橘上『うみのはなし』(mutaormuta@yahoo.co.jp、カニエ・ナハ編集、2016年11月23日発行)
橘上『うみのはなし』は「論理的」な文体で構成されている。そして、「論理的」ということと「矛盾」してしまうかもしれないが、否定と肯定が交錯する。というか、あることばがあって、それが「否定」されるとき、そこに「論理」が浮かび上がってしまう。「否定」が成り立つのは「論理」があってこそなのだ。「肯定」だけだと、不思議なことに「論理」という印象よりも「事実」という感じが強くなる。「否定」によって「事実」が「論理」の側面を持ち始めるということか。
「さよならニセ中野先生」から引用する。
「椿のおいしい季節」「右肩の脇腹化」は奇妙なことば。そういうこと(もの)があるかどうかしらないが、まあ、「想定」することはできる。
このあと「そのことについて話さない」という「否定」を含むことばがつづくと、不思議なことに「架空の想定」が「架空」ではなく「事実」のように見えてくる。「事実」があるから「話さない」。話さなくても「事実」として存在してしまう。「事実」は「知っている」に変化していく。「知る」という形で「肯定」させられる。
「話さない」という「動詞」が、橘の場合、重要だと思う。
「話す」ことは架空のことも話せる。ところが、その架空を「否定」のことばで話の中にとりこむと、話(ことば)が「事実」になり、それから「知る」という形で定着する。
説明しようとすると、面倒くさい。「説明」になっているかどうかわからないが、「否定」が「架空」そのものを「ありえない」こととして否定してしまうのではなく、逆に「ある」から否定が成り立つという感じ。
あ、堂々巡りのことを書いているかな?
詩のつづきは、こうなっている。
「みんなって誰のことでしょうね」には「否定」のことばは含まれていない。「疑問」が書かれている。「疑問」というのは一種の「否定」。「肯定」するときは質問などしない。「疑問(問いかけ)」は、存在を疑うこと。「ない」と問うこと。それが「否定」に通じる。
「呼ばれるんでしょうね」は「推定」。推定には「否定の推定」と「肯定の推定」がある。「誰のことでしょう」と存在そのものへの疑問/存在の否定を、「肯定の推定」でひっくり返す(反論する)ことで、論理が動く。
「推定」そのものが「論理」でもあるなあ。
それから「教えてくれませんでした」という「否定」がくる。「教えるものがある」のに「教えてくれない」。「否定」を語ることで「ある」という「肯定」が引き出される。さらに、この「教えない」が「教える」ということであると言いなおされる。
ごちゃごちゃしているのだけれど、ごちゃごちゃのなかに「論理」が動いていることがわかる。それが橘のことばに、ある種の「力」というか「安定感」を与えている。「事実」かどうかわからないが、「論理という運動」がある。動き続ける、推進力という安定感。安定した運動を支えるエネルギーの豊かさ、豊かさという安定感。
同時に。
たぶん、これが大切。
この「否定」「肯定」「疑問」「推定」のリズムが素早い。ごちゃごちゃしているが、重くない。軽快である。衰えることを知らない。ここにもエネルギーの豊かさ、安定感を感じる。しかも、「明瞭」。
ごちゃごちゃなのに、軽快、明快というのは「口語」だからだね。
「話す」という「動詞」が詩集に何度も登場するが、立場のことばは「書きことば」ではなく「話しことば」なのである。「論理」も「書きことば」の論理ではなく、「話しことば」の論理。
「口語」の特徴は繰り返しが多いこと。ことばを整理する、経済的につかうということは「おしゃべり」ではしない。成り行き任せで、話しながら考える。話しながら「論理」にしてしまう。「
そして「繰り返し」とは相いれないことだが、「飛躍」も多い。「素材が全然違っていました。」なんて、なぜ、そこに「素材」が出てくるのか、わからない。「飛躍」というのはある意味で「論理」の否定(わかりにくい)なのだが……。
そして。
この「わからないものがある」というのが、また「口語」の魅力。
「口語」というのは話す人がいるということ。(書きことばにも書く人がいるのだけれど、あらわれ方が違う。)話す人は「肉体」を持って、目の前にいる。「肉体」はだれでも「過去」を持っている。「過去を持った肉体」がそこにある、「存在感」があることが「飛躍」を促すのである。
あ、あのひと、こういう性格(性質?)だもんなあ、と思う。
役者が舞台の上にいる。その姿だけで、うさんくさいとか、薄倖とか、いろいろ思うでしょ? 暴力団みたいとか、スケベそうだとか。そうすると、そこからそんなことばが出てきても驚かない。「飛躍」がすっとなじんでしまう。
「話しことば」には、そういう特徴がある。「書きことば」だと説明しないといけないものが「話しことば」だと説明なしで通じる。「口調」が「意味」を浮かび上がらせる。
そういう意味では「口調」も「論理」なのだ。「話しことば」のリズムそのものが「論理」なのだ。
いやあ、おもしろいなあ。
で、「論理の飛躍」、あるいは「口語」の「話し手(登場人物)の存在感」ということに目を向けると。
この「ニセ中野先生」の「中野先生」もそうなのだが、橘の詩には「固有名詞」が多い。誰か知らない人が次々に出てくる。それがまた、おもしろい。知らない人(もしかしたら架空の人/虚構)なのかもしれないのに、そこに人がいるように感じてしまう。
「口語」の「論理」が人間を生み出している。
読むべし。
橘上『うみのはなし』は「論理的」な文体で構成されている。そして、「論理的」ということと「矛盾」してしまうかもしれないが、否定と肯定が交錯する。というか、あることばがあって、それが「否定」されるとき、そこに「論理」が浮かび上がってしまう。「否定」が成り立つのは「論理」があってこそなのだ。「肯定」だけだと、不思議なことに「論理」という印象よりも「事実」という感じが強くなる。「否定」によって「事実」が「論理」の側面を持ち始めるということか。
「さよならニセ中野先生」から引用する。
椿のおいしい季節になってきました。先生お元気ですか?
僕は右肩の脇腹化が進んで少し苦しいです。
って誰もそのことについて話さないのに何故みんな知っているんでしょう?
「椿のおいしい季節」「右肩の脇腹化」は奇妙なことば。そういうこと(もの)があるかどうかしらないが、まあ、「想定」することはできる。
このあと「そのことについて話さない」という「否定」を含むことばがつづくと、不思議なことに「架空の想定」が「架空」ではなく「事実」のように見えてくる。「事実」があるから「話さない」。話さなくても「事実」として存在してしまう。「事実」は「知っている」に変化していく。「知る」という形で「肯定」させられる。
「話さない」という「動詞」が、橘の場合、重要だと思う。
「話す」ことは架空のことも話せる。ところが、その架空を「否定」のことばで話の中にとりこむと、話(ことば)が「事実」になり、それから「知る」という形で定着する。
説明しようとすると、面倒くさい。「説明」になっているかどうかわからないが、「否定」が「架空」そのものを「ありえない」こととして否定してしまうのではなく、逆に「ある」から否定が成り立つという感じ。
あ、堂々巡りのことを書いているかな?
詩のつづきは、こうなっている。
おかしいですよね、先生。みんなって誰のことでしょうね。
きっと椿のおいしさを知っているものだけがみんなって呼ばれるんでしょうね。
先生はそういうことを何一つ教えてくれませんでした。
けれど、今になってわかります。
先生はそういう風に教えてくれたってことが。
「みんなって誰のことでしょうね」には「否定」のことばは含まれていない。「疑問」が書かれている。「疑問」というのは一種の「否定」。「肯定」するときは質問などしない。「疑問(問いかけ)」は、存在を疑うこと。「ない」と問うこと。それが「否定」に通じる。
「呼ばれるんでしょうね」は「推定」。推定には「否定の推定」と「肯定の推定」がある。「誰のことでしょう」と存在そのものへの疑問/存在の否定を、「肯定の推定」でひっくり返す(反論する)ことで、論理が動く。
「推定」そのものが「論理」でもあるなあ。
それから「教えてくれませんでした」という「否定」がくる。「教えるものがある」のに「教えてくれない」。「否定」を語ることで「ある」という「肯定」が引き出される。さらに、この「教えない」が「教える」ということであると言いなおされる。
ごちゃごちゃしているのだけれど、ごちゃごちゃのなかに「論理」が動いていることがわかる。それが橘のことばに、ある種の「力」というか「安定感」を与えている。「事実」かどうかわからないが、「論理という運動」がある。動き続ける、推進力という安定感。安定した運動を支えるエネルギーの豊かさ、豊かさという安定感。
同時に。
たぶん、これが大切。
この「否定」「肯定」「疑問」「推定」のリズムが素早い。ごちゃごちゃしているが、重くない。軽快である。衰えることを知らない。ここにもエネルギーの豊かさ、安定感を感じる。しかも、「明瞭」。
ごちゃごちゃなのに、軽快、明快というのは「口語」だからだね。
「話す」という「動詞」が詩集に何度も登場するが、立場のことばは「書きことば」ではなく「話しことば」なのである。「論理」も「書きことば」の論理ではなく、「話しことば」の論理。
僕は言われるまで先生がニセモノなんてわからなかったんですが、言われてみると確かにニセモノでした。
素材が全然違っていました。
まぁ、わかろうがわからなかろうがニセモノはニセモノなんですけどね。
先生は不潔です。
でも不潔なところがいいと思います。
不潔じゃなければもっといいと思います。
不潔な先生がニセモノで本当によかったと思います。
でも不潔じゃない先生もニセモノなので、それはとても残念です。
「口語」の特徴は繰り返しが多いこと。ことばを整理する、経済的につかうということは「おしゃべり」ではしない。成り行き任せで、話しながら考える。話しながら「論理」にしてしまう。「
そして「繰り返し」とは相いれないことだが、「飛躍」も多い。「素材が全然違っていました。」なんて、なぜ、そこに「素材」が出てくるのか、わからない。「飛躍」というのはある意味で「論理」の否定(わかりにくい)なのだが……。
そして。
この「わからないものがある」というのが、また「口語」の魅力。
「口語」というのは話す人がいるということ。(書きことばにも書く人がいるのだけれど、あらわれ方が違う。)話す人は「肉体」を持って、目の前にいる。「肉体」はだれでも「過去」を持っている。「過去を持った肉体」がそこにある、「存在感」があることが「飛躍」を促すのである。
あ、あのひと、こういう性格(性質?)だもんなあ、と思う。
役者が舞台の上にいる。その姿だけで、うさんくさいとか、薄倖とか、いろいろ思うでしょ? 暴力団みたいとか、スケベそうだとか。そうすると、そこからそんなことばが出てきても驚かない。「飛躍」がすっとなじんでしまう。
「話しことば」には、そういう特徴がある。「書きことば」だと説明しないといけないものが「話しことば」だと説明なしで通じる。「口調」が「意味」を浮かび上がらせる。
そういう意味では「口調」も「論理」なのだ。「話しことば」のリズムそのものが「論理」なのだ。
いやあ、おもしろいなあ。
で、「論理の飛躍」、あるいは「口語」の「話し手(登場人物)の存在感」ということに目を向けると。
この「ニセ中野先生」の「中野先生」もそうなのだが、橘の詩には「固有名詞」が多い。誰か知らない人が次々に出てくる。それがまた、おもしろい。知らない人(もしかしたら架空の人/虚構)なのかもしれないのに、そこに人がいるように感じてしまう。
「口語」の「論理」が人間を生み出している。
読むべし。
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