詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子敦の俳句

2016-12-26 15:22:31 | 詩(雑誌・同人誌)
金子敦の俳句(「出航」64、2016年12月発行)

 フェイスブックで見かけた金子敦の俳句。

秋燕や足場をひよいと宮大工
雲梯の子の息荒し葉鶏頭
廃材の三角四角小鳥来る
狛犬の眼に稲妻の走りけり
鬱といふ文字のひしめく曼珠沙華
瘡蓋になりかけてゐる秋思かな
月光を拒んでゐたる獣道
成分はメレンゲならむ月の舟
長き夜やピラフ解凍して独り
吾が膝に猫の擦り寄る夜食かな

 「ピラフ」の句がとてもおもしろい。秋の夜、ピラフをつくって食べる。冷凍ピラフを解凍し、たぶん電子レンジで加熱して食べる。フライパンで加熱するよりも、手軽。同時に、まあ、味気ない。それが「独り」ということばにつながっていく。
 情景は、だれでもぱっと思い浮かぶと思う。ぱっと思い浮かぶのは、だれでもそういう経験をしたことがあるからだと思うのだが。
 おもしろいのは、「解凍して」だね。
 電子レンジで「チンして」、あるいはフライパンで「加熱して」の前の「肉体」が描かれている。食べるとき、たいてい、この「解凍して」は忘れてしまう。「解凍して」よりも「チンする」「加熱する」の方が重要だからだ。「解凍して」は肉体の奥に、無意識にしまいこまれてしまう。(電子レンジの場合、解凍から加熱までひとつづきなので、よけいに見えなくなる。)この無意識にしまいこまれた「動詞」を引っぱりだしてきている。あ、そうだ。先に解凍があるのだった。あたりまえのことに、はっと気づかされる。ここに驚き、おもしろいなあと感じる。
 「秋燕」の句もおもしろいが、この句の場合、私の「肉体」が動いていかない。宮大工が働いているところを実際に見たことがない。テレビや何かでも、ちらりとは見たことがあるけれど、じっと見たことはない。熟練の宮大工は身軽に動くだろう。若い宮大工も若さ特有の機敏さで軽く動くかもしれない。「ひよい」ということばに身軽さが出ているのだが、熟練の大工と若い大工のどちらを思い浮かべていいのかわからない。どちらを思い浮かべるにしても、それから先は「頭」で考えて感想を書いてしまうことになる。
 「雲梯」は、運動会か。あるいは「宮大工」を引き継いで同じ現場か。「子」を宮大工の若い弟子と思えば、前の句の宮大工は熟練者。「ひよい」に対して「息荒し」が対応していておもしろいが、これも私の「頭」の考えたこと。
 「廃材」はやはり現場の一画の描写。「さんかく、しかく、ことり、くる」の「く」が小気味よい。「小鳥」が何かわからないが、具体的な名前ではなく「小鳥」が効果的だ。「小」がいきいきしている。
 「狛犬」は同じ現場。私は神社へはあまり行かない。近くにある神社にはいちおう「狛犬」はいる(ある)が、稲妻が光れば逃げ出しそうなもの。情景を思い浮かべようとすると、完全に「空想」になってしまう。空想でもいいのだけれど、私には美しすぎるように思える。「頭」で整えた感じ、整えすぎた感じといえばいいか。

 「鬱」。曼珠沙華の細い花びらのからみあい(からまってはいないかもしれないが、なんとなくからみそうである)の複雑さが「鬱」の書きにくい感じに通じる。これも、私は「頭」でつかんでしまう。
 「瘡蓋」。この句は「鬱」に似ている。「肉体の記憶」よりも「瘡蓋」という「文字」に反応してしまう。子供の頃、夏休みにはよくころんで擦り傷をつくった。それが新学期がはじまるころ、かさぶたになっている、というようなことを思い出したりする。かさぶたには「秋」が似合う。でも似合いすぎて、これはある時期の「現代詩」、とりわけ「抒情詩」がはやったころの雰囲気を感じさせる。「瘡蓋」「秋思」の組み合わせが、新しそうで、意外と古いかもしれない。

 「月光」は、なるほど、と思う。「拒む」という動詞が強くて、「ピラフ」の次にはこの句がおもしろいかなあ。獣道自体見えにくいものだが、月が出ていてもなお月を拒むということろに、獣の真剣さが浮かび上がる。いのちの強さが。私は子供時代、山の中で遊び回ったので、そうか、月光さえも拒んでいるのかと感心した。昼間でも、目で見えるというよりも歩いたときに足に感じる草や土の雰囲気で知るのが獣道である。
 「写生」ではなく「比喩」と読むのもおもしいろかもしれない。「獣道」は人間が「獣」になるためにあるく道。夜這いだね。月よ照らしてくれるな。
 そう読むと、次の「メレンゲ」は男を待っている女が見る月かも。あ、これでは既成のジェンダーにとらわれていることになるかな?
 「夜食」は「ピラフ」かな。「吾が猫が」ではなく「吾が膝に」と「吾が」がすれちがうところが、なかなかおもしろい。「吾が膝」なんていわなくても「独り」なら「吾が膝」しかない。「夜食」もそうだが、この「吾が」という一語が「独り」を浮かび上がらせておもしろい。「猫」よりも「吾が膝」の方に、私は注目した。

乗船券―金子敦句集
クリエーター情報なし
ふらんす堂
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くりはらすなを『遠くの方で』

2016-12-26 10:01:19 | 詩集
くりはらすなを『遠くの方で』(国文社、2016年12月20日発行)

 くりはらすなを『遠くの方で』の「小景」に、次の断章がある。

駅から歩いて帰る途中、不意にカーブミラーが
目に入る。そこには今まで気付くことのなかっ
た路地が写っている。子供の頃よく見かけた、
道路から細く入り込んでいく道だ。こんな所が
あったことに今まで気がつかなかった。同時に
気味の悪さが襲ってくる。そのまま振り返りも
せず歩く。カーブミラーからは鏡文字の様にひ
っくり返ったままの日常がこちらを覗いていた。

 「今まで気付くことのなかった」ことを書く。それがくりはらの詩である。それは「不意に」やってくる。そのとき「同時に気味の悪さが襲ってくる」。
 どんなふうに気味が悪いか。
 「カーブミラーからは鏡文字の様にひっくり返ったままの日常がこちらを覗いていた」。「鏡文字=ひっくり返る」が気持ち悪いのか。あるいは「覗いていた(覗く)」が気持ち悪いのか。それは切り離せない。鏡とは「ものを映す」ものである。「覗く」としても、鏡を見るひとが自分を覗く。しかし、この詩ではくりはらが「覗く」の主語ではない。くりはら以外のひと(日常)がくりはらを覗いている。
 ただ、それは「事実」かどうかわからない。「気味」とは「気配」。くりはらが感じるだけかもしれない。「感じる」自分を発見したのかもしれない。
 この詩を読みながら、私は、「声」という詩を思い出していた。そこにみカーブミラーが出てくる。

あっちの山から登ってこっちの山を降りてくる
と、くねくねと曲がった林道に出た。民家がひ
とつふたつ離れたところにある。再び曲がった
ところにカーブミラーがあって誰かが立ってい
る。マイクを握って大きな声で話している。み
なさんの生活を、と声は演説をしている。近く
にはその人のものらしいライトバンが止まって
いて、その車の腹の所に政党の名前が大きく描
いてある。聴衆の姿は見えない。家は二軒しか
ないのだから、窓を閉め切ったまま家の中から
覗いているのかもしれない。

 「覗く」も出てくる。
 「見る」だけではなく、「覗かれる」をくりはらは感じるのかもしれない。「応答」と言えばいいのだろうか。反作用といえばいいのだろうか。何かをすれば、その逆のことが生まれる。
 こういう作品もある。「阿佐ヶ谷四丁目の頃」のなかの「階段」。

カーテンを少しだけ開けて外を覗くという癖が
ついていた。道路を挟んだ向かいのアパートに
は細長い鉄製の外階段が付いていて、登ったり
降りたりするたびにガタガタと音をならしてい
た。

その頃私は赤ん坊を抱えどこにも出て行くこと
が出来ずにいた。六畳二間の部屋で身を潜ませ
ていた。

向かいの階段が音を立てている。若い男女が暗
い部屋の小窓で時折見え隠れする。

 「覗く」がやはり出てくる。「覗く」という動詞がくりはらの「肉体」に染みついているので、「覗かれる」という具合に反応するのかもしれない。
 「向かいの階段が音を立てている」はなんでもない描写のようで、なかなかおもしろい。「覗く/見る」は「目」の働き。「音」聞きとるのは「耳」の働き。覗いていないときも「肉体」は「外」を感じている。「外」に向かって開かれている。「音」を「耳」が聞き取り、そのあと「目」が追いかける。そして「目」で「若い男女」が「見え隠れする」のを確かめながら、今度は「耳」で聞こえない「音」を聞こうとする。「音を覗く」のである。
 このあたりの「目」と「耳」の交錯が「覗く」の本質だとしたら……。
 演説を「覗いている」ひとは、当然演説も聞いている。聞こえている。でも、聞いているのではなく、ことばを拒否して、見ているだけかもしれない。
 カーブミラーに映った「日常」は、単に「覗いている」だけではなく、不意にカーブミラーに気づいたくりはらの「こころの声」を「聞いている」かもしれない。「聞こうとしている」かもしれない。
 ここで最初に書いた「気味悪さ」に戻ると。
 「目」が目だけではいられなくなる。「耳」が耳だけではいられなくなる。感覚が融合して、「目」で声を聞き、「耳」で姿を見る。そこから「耳」では聞こえなかった声が生まれ、「目」では見ることのできなかった姿が見える。
 くりはらの「肉体」のなかで、新しい(あるいは原始の、いのちそのものの)「肉体」が目覚める。それは「頭」ではつかみとれない「気(配)」「気味」となって動く。

 詩の形が好きなのかもしれないが、くりはらの書いていることばの運動は、世界を切って捨てる詩よりも、世界とねんごろになる「小説」のような世界の方に向いているかもしれない。詩では「見る」と「覗く」に「耳」がどれだけ深く関係してくるかが描きにくい。短いことばだと、どうしても「図式」になるよう気がする。
天窓―くりはらすなを詩集
くりはらすなを
七月堂
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テレンス・マリック監督「聖杯たちの騎士」(★)

2016-12-26 08:46:45 | 映画
監督 テレンス・マリック 出演 クリスチャン・ベール、ケイト・ブランシェット、
ナタリー・ポートマン、ブライアン・デネヒー、アントニオ・バンデラス

 私はテレンス・マリックの映画が嫌いだ。ケイト・ブランシェットとナタリー・ポートマンが出演していなかったら見に行かなかっただろう。その二人のシーンは予告編で見たのとほとんどかわらない。ナタリー・ポートマンが妊娠したと告白するシーンが目新しいくらい。その部分は、まあ、しっかりと見たが……。
 
 テレンス・マリックの映画は「映像美」が云々されるが(私の見た映画館は「映像美」を味わうのにふさわしい映画館とはいえないが)、どこか「美しい」のか、私にはわからない。
 テレンス・マリックの映像にはふたつの特徴がある。
 ひとつは、人物の「首」から上がうつらないシーンが多い。スクリーンをひとがよぎるとき、首から下だけが残される。水中のシーンでは水面に出ている「顔」は映らずに、下だけが動いている。これは最初に見たときは斬新な感じがした。しかし、「頭」がないために、視線がさまよってしまう。私はどうしても「顔」を見てしまう。「目」を探してしまう。役者の目と私の目があわないので、「人間」を見ている気がしない。「抽象的」に感じてしまう。
 「抽象的」な映像を「美しい」と感じるのは、抽象的な詩(象徴詩)を「美しい」と感じるようなものである。私は頭が悪いので、こういう「意味」のないものにはついていけない。
 もちろん、この「頭なし人間」を「肉体」そのものに焦点をあてた映像(「頭」で整理されていない「肉体」をつかみとる映像)という具合にとらえることもできるかもしれないが……。まあ、こういうのは「屁理屈」だ。人間が映っていないのに「美しい」が独立して存在するなら、それは「人間の否定」である。
 もうひとつは「目のない人間」とつながっていると思うが、画面が揺れる。水平線が水平ではないときがある。「目がない」というのは「目」が一点を見つめないということ。だから「揺れる」。私は目が悪いので、こういう「映像」を見ると、酔ってしまう。「映像美」に酔うのではなく、船酔いか何かのように「頭の中」が酔ったようになる。
 気持ちが悪い。ときどき酔いから逃れるために目をつむる。そしてそのまま眠ってしまう。(私は目をつぶれば10秒で眠れる。)大事なシーンを見逃しているかもしれないが。
 この変な映像趣味は、別なことばで言えば「カメラが演技をしすぎる」ということでもある。役者の演技を超えて、カメラがかってに演技をする。これでは「映画」にならないだろう。誰の視線かわからない映像などてくていい。観客は何よりも役者を見に来るのである。
 マノエル・ド・オリヴェイラ監督のように、カメラをしっかり固定して、役者に演技をまかせろとは言わないけれど、こんなにカメラが動き回っては、「人間の本質」というものが見えてこない。
 室内を、何を映すという目的もないまま、無意味に移動するカメラの動きなど、観客をばかにしていないか。「無(意味)」を映すことで、登場人物の「虚無感」を代弁させているだとしたら、役者をばかにしていないか。役者が「虚無感」を表現できないと思っていることにならないか。
 この「無意味」な映像に、「会話」ではなく「独白」が重なるのも悪趣味である。人間と人間がぶつかるからドラマがある。「独白」が「風景」をさまよえば、それはどうしても「ひとりよがり」になる。

 あ、やっといいたいことばが出てきた。テレンス・マリックは「ひとりよがり」の監督である。
                      (KBCシネマ1、2016年12月25日)

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