詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高木敏次「幹」

2018-04-05 09:44:11 | 詩(雑誌・同人誌)
高木敏次「幹」(「ガーネット」84、2018年03月01日発行)

 高木敏次「幹」は、書き出しがわかったようでわからない。

忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない

 私は、何を忘れてきたのか。「忘れ物」という言い方があるが、高木は「出来事」と「事」ということばをつかっている。「出来事」を「忘れてきた」と読むことができる。その結果、「一人よりも少ない」という状態になっている。「出来事を忘れてきた私は、一人の人間と呼ぶには、忘れてきた出来事の分だけ少ない(不完全である)」ということになるかもしれない。
 だが、「忘れてきた私」を「私は何かを忘れてきた」と読み直すことは正しいのか。読み直したあと、確かめないといけない。
 「(出来事を)忘れてきた私」は「私」なのか。「私」ではないからこそ「一人よりも少ない」と言っている。それは「私」ではない。では、「忘れてきた私」と認識しているのは誰か。「出来事が足りない「一人よりも少ない」と考えているのは誰か。「忘れてきた私」そのものになる。「忘れてきた私」としか呼べない存在。その「忘れてきた私」が「出来事が足りない」「一人よりも少ない」と考えている。
 つまり。
 これは、言い換え不能。そのまま受け入れるしかないことが書かれている。

 言い換え不能、とわかりながら、それでも私は「言い換え」を探してしまう。大事なことは、ひとは何度でも言いなおすものであるからだ。
 詩のつづき。

迎えるもののたとえば
森の羅列
立看板の矢印
飛び出そうと身をくねらせると
近い広場がある
焦げ臭い空がある

 「たとえば」ということばがつかわれている。「たとえば」というのは、言いたいことを補足するためである。だから、ここから「言い換え(言い直し)」がはじまっていると読むことができる。
 ここに書かれていることは、「忘れてきた私」を言いなおしたものだ。
 「迎えるもの」は「忘れてきた私」を迎えるのか、「忘れてきた私」がむかえるのか、主語を特定するのは、この一行ではわからない。先を読んでも、実はわからない。「両方」と思うしかない。最初の三行で「私」を特定しなかったように、「迎え、迎えられる」を入れ替えながら、同時に考える必要がある。
 「森の羅列」は「森」よりも「羅列」の方が刺戟的である。「森」は「羅列」などしない。「羅列する/羅列している」のは、あえて言えば「木」だろう。ふつうにはつかわれないことばがつかわれている。だから刺戟される。「羅列」には「羅列する」という動詞が含まれている。「羅列する」は「立看板」も「羅列している」ということばを誘い出す。その「立看板」には「矢印」がある。「矢印」を動詞にすると、どうなるだろうか。「矢印する」とは言わないが、「矢の形(印)で指し示す」と言いなおすことがある。
 「忘れてきた私」に対して、何かを「指し示そうとするものがある」と感じる。それは「忘れてきた私」だからこそ感じることができるものであって、「忘れてきていない私」には見えない「印」である。
 その「忘れてきた私」にしか見えない(矢)印を見たとき、「忘れてきた私」に何が起きるか。
 「飛び出す」という動詞と、身を「くねらせる」という動詞。二つの動詞が動く。「矢印」が「飛び出す」、「身をくねらせる」と読むことができるが、「矢印」を認識した人間が矢印の方向に「飛び出す」「身をくねらせる」と読むことができる。いずれにしろ、ふかつの動詞は他動詞」ではなく「自動詞」だ。
 私は、「忘れてきた私」が動くと読む。つまり、ここで「出来事」が起きる。「足りない出来事(出来事が足りない)」を補うことになるのか、あるいは逆に「足りない」をさらに意識させることになるのか。「忘れてきた私」に何が起きる。何が「出来事」になるか。

近い広場がある
焦げ臭い空がある

 「ある」という「動詞」を発見する。「広場」「空」。あるいは「名詞」というのは、「ある」という動詞を必要とはしていない。「あるもの」の呼び方が「名詞」だから、それは「ある」を前提としている。
 言い換え不能は、言い換え不要でもある。言い換え不能、言い換え不要が「ある」ということだ。「ある」から、それでいいのだ。
 「森の羅列/立看板の矢印」には「ある」は書かれていなかった。ほんとうは「森の羅列がある/立看板の矢印がある」なのだが、その「ある」は省略されていた。それなのに、ここでは「ある」が補われ、「ある」と書かれている。言い換えると、ここでは「ある」が「認識」となっている。
 この発見された「ある」こそが、

忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない

 を言いなおしたものなのだ。「忘れてきた私」という存在が「ある」。「私」が「あり」、その「私」がなにかを(出来事を)忘れてきたのではない。「忘れてきた私」(名詞)そのものが「ある」。高木は「忘れてきた私」という「存在」を発見し、それに名前をつけたのだ。
 この「ある」の発見を促した「飛び出す」「身をくねる」に通じる動詞は、詩の後半にも出てくる。

木が鳴り出したらなら
そっと出てもよい
それでもやさしく
その幹をなでていると
汗が流れた

 途中を省略しているので、ここだけ読んでも何のことかわからないかもしれない。けれど途中を引用したとしても、やはり、わからないだろう。
 「木が鳴り出す」ということ自体に日常のことばではつかみきれないものがある。謎がある。わかるのは「鳴り出す」とは、やはり自動詞であるということだ。だかち、ここを「飛び出そうと身をくねらせると」の部分の言い直しとして読み直す。
 「自分」で動いている。「鳴らす」ではなく「鳴る」。そして、それが「出る」につながっている。「矢印」の方向に「飛び出した」ように、「木が鳴る」ように、「出てもよい」のである。
 何から?
 「私」からである。「忘れてきた私」から、「そっと出る」。「汗が流れる」ように、「身」から「出る」。
 そういうことが、書かれている。
 そういうこととは何か。これをさらに言いなおすのはむずかしい。「そういうこと」とだけ書いておく。

私を忘れた男は
どこかに住んでいて
立ち上がり
熱い果物のようなものが込み上げた
私が駆けてくるのではないか
振りかえる

 「汗が流れた」と動詞が「過去形」になって、「出来事」が客観化されたのにあわせて、「種明かし」がされている。最初の方に見た「身をくねらせる」は「振りかえる」という動詞で言いなおされている。
 「一人よりも少ない」、つまり「欠けている私」を「ある」存在として、瞬間的に認識したのだ。
 どういう「私」も「ある」。そういうものとして「ある」。


*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

詩はどこにあるか3月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



傍らの男
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠蔽工作の目的は?

2018-04-05 08:45:48 | 自民党憲法改正草案を読む
隠蔽工作の目的は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外201(情報の読み方)

 2018年04月05日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の一面見出し。

イラク日報 昨年3月確認/陸自 防衛相に報告なし

 私は疑り深い人間なので、いろいろ考えてしまう。なぜ「日報」を隠し続けたのか。それをいまごろ公表するのはなぜなのか。
 単純に考えると、
(1)自衛隊が「日報」を公開すると問題が大きい。「存在しない」(見つからなかった)ということにしてしまう。自衛隊が自主的に「隠蔽した」ということになる。シビリアンコントロールを逸脱している。
 ここからわかる問題点。
①防衛省は自衛隊を把握していない。防衛省に自衛+隊を管理する能力がない。防衛相は失格だし、任命した安倍にも責任がある。 
②自衛隊がそういう組織(自分にとって不都合な資料は隠す体質)ならば、その自衛隊を憲法に書き加え、自衛隊に対する批判を封じるという安倍の改憲案はとても危険だ。「合憲化」ささた自衛隊の暴走を誰もチェックできない。
③だから、自衛隊を内閣総理大臣の直接監督下に置くという改憲案を追加する。(これは安倍による軍事独裁を憲法で保障するということになる。つまり、今回の事件は自衛隊の「暴走」にみせかけて、安倍が仕組んだものとも考えることができる。)

だが、こうも考えることができる。
(2)自衛隊は防衛省に報告していたが(つまり内閣もその事実を知っていたが)、それを公表しなかった。国会で「日報は存在しない」と答弁したので、その答弁にあわせて「事実」を隠した。
 ここからわかる問題点。
①安倍は、「事実」から議論を始めるのではなく、「答弁」が先にあり、それにあわせて「事実」を捏造する。「事実」を隠蔽する。森友学園文書の改竄につうじる。
②森友学園問題で、安倍昭恵が証人喚問されることになってしまうと、収拾がつかなくなる。なんとしても昭恵の証人喚問を避けたい。視点をずらす(別の方向に誘導する)ために、あえていまの段階で公表する。
③国民に事実を知らせないことを基本とする(嘘の資料しか提供しない)安倍が、自衛隊を憲法に書き加えるとき、その「条文」には嘘が含まれていることになる。どんな嘘か、どんな問題点があるかは、改憲案について触れたときに書いたので簡略化するが、安倍の案は軍事独裁を推進するための案である。
(すでにふれたが、ここから考えなおすと、「(1)の③」を狙って、安倍が仕組んだものと考えることもできる。)

(3)「日報」の存在は、自衛隊、内閣だけが知っていたのではなく、複数の自民党議員によって共有された認識だった。安倍を倒し、次の総理大臣を狙っている組織が「クーデター」を起こした。
 ここからわかる問題点。
①自民党(公明党)議員は、国民のことを考えていない。ただ自分が「権力」をもつことだけを考えている。いかに「権力」のトップにつくか、しか考えていない。
②そういう自民党(議員)が、自衛隊を憲法に書き加えることで狙っているのは、やはり軍事独裁である。

 自民党の改憲案と時期をあわせるようにして起きた事件なので、改憲案と結びつけながら事件を見ていく必要がある。この事件を、改憲案に自民党はどう反映させようとしているのか。どう利用しようとしているか、ということを視野に入れて見守らないと、重大なことを見逃すことになる。

 それにしても。
 一連の「事件」からわかることは、あらゆる「資料(情報)」が複数の機関(部署)で共有されていないということだ。
 財務省の資料、防衛省(自衛隊)の資料が複数の部署で共有されていたなら、「存在しない」という状況は起こり得ない。
 権力の「秘密主義」が引き起こした事件である。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com


憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする