高木敏次「幹」(「ガーネット」84、2018年03月01日発行)
高木敏次「幹」は、書き出しがわかったようでわからない。
私は、何を忘れてきたのか。「忘れ物」という言い方があるが、高木は「出来事」と「事」ということばをつかっている。「出来事」を「忘れてきた」と読むことができる。その結果、「一人よりも少ない」という状態になっている。「出来事を忘れてきた私は、一人の人間と呼ぶには、忘れてきた出来事の分だけ少ない(不完全である)」ということになるかもしれない。
だが、「忘れてきた私」を「私は何かを忘れてきた」と読み直すことは正しいのか。読み直したあと、確かめないといけない。
「(出来事を)忘れてきた私」は「私」なのか。「私」ではないからこそ「一人よりも少ない」と言っている。それは「私」ではない。では、「忘れてきた私」と認識しているのは誰か。「出来事が足りない「一人よりも少ない」と考えているのは誰か。「忘れてきた私」そのものになる。「忘れてきた私」としか呼べない存在。その「忘れてきた私」が「出来事が足りない」「一人よりも少ない」と考えている。
つまり。
これは、言い換え不能。そのまま受け入れるしかないことが書かれている。
言い換え不能、とわかりながら、それでも私は「言い換え」を探してしまう。大事なことは、ひとは何度でも言いなおすものであるからだ。
詩のつづき。
「たとえば」ということばがつかわれている。「たとえば」というのは、言いたいことを補足するためである。だから、ここから「言い換え(言い直し)」がはじまっていると読むことができる。
ここに書かれていることは、「忘れてきた私」を言いなおしたものだ。
「迎えるもの」は「忘れてきた私」を迎えるのか、「忘れてきた私」がむかえるのか、主語を特定するのは、この一行ではわからない。先を読んでも、実はわからない。「両方」と思うしかない。最初の三行で「私」を特定しなかったように、「迎え、迎えられる」を入れ替えながら、同時に考える必要がある。
「森の羅列」は「森」よりも「羅列」の方が刺戟的である。「森」は「羅列」などしない。「羅列する/羅列している」のは、あえて言えば「木」だろう。ふつうにはつかわれないことばがつかわれている。だから刺戟される。「羅列」には「羅列する」という動詞が含まれている。「羅列する」は「立看板」も「羅列している」ということばを誘い出す。その「立看板」には「矢印」がある。「矢印」を動詞にすると、どうなるだろうか。「矢印する」とは言わないが、「矢の形(印)で指し示す」と言いなおすことがある。
「忘れてきた私」に対して、何かを「指し示そうとするものがある」と感じる。それは「忘れてきた私」だからこそ感じることができるものであって、「忘れてきていない私」には見えない「印」である。
その「忘れてきた私」にしか見えない(矢)印を見たとき、「忘れてきた私」に何が起きるか。
「飛び出す」という動詞と、身を「くねらせる」という動詞。二つの動詞が動く。「矢印」が「飛び出す」、「身をくねらせる」と読むことができるが、「矢印」を認識した人間が矢印の方向に「飛び出す」「身をくねらせる」と読むことができる。いずれにしろ、ふかつの動詞は他動詞」ではなく「自動詞」だ。
私は、「忘れてきた私」が動くと読む。つまり、ここで「出来事」が起きる。「足りない出来事(出来事が足りない)」を補うことになるのか、あるいは逆に「足りない」をさらに意識させることになるのか。「忘れてきた私」に何が起きる。何が「出来事」になるか。
「ある」という「動詞」を発見する。「広場」「空」。あるいは「名詞」というのは、「ある」という動詞を必要とはしていない。「あるもの」の呼び方が「名詞」だから、それは「ある」を前提としている。
言い換え不能は、言い換え不要でもある。言い換え不能、言い換え不要が「ある」ということだ。「ある」から、それでいいのだ。
「森の羅列/立看板の矢印」には「ある」は書かれていなかった。ほんとうは「森の羅列がある/立看板の矢印がある」なのだが、その「ある」は省略されていた。それなのに、ここでは「ある」が補われ、「ある」と書かれている。言い換えると、ここでは「ある」が「認識」となっている。
この発見された「ある」こそが、
を言いなおしたものなのだ。「忘れてきた私」という存在が「ある」。「私」が「あり」、その「私」がなにかを(出来事を)忘れてきたのではない。「忘れてきた私」(名詞)そのものが「ある」。高木は「忘れてきた私」という「存在」を発見し、それに名前をつけたのだ。
この「ある」の発見を促した「飛び出す」「身をくねる」に通じる動詞は、詩の後半にも出てくる。
途中を省略しているので、ここだけ読んでも何のことかわからないかもしれない。けれど途中を引用したとしても、やはり、わからないだろう。
「木が鳴り出す」ということ自体に日常のことばではつかみきれないものがある。謎がある。わかるのは「鳴り出す」とは、やはり自動詞であるということだ。だかち、ここを「飛び出そうと身をくねらせると」の部分の言い直しとして読み直す。
「自分」で動いている。「鳴らす」ではなく「鳴る」。そして、それが「出る」につながっている。「矢印」の方向に「飛び出した」ように、「木が鳴る」ように、「出てもよい」のである。
何から?
「私」からである。「忘れてきた私」から、「そっと出る」。「汗が流れる」ように、「身」から「出る」。
そういうことが、書かれている。
そういうこととは何か。これをさらに言いなおすのはむずかしい。「そういうこと」とだけ書いておく。
「汗が流れた」と動詞が「過去形」になって、「出来事」が客観化されたのにあわせて、「種明かし」がされている。最初の方に見た「身をくねらせる」は「振りかえる」という動詞で言いなおされている。
「一人よりも少ない」、つまり「欠けている私」を「ある」存在として、瞬間的に認識したのだ。
どういう「私」も「ある」。そういうものとして「ある」。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
高木敏次「幹」は、書き出しがわかったようでわからない。
忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない
私は、何を忘れてきたのか。「忘れ物」という言い方があるが、高木は「出来事」と「事」ということばをつかっている。「出来事」を「忘れてきた」と読むことができる。その結果、「一人よりも少ない」という状態になっている。「出来事を忘れてきた私は、一人の人間と呼ぶには、忘れてきた出来事の分だけ少ない(不完全である)」ということになるかもしれない。
だが、「忘れてきた私」を「私は何かを忘れてきた」と読み直すことは正しいのか。読み直したあと、確かめないといけない。
「(出来事を)忘れてきた私」は「私」なのか。「私」ではないからこそ「一人よりも少ない」と言っている。それは「私」ではない。では、「忘れてきた私」と認識しているのは誰か。「出来事が足りない「一人よりも少ない」と考えているのは誰か。「忘れてきた私」そのものになる。「忘れてきた私」としか呼べない存在。その「忘れてきた私」が「出来事が足りない」「一人よりも少ない」と考えている。
つまり。
これは、言い換え不能。そのまま受け入れるしかないことが書かれている。
言い換え不能、とわかりながら、それでも私は「言い換え」を探してしまう。大事なことは、ひとは何度でも言いなおすものであるからだ。
詩のつづき。
迎えるもののたとえば
森の羅列
立看板の矢印
飛び出そうと身をくねらせると
近い広場がある
焦げ臭い空がある
「たとえば」ということばがつかわれている。「たとえば」というのは、言いたいことを補足するためである。だから、ここから「言い換え(言い直し)」がはじまっていると読むことができる。
ここに書かれていることは、「忘れてきた私」を言いなおしたものだ。
「迎えるもの」は「忘れてきた私」を迎えるのか、「忘れてきた私」がむかえるのか、主語を特定するのは、この一行ではわからない。先を読んでも、実はわからない。「両方」と思うしかない。最初の三行で「私」を特定しなかったように、「迎え、迎えられる」を入れ替えながら、同時に考える必要がある。
「森の羅列」は「森」よりも「羅列」の方が刺戟的である。「森」は「羅列」などしない。「羅列する/羅列している」のは、あえて言えば「木」だろう。ふつうにはつかわれないことばがつかわれている。だから刺戟される。「羅列」には「羅列する」という動詞が含まれている。「羅列する」は「立看板」も「羅列している」ということばを誘い出す。その「立看板」には「矢印」がある。「矢印」を動詞にすると、どうなるだろうか。「矢印する」とは言わないが、「矢の形(印)で指し示す」と言いなおすことがある。
「忘れてきた私」に対して、何かを「指し示そうとするものがある」と感じる。それは「忘れてきた私」だからこそ感じることができるものであって、「忘れてきていない私」には見えない「印」である。
その「忘れてきた私」にしか見えない(矢)印を見たとき、「忘れてきた私」に何が起きるか。
「飛び出す」という動詞と、身を「くねらせる」という動詞。二つの動詞が動く。「矢印」が「飛び出す」、「身をくねらせる」と読むことができるが、「矢印」を認識した人間が矢印の方向に「飛び出す」「身をくねらせる」と読むことができる。いずれにしろ、ふかつの動詞は他動詞」ではなく「自動詞」だ。
私は、「忘れてきた私」が動くと読む。つまり、ここで「出来事」が起きる。「足りない出来事(出来事が足りない)」を補うことになるのか、あるいは逆に「足りない」をさらに意識させることになるのか。「忘れてきた私」に何が起きる。何が「出来事」になるか。
近い広場がある
焦げ臭い空がある
「ある」という「動詞」を発見する。「広場」「空」。あるいは「名詞」というのは、「ある」という動詞を必要とはしていない。「あるもの」の呼び方が「名詞」だから、それは「ある」を前提としている。
言い換え不能は、言い換え不要でもある。言い換え不能、言い換え不要が「ある」ということだ。「ある」から、それでいいのだ。
「森の羅列/立看板の矢印」には「ある」は書かれていなかった。ほんとうは「森の羅列がある/立看板の矢印がある」なのだが、その「ある」は省略されていた。それなのに、ここでは「ある」が補われ、「ある」と書かれている。言い換えると、ここでは「ある」が「認識」となっている。
この発見された「ある」こそが、
忘れてきた私は
出来事が足りない
一人よりも少ない
を言いなおしたものなのだ。「忘れてきた私」という存在が「ある」。「私」が「あり」、その「私」がなにかを(出来事を)忘れてきたのではない。「忘れてきた私」(名詞)そのものが「ある」。高木は「忘れてきた私」という「存在」を発見し、それに名前をつけたのだ。
この「ある」の発見を促した「飛び出す」「身をくねる」に通じる動詞は、詩の後半にも出てくる。
木が鳴り出したらなら
そっと出てもよい
それでもやさしく
その幹をなでていると
汗が流れた
途中を省略しているので、ここだけ読んでも何のことかわからないかもしれない。けれど途中を引用したとしても、やはり、わからないだろう。
「木が鳴り出す」ということ自体に日常のことばではつかみきれないものがある。謎がある。わかるのは「鳴り出す」とは、やはり自動詞であるということだ。だかち、ここを「飛び出そうと身をくねらせると」の部分の言い直しとして読み直す。
「自分」で動いている。「鳴らす」ではなく「鳴る」。そして、それが「出る」につながっている。「矢印」の方向に「飛び出した」ように、「木が鳴る」ように、「出てもよい」のである。
何から?
「私」からである。「忘れてきた私」から、「そっと出る」。「汗が流れる」ように、「身」から「出る」。
そういうことが、書かれている。
そういうこととは何か。これをさらに言いなおすのはむずかしい。「そういうこと」とだけ書いておく。
私を忘れた男は
どこかに住んでいて
立ち上がり
熱い果物のようなものが込み上げた
私が駆けてくるのではないか
振りかえる
「汗が流れた」と動詞が「過去形」になって、「出来事」が客観化されたのにあわせて、「種明かし」がされている。最初の方に見た「身をくねらせる」は「振りかえる」という動詞で言いなおされている。
「一人よりも少ない」、つまり「欠けている私」を「ある」存在として、瞬間的に認識したのだ。
どういう「私」も「ある」。そういうものとして「ある」。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
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ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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