冨上芳秀「あなたは轍」、山本テオ「それはそうだからといって問題ない」(「gui」109 、2016年12月01日発行)
冨上芳秀「あなたは轍」は声に出して読む詩、なのだろう。
しかし声に出して読みたくなるかというと、ならない。声に意味が溶け込んでいない。意味が声をとがらせている。声が肉体にはいってこないで、頭に入ってくるところがある。頭で考えないと、音が意味にならない。意味になるまでの一瞬が、「聞こえない雑音」のようにうるさい。
あるいは逆か。
音の前に文字がある。文字が意味を先取りし、そのあとに音がついてくる。「ハシタナイわ」が「恥たなあ、いいわ」にかわっていくところなど、私は興ざめしてしまう。
私はカタカナ難読症とでもいうのだろうか、カタカナが読めないので「ハシタナイ」が最初何かわからなかった。次の行に「恥」と漢字が出てきたので「ハシタナイ」は「はずかしい」かとやっと気づいた。
「はしたない」「はじた」と音そのものとして書いてくれればいいのに、と思った。
私だけの感覚かもしれないが。
でも、「意味」を語るとき、どういう音のことばを選ぶか、音を自然に聞こえるようにするかというのは、大切だと思う。
などと、勝手にひらがなにしてみる。
「した」が「舌」にかわるまでつづけることができれば、肉体に迫ってくるかなあ。しかし私は「音合わせ」というのが苦手。いや、嫌いなのだった。音と意味を調整するのがめんどうくさい。
こういう作業(?)は谷川俊太郎とか平田俊子がうまい。ふたりとも音が好きなんだろうなあ。
ただ漢字まじりでも「あなたは明日、あなたは愛した」という一行は「音」として読むことができた。「明日」「愛した」というのは頻繁に耳にするから「漢字」を読んでも意味を考えたりしないからかもしれない。
*
山本テオ「それはそうだからといって問題ない」はタイトルがめんどうくさい。何か「意味」を読み取らないといけないのか、と身構えてしまうのだが。
読み始めると、そんなにめんどうでもないかなあ。「キリンは誰にも頭を撫でられたことがない」が「なるほど」と思わせる。なにが「なるほど」なのか、説明はむずかしいが。「意味/論理」が書かれていて、その「論理/意味」を納得してしまうが、だからといってそれがほんとうに「意味がある/何かの役に立つ」かというと、そうでもない。むしろ「無意味/役に立たない」ということろが楽しい。
次に何が聞けるかな、と期待してしまう。「無意味」を聴きたくなる。言い換えると音を楽しみたくなるということ。「音楽」のように、ことばが耳に響いてくる。
冨上のように音に工夫がしてあるわけではないのに、音を感じてしまう。「意味」をはがされたことばが音に変わっていくのかなあ。
そう思っていると、「けれど」という一行を挟んで、「仕方がないのだ」からだらだらした散文になる。
この散文には「意味」しかない。
はずなのだけれど。
うーん。「意味」よりも、やっぱり「音」しか聞こえてこない。同じ音が繰り返されていて、その繰り返しが「意味」を「無意味」にしている。「意味」をはがしたまま、「肉体」になじませいく感じ。
これは、私の「肉体」が覚えていることに重ねて言いなおすと。
私の母は、何か手に負えないことが起きると、仏壇の前で「なんまいだぶつ」と声に出していた。そんなことをしても何の解決にもならないのだが、いま起きていることを受け入れるために、そうしている。「南無阿弥陀仏」には「意味/哲学」はあるのだが、それをどう理解するかはほったらかしにして、声に出して言う、声に出せば正しい「意味」が理解できなくても安心する。「意味」は自分勝手で十分。「南無阿弥陀仏」のほんとうの「意味」をはがしてしまって、自分の願いを「肉体」として声の中に放り込む。そうやって「声」と一体になる。繰り返すことのなかで、ことば(声)と肉体がいれかわっていく。ことばを肉体に取り込んでいるのか、肉体をことばになげいれているのか、区別ができない状態になる。
そんな感じ。
そんなことで、いいのか。
そうなのだと思う。「仕方がない」のである。
詩の後半。
冨上の詩よりも音楽的に聞こえる。口に出して読みたい気持ちになる作品である。蛙の一行は笑いだしてしまう。笑いたくて読み返してしまう。
冨上芳秀「あなたは轍」は声に出して読む詩、なのだろう。
あなたは私、あなたはしたわ
あなたはハシタナイわ
あなたは恥たなあ、いいわ
あなたは渡した、あなたは輪渡した
あなたは泡和した、あなたは合した、
あなたは明日、あなたは愛した
あなたは対した私
あなたは秘した渡し、あなたは慕わしい
あなたは合した皺、あなたは足した綿
あなたは舌、足足した
穴多は轍、棚田は分かち
貴方は業師、私ははがし
しかし声に出して読みたくなるかというと、ならない。声に意味が溶け込んでいない。意味が声をとがらせている。声が肉体にはいってこないで、頭に入ってくるところがある。頭で考えないと、音が意味にならない。意味になるまでの一瞬が、「聞こえない雑音」のようにうるさい。
あるいは逆か。
音の前に文字がある。文字が意味を先取りし、そのあとに音がついてくる。「ハシタナイわ」が「恥たなあ、いいわ」にかわっていくところなど、私は興ざめしてしまう。
私はカタカナ難読症とでもいうのだろうか、カタカナが読めないので「ハシタナイ」が最初何かわからなかった。次の行に「恥」と漢字が出てきたので「ハシタナイ」は「はずかしい」かとやっと気づいた。
「はしたない」「はじた」と音そのものとして書いてくれればいいのに、と思った。
私だけの感覚かもしれないが。
でも、「意味」を語るとき、どういう音のことばを選ぶか、音を自然に聞こえるようにするかというのは、大切だと思う。
あなたは私、わたしはしたいわ
あなたは私、わたしはしたないわ
あなたは私、わたし あっあっ いっいっ
あなたは私、わたしははじた
あなたは私、わたしはっはっ じだなあ ああ いいっわ
などと、勝手にひらがなにしてみる。
「した」が「舌」にかわるまでつづけることができれば、肉体に迫ってくるかなあ。しかし私は「音合わせ」というのが苦手。いや、嫌いなのだった。音と意味を調整するのがめんどうくさい。
こういう作業(?)は谷川俊太郎とか平田俊子がうまい。ふたりとも音が好きなんだろうなあ。
ただ漢字まじりでも「あなたは明日、あなたは愛した」という一行は「音」として読むことができた。「明日」「愛した」というのは頻繁に耳にするから「漢字」を読んでも意味を考えたりしないからかもしれない。
*
山本テオ「それはそうだからといって問題ない」はタイトルがめんどうくさい。何か「意味」を読み取らないといけないのか、と身構えてしまうのだが。
キリンは誰にも頭を撫でられたことがない
サイは角が邪魔になって一メートル先がいつも見えない
椅子は人を座らせてばかりで自分はずっと立っている
けれど
仕方がないのだ ほんとうに仕方がないことというのは
どうしようもなく仕方がない のだからそのままにただ
受け入れて そのままのものとして 飲み込み消化する
そしてそれはそれでよいままで
読み始めると、そんなにめんどうでもないかなあ。「キリンは誰にも頭を撫でられたことがない」が「なるほど」と思わせる。なにが「なるほど」なのか、説明はむずかしいが。「意味/論理」が書かれていて、その「論理/意味」を納得してしまうが、だからといってそれがほんとうに「意味がある/何かの役に立つ」かというと、そうでもない。むしろ「無意味/役に立たない」ということろが楽しい。
次に何が聞けるかな、と期待してしまう。「無意味」を聴きたくなる。言い換えると音を楽しみたくなるということ。「音楽」のように、ことばが耳に響いてくる。
冨上のように音に工夫がしてあるわけではないのに、音を感じてしまう。「意味」をはがされたことばが音に変わっていくのかなあ。
そう思っていると、「けれど」という一行を挟んで、「仕方がないのだ」からだらだらした散文になる。
この散文には「意味」しかない。
はずなのだけれど。
うーん。「意味」よりも、やっぱり「音」しか聞こえてこない。同じ音が繰り返されていて、その繰り返しが「意味」を「無意味」にしている。「意味」をはがしたまま、「肉体」になじませいく感じ。
これは、私の「肉体」が覚えていることに重ねて言いなおすと。
私の母は、何か手に負えないことが起きると、仏壇の前で「なんまいだぶつ」と声に出していた。そんなことをしても何の解決にもならないのだが、いま起きていることを受け入れるために、そうしている。「南無阿弥陀仏」には「意味/哲学」はあるのだが、それをどう理解するかはほったらかしにして、声に出して言う、声に出せば正しい「意味」が理解できなくても安心する。「意味」は自分勝手で十分。「南無阿弥陀仏」のほんとうの「意味」をはがしてしまって、自分の願いを「肉体」として声の中に放り込む。そうやって「声」と一体になる。繰り返すことのなかで、ことば(声)と肉体がいれかわっていく。ことばを肉体に取り込んでいるのか、肉体をことばになげいれているのか、区別ができない状態になる。
そんな感じ。
そんなことで、いいのか。
そしてそれはそれでよいままで
そうなのだと思う。「仕方がない」のである。
詩の後半。
コップいっぱいに水を注ぐともう何も入れられない
蛙の手は開きっぱなしで 拳で仇を殴ることもできない
蛍は街灯がついた途端に消えてしまう
手袋は片方なくなっただけで大切にされなくなった
つまり
神は地球をボール状に作ったが 球は跳ねることもなく
そのままそこで誰も 動かせないし それはそれでもう
放っておくのが一番よいとしか思えないほど 仕方ない
冨上の詩よりも音楽的に聞こえる。口に出して読みたい気持ちになる作品である。蛙の一行は笑いだしてしまう。笑いたくて読み返してしまう。
安西冬衛―モダニズム詩に隠されたロマンティシズム | |
冨上 芳秀 | |
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