詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の真珠湾演説(「和解の力」って何?)

2016-12-28 21:31:46 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の真珠湾演説(「和解の力」って何?)
               自民党憲法改正草案を読む/番外60(情報の読み方)

 2016年12月28日読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面が安倍の真珠湾慰霊を報じている。見出しは、

首相 真珠湾慰霊/日米首脳「和解の力」/オバマ大統領と献花

 「和解の力」ということばにつまずいた。「意味」がわからない。2面に「真珠湾演説の全文」が掲載されている。それによると、

 私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation 、「和解の力」です。

 とある。「英語」を翻訳したものだということがわかる。私は英語を話す人間ではないので、こういうことばがあるのかどうか、わからない。だれかの有名なことばなのだろうか。そうであるなら、「出典」を言うべきだろう。
 同じ演説の中には、こういうくだりがある。

 The brave respect the brave.
 「勇者は、勇者を敬う」
 アンブローズ・ビアスの、詩は言います。

 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
 「永続する平和を、我々全ての間に打ち立て、大切に守る任務を、やり遂げる」。
 エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。

 いずれも「出典」が明示されている。(ただしリンカーンのことばには「原文」はない。)
 いったい安倍は

the power of reconciliation 、「和解の力」

 を、どうやって「思いついた」のか。
 私は安倍に対してたいへん意地悪な人間なので(会社の同僚に言われた)、ここでも「意地悪」を発揮する。
 日本人なら、まず日本語で考えるべきである。(安倍が、ネイティブと同様に英語を使いこなし、いつも英語で思考しているなら、私の批判は当たらないが。)
 日本語の表現には、そのままでは英語(外国語)にならないものもあるだろう。それはしかし、「翻訳」の問題であって、考えること(思考)の問題ではない。
 the power of reconciliation が英語として「なじみ」のある表現だとしても、日本語の「和解の力」は奇妙である。「真新しい」。こういう「真新しい」ことばというのは、人が「うそ」をつくときにつかう。
 「和解の力、って何ですか?」
 「そんなこともわからないのか。わからなければ、自分で調べろ」
 ここには「おまえの知らないことばを知っているから、おれの方が正しい(偉い)」という「主張」が隠れている。「和解の力」という前に「the power of reconciliation 」というところが、さらに曲者である。
 「おれは英語を知っている。英語ではこういうんだ。英語を知らない人間はだまっていろ」
 ということである。
 真珠湾での演説、アメリカ国民に向けての演説だから、それでもいいのかもしれないが、日本を代表して演説しているのだから「日本人の心」を語ってほしい。

 わけのわからないことばは、しめくくりでもつかわれている。

 パールハーバー。
 真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
 私たち日本人の子供たち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子供たちが、またその子供たち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。

 「和解の象徴」。どうして、真珠湾が「和解の象徴」になるのだろう。真珠湾には何か両国が力を合わせて作り上げたものがあるのだろうか。
 「和解」とは争っていたものが争いをやめて、争いの原因を取り除くことである。そのとき、たぶん何かを新しく生み出す。争いの原因を取り除くだけではなく、克服した証として何かを生み出す。その生み出されたものが「和解」の証(象徴)というのなら理解できるが、「アリゾナ・メモリアル」はアメリカ国民と日本国民が共同して作り上げた「記憶」の展示館なのか。
 逆に言いなおしてみようか。
 たとえば広島の原爆ドーム。広島の原爆資料館。長崎の資料館。それは「和解の象徴」と呼べるか。だれも、そんなふうには呼ばないだろう。
 「和解の力」とか「和解の象徴」ということばは、聞こえがいいが、私には「うそ」にしか聞こえない。

 もっと真摯に語るべきは「和解の力」の前に述べられている「寛容の心」だろう。許すこころの広さ。大きな犠牲を払った。しかし、そのことについて犠牲を強いたひとを攻めることはしない。非難はしない。だが、この大きな犠牲を直視してほしい。そして忘れないでほしい。たぶん、アリゾナ・メモリアルを訪れる日本人に対して、寛容なアメリカ人はそう言うだろう。広島・長崎を訪れるアメリカ人に対して、寛容な日本人はそう言うだろう。
 オバマは広島で「謝罪」しなかった。安倍も真珠湾で「謝罪」しなかった。寛容な人なら言うだろう。「謝罪」よりも、ここに記録されていることを忘れないでほしい。多くの人々のことを忘れず、そのひとたちの願っていることを実現してほしいと言うだろう。
 「和解」は結果であって、「和解」へとつながる「寛容」こそが大事なのだ。「和解」は「結果」だが、世界は「結果」のあともつづいていく。「和解」のあとに何をするかの方が重要である。「和解」で終わらせるのではなく、そこから何を持続し、つくりだすか。
 読売新聞は安倍の演説を「未来志向に力点」という見出しで要約しているが、「和解の象徴として記憶する」では、どこに「未来」があるのか、私にはわからない。

 ことばと引用、出典について、もうひとつ。
 演説の前半にとても感動的なことばがある。

 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
 私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
 戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 私は「日本国憲法の前文」と「第9条」を即座に思い浮かべた。

日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 「戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩み」とは「平和憲法(戦争の放棄)」と一体のものである。「不動の方針」とは「憲法」のことである。
 なぜ、ここで、安倍は「不動の方針」である「日本国憲法」を引用しないのか。英語で書かれただれそれのことばを引用するのではなく、日本人がだれでも知っている日本のことば、「日本国憲法」を引用して「決意」を表明しないのか。「日本国憲法」を引用すれば、安倍の語ったことばは、即座に「日本国民のこころ」そのものになる。安倍の演説を聞いたアメリカ人に「日本人の決意(誠意)」がつたわるはずである。
 アメリカの「寛容」に応えるために、日本人は「日本国憲法を守る」と言える。そのとき、「日本国憲法」は、それこそ「和解」の「象徴」である。
 そんなふうに言えない安倍のことばは、すべて「うそ」である。
 アメリカは真珠湾攻撃を「寛容」のこころ(力)で許してくれた。だから、その「寛容」に応えるために、アメリカの代わりに「戦争」に行きます。アメリカ軍が行きたくないところへ、自衛隊を行かせます。アメリカから兵器を買います。アメリカの軍需産業を支えます。自衛隊の海外派兵、アメリカからの兵器の購入は、アメリカと日本の「和解の象徴」です、というのが安倍の「ほんとう」のことばなのだ。それを伝えるために安倍はオバマに合った。その「約束」がオバマの花道を飾り、トランプへとつづいている。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
谷内修三
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天皇生前退位の「論点」、あるいは「口封じ」の手口

2016-12-28 15:37:04 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇生前退位の「論点」、あるいは「口封じ」の手口
               自民党憲法改正草案を読む/番外59(情報の読み方)

 2016年12月28日読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面に、次の見出し。

退位論点 来月23日公表/有識者会議調整/法制化理由 焦点

 記事では、「前文」でこう書いてある。

特例法を制定し、現在の天皇陛下にかぎった退位の実現を求める方向性を打ち出す方針だが、退位理由をどう説明するかが焦点となっている。

 これを「末尾」で、こう言いなおしている。(番号は、私が便宜上、振ったもの)

 焦点となっているのは、
(1)なぜ退位を可能とする法整備を行うかという点の書きぶりだ。
天皇は「国政に関する権能を有しない」と定める憲法4条との関係から、
(2)陛下の「意思」を退位理由にすることは難しいとの見方が強い。
同会議は「高齢」を退位理由とすることも検討したが、
(3)「何歳から高齢なのか定義できない」との意見が相次いだため、
(4)報道各社の世論調査などで「多くの国民が退位を支持している」ことを理由とする案が有力になっている。

 いくつかの疑問を感じる。要点から言うと、(4)に特に疑問を感じる。
 世論調査ではたしかに「多くの国民が生前退位を支持した」。しかし、これは天皇が「生前退位」の意向を持っているということがニュースになり、その後、天皇が8月8日にビデオでメッセージを放送した直後のものである。「多くの国民」は、天皇の「意向」に対して安倍がどういう姿勢で向き合っているのか知らない状態で「生前退位」を支持した。ビデオ放送からすでに4か月が過ぎた。その間に、国民の意見は変わっているかもしれない。簡単に「多くの国民が退位を支持している」とは判断できない状況ではないのか。4か月前の「判断」をそのまま採用するというのは無責任である。
 4か月の間に有識者会議が何回か開かれた。専門家がヒアリングに応えている。それを読んで国民はどう考えたか。それを重視しないといけない。4か月の間に起きたことを省略するのでは有識者会議の意味もないだろう。
 そして、これがさらに重要なのだが、この4か月間、有識者会議は国民に向けて、どれだけ情報を提供したか。国民からどれだけ「意見」を聞いたか。単に「密室」で専門家から意見を聴き、それをつまみ食いして「論点」を生理用としているだけである。
 これは民主主義に反する。
 広く国民から意見を聞きとる工夫が省かれている。世論調査も有識者会議が主体となって調べたものではない。他の機関が調べたものを、精査もせずに採用しようとしている。都合がいいから、それを「つまみ食い」する。専門家の意見を「つまみ食い」しながら論点を整理するのと同じ方法である。
 そこでは少数意見が無視されている。議論も無視されている。「主張/意見」というのは他人の意見に触れることで変わるものである。その変化を大事にし、意見の向かう先を見極める。これが民主主義である。
 そういう「手間」を省いたものは民主主義とは言えない。「手間」を省きながら、最後は「国民の多くが支持している」と自分たちの責任を放棄している。責任を「国民」に押しかぶせている。
 こういういい加減なあり方でいいのか。
 最初から「結論」があって、それを打ち出すために「国民」を利用している。

 (3)は、もっともらしく聞こえるが、今後のことを考えると危険なものがある。有識者会議は「一代限りの特例法」を念頭に置いているようだが、先に御厨が「一代限りであっても、特例法を今後に適用できる」というような発言をしていた。
 これは次に天皇になった人が、たとえ「高齢」でなくても「退位」させる口実になる。「85歳で退位」と決めておけば「85歳」になるまで退位させることができない。それでは不都合だから、年齢を設定しないということだろう。いつでも政権にとって不都合な天皇(政権が口封じをしたい天皇)の場合は、「高齢」の「年齢設定」があっては困る。だから、設定せずにおく。
 そしてそのとき、きっと「国民の多くが天皇の退位を支持している/望んでいる」という形でまた「国民」が利用される。

 (2)も逆に読むべきだろう。天皇が「退位したい」という意思を持っており、それに従うことは憲法違反になる、というよりも、天皇が「退位したくない」といったときにどうするかを考慮に入れているのだと思う。天皇の「意思」ではなく、政権の「意思」をどう反映させるか。政権の「フリーハンド」を残しておくために、「天皇の意思」に従うことは憲法違反であると言うのである。

 私の読み方は「妄想」に満ちているかもしれない。
 しかし、ことばは、どう読むことができるか。裏から、表から、斜めから、点検する必要がある。
 「TPP反対とは一度も言ったことがない」と平気で嘘をつく安倍が設置した有識者会議である。安倍のように平気で嘘をつく、と考えて向き合わないといけない。

 これは(1)の問題につきあたる。
 「書きぶり」ということばを読売新聞はつかっている。
 「結論」をどう書くか。書き方次第では、違った読み方ができる。外交文章では、あることばを自分の国のことばでどう翻訳するかということが常に問題になる。「ことばの意味」は「ひとつ」ではない。
 新聞ではこう書いてある。テレビでは、こう言っている。それを「私のことば」で読み直すと、どうなるか。「私」の「多様性」で、「多様な読み」をつきあわせる。そして考えるということが重要である。

 きのう、天皇の「新年の感想」が来年は中止になるということについて書いた。天皇のことばは「天皇の見た現実」である。天皇は象徴だけれど、ひとりの人間でもある。「個」である。つまり「多様性」の「ひとつ」である。その「多様性」の「ひとつ」が安倍によって弾圧され、消される。

 籾井NHKが「天皇の生前退位」をスクープしたあと、宮内庁長官が風岡典之から西村泰彦に変わった。このとき、世間では「天皇の気持ちを抑え込めなかった風岡への、安倍からの報復人事」という見方が広がった。
 私は、逆だと思っている。
 籾井NHKをつかって「天皇の生前退位」という問題を表面化させ、それを利用して天皇の口封じをするというのが安倍の動きの基本である。口封じを加速するために西村を送り込んだのである。
 「報復人事」などというの「書きぶり」は世間を興奮させる。問題を見えにくくする。それに「報復人事」を全面に出すと、その影響で「天皇が自分の意見を言う」ということが「憲法違反」という印象を強くすることにもなる。悪いのは天皇。悪いことをする天皇を抑えきれなかった風岡を更迭するというストーリーを全面に出すとき、安倍の天皇の口封じというストーリーは背後に隠れる。
 安倍は天皇の口を封じるためなら何でもする。
 「生前退位」問題も、突然のものではなく、すでに事前に何度も宮内庁(天皇)と官邸は交渉している。官邸が「摂政ではだめなのか」と提起し、天皇が「だめだ」と応えたらしいことは報道されている。すでに安倍が熟知していることが表面化しただけである。そうであるなら、それは「表面化した」というよりも、「表面化させた」ととらえるべきである。
 「表面化」させることで天皇の口封じを加速している。
 天皇の退位問題をどうするかは憲法に関係してくる問題なのに、それを「特例法」という場当たりで解決しようとしているところからも、天皇の口封じをするのだという安倍の「強い決意」を私は感じる。

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河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』

2016-12-28 09:59:50 | 詩集
河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』(ミッドナイト・プレス、2016年10月28日発行)

 河江伊久『冬の夜、しずかな声がして』には「散文詩」が多い。小さなストーリーという感じもする。ストーリーといっても、「結末」があるわけではない。あるのかもしれないが、私は「結末」よりも、ことばが動いていく動き方の方がおもしろいと感じた。
 ただ、私の感じ方は「誤読」としかいいようのないものかもしれないので、このまま感想を書いていいのかどうか、ずいぶん迷った。
 「六本木猫坂」の書き出し。

丹阿弥坂と四十五度の角度で交わっている小さな坂がある。
名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく、その姿を見かけない
日はない。二つの坂が交わった所に小さな二階家があり、外階段が張り出し
ている。その天辺に黒猫がいて、下から三段目に雉猫がいる。二匹は睨み合
うでもなく、見つめ合っているわけでもない。

 二行目の「その」というのは「猫」のことである。「猫の姿を見かけない日はない」と河江は書いている。
 わかっているのだが、私は「誤読」する。
 「その」を「二つの坂」と読んでしまう。「二つの坂を見かけない日はない」と読む。さらに「二つの坂」のうち「名もない坂」と読んでしまう。名もない坂だから「その」という指し示しを「名前」のかわりにしてしまう。そしてそこを通るたびに「その坂」を見てしまう。
 「坂」は動かないから、常にそこある。「見かけない日」ということがある方がおかしい。でも、なぜか、そう読んでしまい、「そうか、そこに来るたびに河江は坂が交わっていることを確かめるのだな」と思う。
 坂が二つ交わっているという「事実の確認」があって、それが次第に「事実」を広げていく。そのひとつが「猫」である。その坂に「猫がいる」。それから「二階家」がある。「外階段」がある。もし坂が交わっていなかったら、そのすべてが「ない」。そう感じる。「四十五度」で「交わる」という坂のあり方が「二つの坂」を生み出し、そこから「猫」や「二階家」「外階段」がさらに生み出されていく。
 それが証拠に。
 「名もない小さな坂だが猫には居心地がよい場所らしく」と書かれていた「猫」はいつのまにか「坂」ではなく「外階段の天辺」と「下から三段目」に「黒猫」と「雉猫」にかわってしまって、「外階段」にいる。「居心地のよい場所」は「坂」ではない。「外階段」である。
 で。
 と区切ってしまうのは、私の「飛躍」なのだが。
 「その天辺に黒猫がいて」というときの「その」は「外階段」だね。この「その」を私は「誤読」しないのだが、その「誤読しない」が逆に「誤読」だと私は感じてしまう。
 奇妙な言い方になるが、ここでも私は「猫」を忘れてしまう。「猫」よりも「階段の天辺」と「下から三段目」の方に「視線」が集中してしまう。
 妙にずれるのだ。
 「猫」が描かれているのに、「猫」ではないものの方が「具体的」に見えてきて、「猫」はその「具体的なもの」の陰に隠れていく。まるで「猫」が「具体的なもの」を次々に生み出していく。
 あれっ、最初、私は「坂」が他のものを生み出していく、と書いたのではなかったっけ? そう書いたはずである。それが「その天辺に」の「その」を読んだ瞬間から、とらえどころのない何かに引っぱられて、「猫」が他のものを生み出していくと感じている。
 「坂」が「猫」を生み出し、「二階家」「外階段」生み出したように、「猫」が「外階段の天辺」と「下から三段目」を生み出す。
 「ストーリー」が進むに連れて、更に変わっていく。生み出されるものが変わっていく。

 「その」ということばには不思議な力がある。魔力がある。
 「その」とは「指し示し」である。「意識」の持続というか、引きずりというか、粘着力というか。よくわからないが、何かをつないでゆく。その「つなぎ(持続)」のために、本来なら「個別」の存在であるべきものが、どこかで「融合」する。
 「坂」と「猫」は「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できなくなる。「猫」と「階段」も「その」ということばで結びついて、入れ替わる。特定できないというよりも、どっちがどっちでもいいという感じ。
 この詩には、このあと「男(風来坊)」が登場する。この男には、

男もその一人かと思っていた。

 という具合に、また「その」がついて回っているのだが、たぶん「その」があるために「わたし」とくっついてしまう。「わたし」が「その男」を呼び寄せる。

ある日、わたしが外階段の下に座ると、雉猫が隣に移動してきた。黒猫と雉
猫、風来坊とわたしが外階段の上と下に向き合って座っている、ただそれだ
けだ。

猫たちはそうやって対話しているのかもしれないが、人間たちは違う。見つ
め合うのはつらいので互いに違う方向を見ている。わたしがたまたまそこを
通りかかったついでに、座ったまでだ。そこを通りかかると、つい座りたく
なる。すると、雉猫がわたしの隣に移動してくる。そして猫と人間の二組が
向き合う図になる。

 と、ここまで読んで、私はまた「はっ」とする。「誤読」する。「誤読」だと気づきながらも、その「誤読」のなかに入っていってしまう。
 「二組」ということば。これが「その」なのだと気づく。
 「その」という「指し示し」があるとき、そこには必ず「対象」と「対象を意識するもの」が存在する。「二」が存在し、それが「組」になっている。そして、それが「組」であるからこそ、相互に入れ替わりが可能なのだ。
 「二」はすでに「二つの坂」「二匹」という形で出てきている。「二階家」にも「二」がある。「外階段」にも「天辺」と「下から三段目」という「二つの一」がある。それは単に「二」ではなく「組」である。
 入れ替わり可能とはいうものの、その「二」は違った存在なので、完全には入れ替われない。入れ替わるためには何かを捨てる、あるいは何かを身につけないといけない。「捨てる」と「身につける」が交錯しながら、「二」にはなかったものを生み出し続ける。
 これを「組」の力と読むことができる。河江の詩なかに「キーワード」を探すとしたら、「組」ということになる。
 「組」は「組む」という「動詞」からうまれている。「組む」は「かかわる」でもある。「その」という「指し示し」が「組む」を過剰にする。刺戟する。つまり、傍らを通りすぎるのではなく、「絡み合う」という形で動き、絡み合いが何かを生み出すのだ。
 これが河江のことばの運動かもしれない。

 これでは「批評」にはならないし、「感想」にもならない。つまり「論理的」に言及したことにならないのだが、何かに引っぱられて、私はこんなことを考えたのだった。

冬の夜、しずかな声がして
クリエーター情報なし
ミッドナイトプレス
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