詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

是永駿『宙の上』

2016-12-11 19:41:05 | 詩集
是永駿『宙の上』(書肆山田、2016年11月25日発行)

 是永駿『宙の上』に「文学」を感じた。きのう読んだ高橋紀子『蛍火』(以心社)とは違う意味での「文学」である。高橋の作品は「ことば」と「ことば」の呼応が「文学」の伝統を踏まえている。「文学の肉体」を生きている。「ことば」「文学」は「日本語」「日本文学」ということ。「ことば」の背景に「日本」を感じる。ところが、是永の詩には「日本」を感じない。何かが違う。だが「キリン」を読み、突然、印象が変わった。「あ、文学だ」と納得した。そのことを書く。
 「キリン」のなかに「異国」ということばと「ふるさと」ということばが出てくる。

近くに大きな動物園ができて
キリンが異国の島影を
遠いふるさとの山巓か何かに
思いなして
悠々と丘に放たれる

 「キリン」は是永の詩(ことば)、「比喩」。是永のことばにとって「日本語/日本文学」は「ふるさと」ではない。「異国」である。「日本文学」のなかにある「島影」(少しはなれたところにある存在)を「ふるさと」と「思う」ことで生きている。そういう感じがした。
 それは、「ことば」がつくる「風景」という印象でもある。「風景/現実」があって、そこから「ことば」が生まれてくるというよりも、「ことば」が最初にあって、「ことば」が動くことで「風景」をつくりだしていく。
 「動物園」がほんとうに是永の住んでいる「近く」にできたのかどうか、わからない。私は一行目は「架空/虚構」のことばだと思った。「キリン」ということばがあって、「キリン」が「動物園」を呼び寄せた。「近く」につくらせたと感じた。

悠々と丘に放たれる

 は「キリン」が「放たれる」。では、誰が「放つ」のか。「動物園のひと」かもしれないが、私は是永だと感じた。
 直前の

思いなして

 誰が「思う」の主語か。やはり「動物園のひと」か。是永はそのひとに聞いたのか。たぶん、想像だろう。想像だとしたら、その「思い」はすでに「動物園のひと」のものではなく是永自身のものである。
 キリンが「島影」を「山巓」と思うのでもなければ、「動物園のひと」が「島影」を「山巓」と思うのでもない。是永が、そう思い、思うだけではなく、「思い」を「キリン」に託している。
 「キリン」がすべての「ことば」を呼び寄せる。

海からの風が
目にしたばかりの白い船と
風を生んだ山脈について
語り聞かせる

 この「海(白い船)」は「島影」、「山脈」は「山巓」と呼応している。この呼応は、私の感覚では「日本文学」の「肉体」ではない。もっと広い「空間」を感じる。「キリン」は「異国」を呼び寄せる。「キリン」自体が「異国」の存在だから当然なのかもしれないが、この呼吸は高橋の呼吸とはずいぶん違うと感じる。(きのう高橋の詩を読んだから、そう感じるだけかもしれないが。)

金柑の実をカリリといわせる頃には
冬の風が
キリンの耳を驚かせる
やがて
風の中の
サバンナの草の匂いが消え
囲われた柵が
廃墟のように立ちふさがる
そして
輝き始めた夏の日に
逃れようもない
氾濫する幻覚
遠い異国の地で
キリンは哀しみの葉を食べている

 「哀しみの葉」。「意味」はわかる。「哀しんでいる」ということを「哀しみを食べている」という「比喩」であらわし、「哀しみ」を「葉」と言い換えることで「実体化」している。実際に葉があるわけではない。「金柑の葉」を食べているわけではない。「哀しみ」が「葉」を生み出し、それを食べている。書かれているのは「現実/事実」ではなく、「ことば」が呼び寄せた何かなのである。

 「朱夏」という作品。

左の耳のうしろあたりに
光の穂が降りてきて
眼球が軽くなる
ほのめく闇の奥にひとつの果実

球体の月が夏の真昼の空に浮かぶ

 「月」ははじめから存在しているのではない。一連目の「光」と「闇」の呼応が「眼球」と「果実」を動かし、「月」として生み出されている。ことばが生み出した「光景」である。
 「現実」から「ことば」を探しているのではなく、「ことば」から「現実」を探り当てている。「ことば」で「現実」の奥に入り込み、基底から「現実」をつくりなおしている、という感じがする。

 詩集のタイトルとなっている「宙(そら)の上」は、この運動が過激である。

昨日(きのう)から
このハスの葉を塒(ねぐら)に
雨蛙が一匹
明けて今朝は
息をひそめて
宙を仰いでいる
浮雲に何かあるかの如く
雨蛙が注視するのは
天女淫する宙の上

 これは「地上の光景」。「明けて今朝は」というのは「時間の経過」をあらわしているというよりも、「時間」を動かして「今朝(きょう)」を生み出したもの。ハスの葉の上に蛙がいることは珍しくないから「現実」と思ってしまうが、蛙が「天女淫する宙の上」を「注視する」となると、「現実」ではない。
 是永が「雨蛙」になって「ことば」を動かし、「光景」をつくりだしている。
 「ことば」がつくりだす「光景」というのは「現実」にはしばられない。「ことば」の欲望が「現実」を生み出していく。「ことば」の欲望とは、ことばを書く是永の欲望であり、本能のことになる。

(宙の上では)
わたしがこうやって
踊りを踊ることなど
何でもありゃしない
いつまででも踊ってあげる
でも踊っているうちに
体が火照ってくるのを時々
冷やしてほしいの
いいでしょ
あなたの冷たい体で
あなたは動かなくていいの
わたしがぜんぶ
やってあげる
あの町ではあなたが
何もかもしてくれたわ
その恩返しよ
耳のつけかえなんて
わたし得意なんだから

 (宙の上では)という二連目の書き出しがとてもおもしろい。「地上(雨蛙)」から「宙の上」へと「世界」を転換するとき、わざわざ「宙の上では」と書いている。そう書かないと「宙の上」が生まれてこない。
 ここに是永の「思想」がある。書かないと「現実」が生まれてこないということは、書けば「現実」が生まれるということ。是永は「ことば」によって「現実」を生み出す。
 「踊っているうちに/体が火照ってくる」は「ことば」を書いているうちに「ことばが詩になる(熱くなる/火照る)」ということだろうか。それをときどき「あなた(読者)」に向かって投げかける。「ことば」を受け止めてほしい。その「ことば」はいままでの「耳」では聞き取れないかもしれない。だから「耳」ごとつけかえてあげる、と言っているように私には思える。
 「読者」に「新しい耳」を「生み出す」。「耳をつけかえる」。それが「詩(ことば)」の仕事だ。天女は是永の自画像である。

 私は詩集を一読して感想を書き始めたが、「耳をつけかえられた」のだとしたら、「新しい耳」で読み直さないといけないのかもしれない。「新しい耳」に是永のことばがどう響くか。それを書かないことには(この感想を書き直さないことには)、感想にならないのかもしれない。しかし、そうしてしまえばそれはそれで、いま書いたことばをすべて封印してしまうことになる。だから(?)、動いたままを、いましか書けないことを書いておく。






宙の上
是永 駿
書肆山田
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「この世界の片隅で」「君の名は」

2016-12-11 09:52:10 | 映画
「この世界の片隅で」「君の名は」

 映画を見ないで、感想を書くのは邪道なのだが。
 私はいま評判の2本のアニメを、見たいという気持ちになれない。
 「この世界の片隅で」は戦争時の「暮らし」を描いている。「反戦」と声高に語っていない(イデオロギーがない)ところがすばらしい云々と喧伝されている。
 黒木和雄監督「TOMORRO/W明日」(出演・桃井かおり、原作・井上光晴『明日・1945年8月8日・長崎』)とどう違うのだろう。舞台が長崎から広島にかわっている。もちろん、それぞれの「場」で戦争と暮らしは描かれなければならないのだが。広島は広島で、そのときの「暮らし」を描きのこすことは大切とわかっているが、「評判」のあり方が気になってしようがない。「評判」を聞くと気がそがれてしまう。
 「8月8日」は「8月9日」の一日前。「明日、8月9日」には長崎に原爆が落とされる。それを知らずにつづく「一日」。そのなかにある「暮らし」。これを群像劇で描いている。
 そのなかで、桃井かおりが「お手玉」をみつけ、それをほぐし、あんこをつくるシーンが大好きである。「ああ、おいしい」と味見するシーンに涙が出た。お手玉にはお手玉の「思い出」があるだろう。それを突き破って「お手玉には小豆が入っている。小豆があればあんこがつくれる」と思う瞬間の「意識の飛躍」。生きたい、甘いものを食べたい、という「欲望/本能」が「思い出」に勝つ瞬間と言えばいいのだろうか。それが、たまらなく美しい。かなしい。いとおしい。
 無事出産した赤ん坊をみつめ、おっぱいを含ませる桃井かおりのシーンも思い出すが、なによりも、お手玉をほぐしてあんこをつくるシーンが好き。

 「TOMORROW/明日」は、「この世界の片隅で」を勧めてくれたひとの話では1988年の映画。30年ほど前の映画である。そのときもたしか「日常が淡々と描かれている」というような評価が多かった。ただ、そのときは「反戦」と叫んでいないからすばらしい、イデオロギーがないからすばらしい、というような声は、私は聞かなかった。
 いまなぜ、たぶん同じスタイルの作品が「反戦」を叫んでいない、イデオロギーがないという形で評価されるのか。そこに、とても疑問を感じる。戦時中の「暮らし」の工夫、必死に生きていくひとの姿は、それだけで思想(イデオロギー)である。しあわせに生きたいという思想より大切な思想はない。幸せを考えない思想など、存在しない。
 ふつうのひとの、ふつうの暮らしのなかの思想。それを「反戦」ではない、「イデオロギーがない」というとき、そのことばが狙っているものは何だろう。「思想」隠しは、なぜ、おこなわれるのだろう。
 戦争が起きたとき、「戦争反対」と「イデオロギー」を叫ぶのではなく、「ふつうの暮らし」をしつづけろ、食料が乏しいなら工夫しろ、という具合に働きかけてこないか。「我慢して生きるよろこびをみつけろ」という具合に、働きかけてこないか。
 戦争法が施行され、安倍の手で戦争が着実に準備されている。暮らしの大切さなど無視して、年金は切り下げられるということが実際に起きようとしている。こうしたことに不平をいわず「日々の暮らしを工夫し、生きるよろこびをみつけろ」ということばとなって跳ね返ってこないか。
 私は、それが心配である。
 監督の意図は知らない。しかし、「この世界の片隅で」は確実に安倍の政策に利用される形で喧伝されている。
 実写ではなく、「アニメ」であるというのも問題が多い。アニメには「美化」が入り込みやすい。主人公が暮らしのなかで工夫することがらは、「実物」では違った映像にならないか。予告編(だったと思う)に登場する野の草を利用して料理するシーンなども、実際につくったものを「実写」すれば、アニメほど美しくは見えないかもしれない。おいしそうに見えないかもしれない。そこに問題がある。
 「TOMORROW/明日」のお手玉と小豆、あんこは、私の世代ではとても身近である。お手玉一個のなかに入っている小豆の量を知っている。一握りに満たない。それを煮て、あんこにして、食べる。その切実さが「肉体」に響く。
 私は田舎育ちだから、野の草(山菜)を食べるのは「日常」だった。腹が減ればスカンポと呼ばれるすっぱい草やゴボウのように黒い野草の茎もかじった。「肉体」は、そういうことを覚えている。アニメでは、その「肉体の記憶」が変に洗い流され、「美化」されているように感じる。「肉体」に「もの」が直接迫ってくるのではなく、ストーリーとして「頭」に侵入してくる。
 「この世界の片隅で」は、どんなに「暮らし」を描こうと、それは「頭」に入ってくるストーリー(架空)でしかないような気がする。「感情移入」が「肉体」ではなく、「頭」経由になる。「反戦」と叫んでいない、「イデオロギー」がない、というのは「頭」経由の「頭」拒否のことばである。「思想」を「頭」の「仕事」と考え、「頭」を拒否する。自分で考えない。「考える」こと、「思想」は「指導者(独裁者)」にまかせて、ふつうのひとは「暮らしを工夫するだけでいい」ということなってしまいそうである。
 独裁者は「考えない肉体」を求めている。独裁者の思想にそって動く「肉体」をもとめている。「戦争」をするのは「頭」ではなく「肉体」である。「肉体」がなければ「戦争」はできない。
 戦争は怖い、死ぬのはいやだ、という「肉体/本能」の拒絶反応(思想)を、私は大切にしたい。「肉体感覚」のないものは、警戒したい。
 
 あ、かなり脱線したか。
 もう一本の「君の名は」はポスターがとても美しい。少年のシャツの上の木漏れ日、あるいは木の葉の影と言えばいいのか、光と影のバランスが美しい。実写でも同じ美しさをスクリーンに定着できるかどうか疑問である。「この世界の片隅で」で触れた「美化」の問題が、この映画では拡大されていない。その「拡大」が「麻薬」のように「頭」を汚染していないか。
 「現実」と「芸術」は違う。「映画」も「芸術」だから、実写だからといって、そこに「人工的な操作」が行われていないというわけではないのだが。
 「この世界の片隅で」のポスターの木漏れ日を見て、私はルノワールの絵を思い出した。印象派の木漏れ日の描き方、影の色を思い出した。「色」は他の色とのバランスの上で選択されている。操作されている。そういう作品を見たあとでは、私たちは(私だけかもしれないが)、「現実」を「芸術」をくぐり抜けた形で見てしまう。「現実」が「芸術」を模倣しているように感じる。
 「美化(芸術化?)」された映像をとおして、「美化」されたストーリーを見る。これでは「頭」が「美」以外のものを拒絶するだろう。「美化されたストーリー」以外を、「頭」は受け付けなくなるだろう。

 私はなんとなく不気味なものを感じている。
 「この世界の片隅で」「君の名は」はまったく別の映画なのかもしれないが、私は、その「人気」の奥底に「共通」のものを感じる。

 映画を見て、そのうえで批判すべきなのかもしれないが、私は目が悪くてあまり多くの映画を見ることができない。もっと見たい映画がある。だから、見ないまま、思ったことを書いておく。
 「この世界の片隅で」に感動したひとは、ぜひ、「TOMORROW/明日」を見てほしい。「美しい夏キリシマ」と、時間があれば「祭りの準備」「原子力戦争」も見てほしいなあ、と思う。「この世界の片隅で」を見ないくせに、こんなことを書くのは「反則」かもしれないが。









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