「吾が膝」しかない。「夜食」もそうだが、この「吾が」という一語が「独り」を浮かび上がらせておもしろい。「猫」よりも「吾が膝」の方に、私は注目した。
フェイスブックで見かけた金子敦の俳句。
秋燕や足場をひよいと宮大工
雲梯の子の息荒し葉鶏頭
廃材の三角四角小鳥来る
狛犬の眼に稲妻の走りけり
鬱といふ文字のひしめく曼珠沙華
瘡蓋になりかけてゐる秋思かな
月光を拒んでゐたる獣道
成分はメレンゲならむ月の舟
長き夜やピラフ解凍して独り
吾が膝に猫の擦り寄る夜食かな
「ピラフ」の句がとてもおもしろい。秋の夜、ピラフをつくって食べる。冷凍ピラフを解凍し、たぶん電子レンジで加熱して食べる。フライパンで加熱するよりも、手軽。同時に、まあ、味気ない。それが「独り」ということばにつながっていく。
情景は、だれでもぱっと思い浮かぶと思う。ぱっと思い浮かぶのは、だれでもそういう経験をしたことがあるからだと思うのだが。
おもしろいのは、「解凍して」だね。
電子レンジで「チンして」、あるいはフライパンで「加熱して」の前の「肉体」が描かれている。食べるとき、たいてい、この「解凍して」は忘れてしまう。「解凍して」よりも「チンする」「加熱する」の方が重要だからだ。「解凍して」は肉体の奥に、無意識にしまいこまれてしまう。(電子レンジの場合、解凍から加熱までひとつづきなので、よけいに見えなくなる。)この無意識にしまいこまれた「動詞」を引っぱりだしてきている。あ、そうだ。先に解凍があるのだった。あたりまえのことに、はっと気づかされる。ここに驚き、おもしろいなあと感じる。
「秋燕」の句もおもしろいが、この句の場合、私の「肉体」が動いていかない。宮大工が働いているところを実際に見たことがない。テレビや何かでも、ちらりとは見たことがあるけれど、じっと見たことはない。熟練の宮大工は身軽に動くだろう。若い宮大工も若さ特有の機敏さで軽く動くかもしれない。「ひよい」ということばに身軽さが出ているのだが、熟練の大工と若い大工のどちらを思い浮かべていいのかわからない。どちらを思い浮かべるにしても、それから先は「頭」で考えて感想を書いてしまうことになる。
「雲梯」は、運動会か。あるいは「宮大工」を引き継いで同じ現場か。「子」を宮大工の若い弟子と思えば、前の句の宮大工は熟練者。「ひよい」に対して「息荒し」が対応していておもしろいが、これも私の「頭」の考えたこと。
「廃材」はやはり現場の一画の描写。「さんかく、しかく、ことり、くる」の「く」が小気味よい。「小鳥」が何かわからないが、具体的な名前ではなく「小鳥」が効果的だ。「小」がいきいきしている。
「狛犬」は同じ現場。私は神社へはあまり行かない。近くにある神社にはいちおう「狛犬」はいる(ある)が、稲妻が光れば逃げ出しそうなもの。情景を思い浮かべようとすると、完全に「空想」になってしまう。空想でもいいのだけれど、私には美しすぎるように思える。「頭」で整えた感じ、整えすぎた感じといえばいいか。
「鬱」。曼珠沙華の細い花びらのからみあい(からまってはいないかもしれないが、なんとなくからみそうである)の複雑さが「鬱」の書きにくい感じに通じる。これも、私は「頭」でつかんでしまう。
「瘡蓋」。この句は「鬱」に似ている。「肉体の記憶」よりも「瘡蓋」という「文字」に反応してしまう。子供の頃、夏休みにはよくころんで擦り傷をつくった。それが新学期がはじまるころ、かさぶたになっている、というようなことを思い出したりする。かさぶたには「秋」が似合う。でも似合いすぎて、これはある時期の「現代詩」、とりわけ「抒情詩」がはやったころの雰囲気を感じさせる。「瘡蓋」「秋思」の組み合わせが、新しそうで、意外と古いかもしれない。
「月光」は、なるほど、と思う。「拒む」という動詞が強くて、「ピラフ」の次にはこの句がおもしろいかなあ。獣道自体見えにくいものだが、月が出ていてもなお月を拒むということろに、獣の真剣さが浮かび上がる。いのちの強さが。私は子供時代、山の中で遊び回ったので、そうか、月光さえも拒んでいるのかと感心した。昼間でも、目で見えるというよりも歩いたときに足に感じる草や土の雰囲気で知るのが獣道である。
「写生」ではなく「比喩」と読むのもおもしいろかもしれない。「獣道」は人間が「獣」になるためにあるく道。夜這いだね。月よ照らしてくれるな。
そう読むと、次の「メレンゲ」は男を待っている女が見る月かも。あ、これでは既成のジェンダーにとらわれていることになるかな?
「夜食」は「ピラフ」かな。「吾が猫が」ではなく「吾が膝に」と「吾が」がすれちがうところが、なかなかおもしろい。「吾が膝」なんていわなくても「独り」なら「吾が膝」しかない。「夜食」もそうだが、この「吾が」という一語が「独り」を浮かび上がらせておもしろい。「猫」よりも「吾が膝」の方に、私は注目した。
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