詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

うるし山千尋『時間になりたい』

2016-12-25 12:57:30 | 詩集
うるし山千尋『時間になりたい』(ジャプラン、2016年11月25日発行)

 うるし山千尋『時間になりたい』には繰り返しが多い。

うすいなあ
と言ってみる
なめらかに
区切りのないように
ペースト状になるまで
繰り返し言ってみる
うすいなあ
きょうという日は
いつまでも
おそいなあ                       (「ウィリー・ロウ」)

 繰り返すと「うすいなあ」が「おそいなあ」に変わっていく。「なめらか」「区切りのない」「ペースト状」ということばが、その「あいだ」にある。「うすいなあ/おそいなあ」の「区切り」がなくなる。

血流のように
時間は時間を流れていく
流れていることが
時間であり
流された角度が
時間であり
時間をなぞらえるひとたちもまた
時間そのものとなって                  (「時間になりたい」)

 「時間」が繰り返され、「流れる」「流される」の区別がなくなる。「角度」という「比喩」(「なぞらえる」という動詞)は「なぞらえられる」「なぞらえる」と区別がなくなる。能動と受動が入れ替わる。
 この運動は「花と名まえの日々」と「未成年」で「日常」を深く耕す。

暮れの市役所に
お墓をみているのはあたしなのに
と言っているひとがいる
そのひとはお墓の面倒をみているのに
年金がもらえないのだ
わたしは順番を待ちながら
お墓をみているひとはそのひとなのに
と思っている
そのひとが年金を認めてもらえないと
いつまでたってもわたしの順番はこない         (「花と名まえの日々」)

 「繰り返す」とは「繰り返されるもの/こと」になることか。「繰り返す」ことは「思う」ことであり、「思う」ことは「思われるもの/こと」になることだ。「思う/思われる」ことが「重なり」、それが「わたし」になる。この詩では「わたしの順番」と書かれているが。
 「順番」を「時間」と言い換えると「時間」のなかで「そのひと」と「わたし」が「区切りなく」つながり、つながることでまた「そのひと」と「わたし」が分かれていくことがわかる。「時間」のなかで「ひとつ」になって、「わたし」が新しく「生み出される/生まれる」と言い換えることができる。

そのひとが年金を認めてもらえないと
いつまでたってもわたしの順番はこない
そのひとのみているお墓がきれいであってほしい
そう願っている
けれど仕事にもやはり順番というものはあって
係のひとはことばを整えないと
それを認めるわけにはいかないのだ

 詩は、こんなふうにつづいていって、「わたしの順番」は「仕事の順番」にのみこまれていく。「順番」が「わたし」と「仕事」の区別をなくし、「きれい」と「整える」の区別をなくす。同時に、そこに「そのひと」「わたし」とは別の「係のひと」を生み出していく。いや、これは「係のひと」がそういう区別を生み出していくということでもある。「区別」を生み出した途端に、「区別」が消えていくというか、どこかで「区別」をつなげるものが生まれてくると言えばいいのか。
 「ひとり」がずれながら重なり、離れ、増えていく。それが「日常の世界」という感じがしてくる。
 市役所で年金手続きをしている、前の人の処理がすんだら自分の番になるというのを待っているだけなのだが……。
 「きれい」「順番」は、またこんなふうに言い換えられていく。

いつかくる順番の日のために
お墓にはきれいな花を供えることにして
きれいな花を供えるときは
前方に飾るものをすこし短めに
左右は対称にしないほうが
立体的でよりうつくしくなるよ

 「より」が生まれてくる。「より」は比較。何かがあって、それと「区切る」ことばが「より」なのだが、それは「区切る」と同時に「接続」でもある。
 「切断と接続」
 うるし山はことばを繰り返し、相互に入れ換えながら切断と接続を広げる。そこに「より」ということばが隠れている。「より」によって、新しいものを生み出しながら、生み出すことで切断と接続を整えている。
 「より」のなかに、うるし山の「思想/肉体」がある。「より」が、うるし山のキーワードである。
 「未成年」には「より」ということばは出てこないのだが、出てこないからこそ、私はそれを「キーワード」と呼ぶ。書かずにすむときは書かれないのがキーワード。書かないとことばが動かないときにだけ、しかたなにし出てくることば。それくらい「肉体」にしみつき、「無意識」になってしまっていることばが「キーワード」である。
 と書いても、それは「証明」(論理的説明)にならないか……。

おなじことを二度言うようになった
二度目はわざと言っているのに
わざとだということに誰も気づかない
だから「いま、おなじことを二度言ったよ」
と教えられる
わたしはそのことをよく知っているし
おなじことを二度言うときは
二度目ははじめからおなじことばを
唇に貼りつけている

 「わたしはそのことをよく知っている」の「よく」は、そのことを教えてくれたひと「より」わたしの方が知っている、ということ。「よく」は「比較」であり、そこには「より」が隠れている。

音もたてずやわらかいものを選んで箸を動かしている
すこし離れた席から
そのひとの顔をじっとみている

 「すこし離れた席から」の「から」は「より」をつかって「すこし離れた席より」と言いなおすこともできる。(文語っぽくなるが。)これは「おなじ(こと/もの)」からの引き離し、「切断」。そこに「すこし」という「比較」から生まれたことばが「接続」されている。「すこし」と「から」が「より」を一つにしている。
 先に見た

立体的でよりうつくしくなるよ

 は

立体的で「すこし」うつくしくなるよ

 と言い換えることができる、と言いなおせば、「すこし」と「から」に「より」が隠れているということが、さらにわかりやすくなるかもしれない。
 この詩はさらにつづいている。

テーブルの上にはテンプレートのような食事が載っていて
窓からは秋の光がすこし眩しいくらいだ

 「窓から」は「窓より」射してくる、である。そのあとの「すこし」は何と比較して「すこし」なのかわかりにくい。うるし山の「肉体」が覚えているもの、無意識の光の感覚と比較してということだろう。うるし山が、きょうの光はこれくらいと「肉体」が思い出そうとしているものよりも「すこし」眩しい。
 論理的に説明しにくいものが、ことばの奥でつながって動いている。その説明のしにくさが「肉体」を刺戟してくる。言い換えると、あ、ここにうるし山がたしかにいる、という「手触り/手応え(?)」のような感じで迫ってくる。
 こういうことを、私は、私のことばの肉体はうるし山のことばの肉体とセックスをしている、というのだが……。
 ことばのなかで「快感」が生まれ、動いていく。あ、もっと読みたい。もっと新しい「快感」がほしい、という気持ちになる。

音もたてずやわらかいものばかり選んで箸を動かしているね
もしもわたしがそのひとにそう話しかけたら
そのひとはもうやわらかいものばかり選んで食べられないし
わたしの唇にはおなじことばが貼りついて
はじめての衝動に戻れない
窓からは秋の光がすこし眩しくて
冬がくるまえに
唇の乾きを知っている

 最後の「唇の乾きを知っている」に「より」が隠れていると私の「直感の意見」は言う。それを説明するのは複雑だが……。
 「知る」という「動詞」は「事実」と「ことば/認識」から成り立っている。「事実/事象」を「ことば」にして言うことができるとき「知っている」と言える。「事実」を「ことば」にすることが「知る」ということ。これを「事実」から「ことば」を引き出す。事実「より」ことばを引き出し、それを確立すると言いなおせば、ここに「より」が隠れているという説明になるかもしれない。
 
 巻頭の「紫陽花」もおもしろい作品だが、透明すぎる。花と名まえの日々」「未成年」の不透明さ/わかりにくさの方が、私は好きだ。
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ジャプラン
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