安倍の真珠湾演説(「和解の力」って何?)
自民党憲法改正草案を読む/番外60(情報の読み方)
2016年12月28日読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面が安倍の真珠湾慰霊を報じている。見出しは、
「和解の力」ということばにつまずいた。「意味」がわからない。2面に「真珠湾演説の全文」が掲載されている。それによると、
とある。「英語」を翻訳したものだということがわかる。私は英語を話す人間ではないので、こういうことばがあるのかどうか、わからない。だれかの有名なことばなのだろうか。そうであるなら、「出典」を言うべきだろう。
同じ演説の中には、こういうくだりがある。
いずれも「出典」が明示されている。(ただしリンカーンのことばには「原文」はない。)
いったい安倍は
を、どうやって「思いついた」のか。
私は安倍に対してたいへん意地悪な人間なので(会社の同僚に言われた)、ここでも「意地悪」を発揮する。
日本人なら、まず日本語で考えるべきである。(安倍が、ネイティブと同様に英語を使いこなし、いつも英語で思考しているなら、私の批判は当たらないが。)
日本語の表現には、そのままでは英語(外国語)にならないものもあるだろう。それはしかし、「翻訳」の問題であって、考えること(思考)の問題ではない。
the power of reconciliation が英語として「なじみ」のある表現だとしても、日本語の「和解の力」は奇妙である。「真新しい」。こういう「真新しい」ことばというのは、人が「うそ」をつくときにつかう。
「和解の力、って何ですか?」
「そんなこともわからないのか。わからなければ、自分で調べろ」
ここには「おまえの知らないことばを知っているから、おれの方が正しい(偉い)」という「主張」が隠れている。「和解の力」という前に「the power of reconciliation 」というところが、さらに曲者である。
「おれは英語を知っている。英語ではこういうんだ。英語を知らない人間はだまっていろ」
ということである。
真珠湾での演説、アメリカ国民に向けての演説だから、それでもいいのかもしれないが、日本を代表して演説しているのだから「日本人の心」を語ってほしい。
わけのわからないことばは、しめくくりでもつかわれている。
「和解の象徴」。どうして、真珠湾が「和解の象徴」になるのだろう。真珠湾には何か両国が力を合わせて作り上げたものがあるのだろうか。
「和解」とは争っていたものが争いをやめて、争いの原因を取り除くことである。そのとき、たぶん何かを新しく生み出す。争いの原因を取り除くだけではなく、克服した証として何かを生み出す。その生み出されたものが「和解」の証(象徴)というのなら理解できるが、「アリゾナ・メモリアル」はアメリカ国民と日本国民が共同して作り上げた「記憶」の展示館なのか。
逆に言いなおしてみようか。
たとえば広島の原爆ドーム。広島の原爆資料館。長崎の資料館。それは「和解の象徴」と呼べるか。だれも、そんなふうには呼ばないだろう。
「和解の力」とか「和解の象徴」ということばは、聞こえがいいが、私には「うそ」にしか聞こえない。
もっと真摯に語るべきは「和解の力」の前に述べられている「寛容の心」だろう。許すこころの広さ。大きな犠牲を払った。しかし、そのことについて犠牲を強いたひとを攻めることはしない。非難はしない。だが、この大きな犠牲を直視してほしい。そして忘れないでほしい。たぶん、アリゾナ・メモリアルを訪れる日本人に対して、寛容なアメリカ人はそう言うだろう。広島・長崎を訪れるアメリカ人に対して、寛容な日本人はそう言うだろう。
オバマは広島で「謝罪」しなかった。安倍も真珠湾で「謝罪」しなかった。寛容な人なら言うだろう。「謝罪」よりも、ここに記録されていることを忘れないでほしい。多くの人々のことを忘れず、そのひとたちの願っていることを実現してほしいと言うだろう。
「和解」は結果であって、「和解」へとつながる「寛容」こそが大事なのだ。「和解」は「結果」だが、世界は「結果」のあともつづいていく。「和解」のあとに何をするかの方が重要である。「和解」で終わらせるのではなく、そこから何を持続し、つくりだすか。
読売新聞は安倍の演説を「未来志向に力点」という見出しで要約しているが、「和解の象徴として記憶する」では、どこに「未来」があるのか、私にはわからない。
ことばと引用、出典について、もうひとつ。
演説の前半にとても感動的なことばがある。
私は「日本国憲法の前文」と「第9条」を即座に思い浮かべた。
「戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩み」とは「平和憲法(戦争の放棄)」と一体のものである。「不動の方針」とは「憲法」のことである。
なぜ、ここで、安倍は「不動の方針」である「日本国憲法」を引用しないのか。英語で書かれただれそれのことばを引用するのではなく、日本人がだれでも知っている日本のことば、「日本国憲法」を引用して「決意」を表明しないのか。「日本国憲法」を引用すれば、安倍の語ったことばは、即座に「日本国民のこころ」そのものになる。安倍の演説を聞いたアメリカ人に「日本人の決意(誠意)」がつたわるはずである。
アメリカの「寛容」に応えるために、日本人は「日本国憲法を守る」と言える。そのとき、「日本国憲法」は、それこそ「和解」の「象徴」である。
そんなふうに言えない安倍のことばは、すべて「うそ」である。
アメリカは真珠湾攻撃を「寛容」のこころ(力)で許してくれた。だから、その「寛容」に応えるために、アメリカの代わりに「戦争」に行きます。アメリカ軍が行きたくないところへ、自衛隊を行かせます。アメリカから兵器を買います。アメリカの軍需産業を支えます。自衛隊の海外派兵、アメリカからの兵器の購入は、アメリカと日本の「和解の象徴」です、というのが安倍の「ほんとう」のことばなのだ。それを伝えるために安倍はオバマに合った。その「約束」がオバマの花道を飾り、トランプへとつづいている。
自民党憲法改正草案を読む/番外60(情報の読み方)
2016年12月28日読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面が安倍の真珠湾慰霊を報じている。見出しは、
首相 真珠湾慰霊/日米首脳「和解の力」/オバマ大統領と献花
「和解の力」ということばにつまずいた。「意味」がわからない。2面に「真珠湾演説の全文」が掲載されている。それによると、
私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation 、「和解の力」です。
とある。「英語」を翻訳したものだということがわかる。私は英語を話す人間ではないので、こういうことばがあるのかどうか、わからない。だれかの有名なことばなのだろうか。そうであるなら、「出典」を言うべきだろう。
同じ演説の中には、こういうくだりがある。
The brave respect the brave.
「勇者は、勇者を敬う」
アンブローズ・ビアスの、詩は言います。
「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
「永続する平和を、我々全ての間に打ち立て、大切に守る任務を、やり遂げる」。
エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。
いずれも「出典」が明示されている。(ただしリンカーンのことばには「原文」はない。)
いったい安倍は
the power of reconciliation 、「和解の力」
を、どうやって「思いついた」のか。
私は安倍に対してたいへん意地悪な人間なので(会社の同僚に言われた)、ここでも「意地悪」を発揮する。
日本人なら、まず日本語で考えるべきである。(安倍が、ネイティブと同様に英語を使いこなし、いつも英語で思考しているなら、私の批判は当たらないが。)
日本語の表現には、そのままでは英語(外国語)にならないものもあるだろう。それはしかし、「翻訳」の問題であって、考えること(思考)の問題ではない。
the power of reconciliation が英語として「なじみ」のある表現だとしても、日本語の「和解の力」は奇妙である。「真新しい」。こういう「真新しい」ことばというのは、人が「うそ」をつくときにつかう。
「和解の力、って何ですか?」
「そんなこともわからないのか。わからなければ、自分で調べろ」
ここには「おまえの知らないことばを知っているから、おれの方が正しい(偉い)」という「主張」が隠れている。「和解の力」という前に「the power of reconciliation 」というところが、さらに曲者である。
「おれは英語を知っている。英語ではこういうんだ。英語を知らない人間はだまっていろ」
ということである。
真珠湾での演説、アメリカ国民に向けての演説だから、それでもいいのかもしれないが、日本を代表して演説しているのだから「日本人の心」を語ってほしい。
わけのわからないことばは、しめくくりでもつかわれている。
パールハーバー。
真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
私たち日本人の子供たち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子供たちが、またその子供たち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。
「和解の象徴」。どうして、真珠湾が「和解の象徴」になるのだろう。真珠湾には何か両国が力を合わせて作り上げたものがあるのだろうか。
「和解」とは争っていたものが争いをやめて、争いの原因を取り除くことである。そのとき、たぶん何かを新しく生み出す。争いの原因を取り除くだけではなく、克服した証として何かを生み出す。その生み出されたものが「和解」の証(象徴)というのなら理解できるが、「アリゾナ・メモリアル」はアメリカ国民と日本国民が共同して作り上げた「記憶」の展示館なのか。
逆に言いなおしてみようか。
たとえば広島の原爆ドーム。広島の原爆資料館。長崎の資料館。それは「和解の象徴」と呼べるか。だれも、そんなふうには呼ばないだろう。
「和解の力」とか「和解の象徴」ということばは、聞こえがいいが、私には「うそ」にしか聞こえない。
もっと真摯に語るべきは「和解の力」の前に述べられている「寛容の心」だろう。許すこころの広さ。大きな犠牲を払った。しかし、そのことについて犠牲を強いたひとを攻めることはしない。非難はしない。だが、この大きな犠牲を直視してほしい。そして忘れないでほしい。たぶん、アリゾナ・メモリアルを訪れる日本人に対して、寛容なアメリカ人はそう言うだろう。広島・長崎を訪れるアメリカ人に対して、寛容な日本人はそう言うだろう。
オバマは広島で「謝罪」しなかった。安倍も真珠湾で「謝罪」しなかった。寛容な人なら言うだろう。「謝罪」よりも、ここに記録されていることを忘れないでほしい。多くの人々のことを忘れず、そのひとたちの願っていることを実現してほしいと言うだろう。
「和解」は結果であって、「和解」へとつながる「寛容」こそが大事なのだ。「和解」は「結果」だが、世界は「結果」のあともつづいていく。「和解」のあとに何をするかの方が重要である。「和解」で終わらせるのではなく、そこから何を持続し、つくりだすか。
読売新聞は安倍の演説を「未来志向に力点」という見出しで要約しているが、「和解の象徴として記憶する」では、どこに「未来」があるのか、私にはわからない。
ことばと引用、出典について、もうひとつ。
演説の前半にとても感動的なことばがある。
戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
私は「日本国憲法の前文」と「第9条」を即座に思い浮かべた。
日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
「戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩み」とは「平和憲法(戦争の放棄)」と一体のものである。「不動の方針」とは「憲法」のことである。
なぜ、ここで、安倍は「不動の方針」である「日本国憲法」を引用しないのか。英語で書かれただれそれのことばを引用するのではなく、日本人がだれでも知っている日本のことば、「日本国憲法」を引用して「決意」を表明しないのか。「日本国憲法」を引用すれば、安倍の語ったことばは、即座に「日本国民のこころ」そのものになる。安倍の演説を聞いたアメリカ人に「日本人の決意(誠意)」がつたわるはずである。
アメリカの「寛容」に応えるために、日本人は「日本国憲法を守る」と言える。そのとき、「日本国憲法」は、それこそ「和解」の「象徴」である。
そんなふうに言えない安倍のことばは、すべて「うそ」である。
アメリカは真珠湾攻撃を「寛容」のこころ(力)で許してくれた。だから、その「寛容」に応えるために、アメリカの代わりに「戦争」に行きます。アメリカ軍が行きたくないところへ、自衛隊を行かせます。アメリカから兵器を買います。アメリカの軍需産業を支えます。自衛隊の海外派兵、アメリカからの兵器の購入は、アメリカと日本の「和解の象徴」です、というのが安倍の「ほんとう」のことばなのだ。それを伝えるために安倍はオバマに合った。その「約束」がオバマの花道を飾り、トランプへとつづいている。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載 | |
谷内修三 | |
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