詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正案(2)

2018-04-01 21:40:34 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正案(2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外200(情報の読み方)

 安倍が「改憲案」として表明したのは(1)自衛隊を書き加える(2)教育の無償化だった。(2)はどんな文言になっているか。
 26条1項、2項に追加する形で「3項」を提案している。その部分だけを取り上げると全体が見えない。現行憲法とつづけて引用する。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

(自民党の追加項目)
3 国は、教育が国民一人一人の人格の完成を目指し、その幸福の追求に欠くことのできないものであり、かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み、各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、教育環境の整備に努めなければならない。

 なぜ、こんなに長いのか、それが気になるが。
 まず指摘したいのが、「主語」の問題。
 現行憲法は「すべて国民は」と書き出されている。「国民」が主語。
(1)国民は、教育を受ける権利を有する。
(2)国民は、子どもに教育を受けさせる義務を負う。
 権利と義務を明記している。義務は、国民の義務だが、なかには義務を果たせない人もいるかもしれない。経済的に学校へゆかせることができないという人もいるかもしれない。だから「2項」には、「義務教育は、これを無償とする。」という補足がついている。この補足には「主語」がふたつある。
(1)「国民は」、義務教育については、これを無償で受ける権利がある。
(2)「国は」、義務教育については、これ無償にしなければならない。(「国民は」、義務教育については無償で受ける権利を持つ。)
(2)の方は、私が子どものときから、小学校、中学校は無償である。
 「憲法改正」で問題になったのは、いわゆる「高等教育」である。貧困のために進学できない。それが問題になり「無償化」を安倍は提案したはずである。
 それだけなら、「3項」をつけくわえるというよりも「2項」の「義務教育」を「義務教育を含め、あらゆる教育」と書き換えるだけで十分である。ところが、そうしていない。何をつけくわえているか、どう書いているかに注意しないといけない。

 26条を含め、現行憲法の「第3章」には「国民の権利及び義務」というタイトルがついている。「国民」が「主役」である。すでにみたように、現行憲法の26条は「国民は」と書き出されていた。「国」は、隠されていて、補って読む必要がある。
 ところが自民党が追加した部分は「国は」と、「国」が「主語」として躍り出てきている。ここがいちばんの問題。「国民の権利と義務」なのに、「国」が「主張」している。「教育とは何か」について語っている。「国」が「教育」を押しつけている。
 どういう教育か。
(1)国民一人一人の人格の完成を目指し
(2)(国民の)幸福の追求に欠くことのできないものであり、
(3)かつ、国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担う、
 である。
 「人格の完成」というのは抽象的でわからない。「人格」は基本的に「個人のもの」であって、国にとやかくいわれるものではない。「人格」に「完成」があるかどうか、わからない。また目指す「人格」は、ひとりひとり違っているはずである。「個性/多様性」が認識されているかどうか、自民党の案では、あやしい。
 それは(2)と(3)が「かつ」ということばで連結されていることからもうかがえる。「国民の幸福(ひとりひとりの幸福)」と「国の未来」は同じか。同じこともあるかもしれないが、違うこともあるかもしれない。違っていたとき、「主語」の「国」は、国民に対してどう振る舞うのか。
 たとえば、「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」「民主主義は安倍政権を倒さないかぎり死んでしまう」という「教育」をどこかの学校がするとき、それは「国の未来」を構想したものとして、教育をつづけることが保障されるのか。「安倍独裁に対して批判を展開できる人間の完成を目指す」という教育は、国によって保障されるのか。
 おそらく、そうではない。
(1)「安倍政権を批判しない人間/権力を批判しない人間を育てる」ことを目指し、
(2)権力を批判しないことが、幸福につながり(皆が権力に奉仕することで、対立がなくなり)
(3)それが「独裁者」の指導の下に統一された国の未来になる
 ということを目指しているのだ。

 つづけて読んでいく。
(4)各個人の経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保することを含め、
(5)教育環境の整備に努めなければならない。
 (4)は、「教育の無償化」について語っているように見える。しかし、その文末は「含め」という形で、次の(5)につながっている。「切り離せない」ものとして書かれている。そうであるなら、これは「教育環境の整備に努める」ということが「主眼」であって、その環境のひとつとして「経済的理由にかかわらず教育を受ける機会を確保する(教育の無償化)」があると読むことができる。いや、読まなければならない。
 繰り返そう。学校が「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」ということをテーマに教育をするとすれば(研究をするとすれば)、そういう「教育の自由」は保障されるのか。きっと、保障されない。
 自民党(安倍)には、「理想の人間像」があり、そういう人間を育てるために「教育環境を整備する」ということが目的なのである。「理想の人間像」を「人格の形成」などと呼んでごまかしている。
 安倍の思い描いている「理想の人間像」とはどういうものか。安倍は防衛大学の卒業式に、「片腕になれ」と語っている。それが安倍の「理想の人間像」である。安倍のかわりに侵略戦争に出かけ、そこで「精霊」になる人間を「理想の人間像」と呼んでいる。
 軍人でなければ、たとえば「佐川」である。安倍を守るために、「文書は破棄して、ありません」と言い続け、「改竄」が問題になると、「誰が指示したのか」こたえることは訴追のそれがあるから答えられないといいながら、「安倍の指示はなかった」とだけ明言する。二枚舌をつかい、ただひたすら権力に奉仕する。
 学校教育というのは、おうおうにして「先生が求める答え」のみを「正解」とする。そういう採点システム(評価システム)になっている。そのシステムを駆け上った佐川は、いま「安倍先生」の求める答えのみを「回答」として提出している。「安倍先生」に百点をもらうためである。
 これが安倍の言う「教育環境」なのだ。
 森友学園に安倍がなぜ肩入れしたか。「教育勅語」を園児に暗唱させていたからだ。洗脳教育をしていたからだ。「教育勅語」につながる「超保守」の思想は、2012年の「自民党改憲案」に明確に出ている。
 今回の「改憲案」はその「先取り」である。「教育の無償化」を口実にして、教育全体を支配しようとしている。
 これは、もうひとつの「学園」問題、加計学園問題で話題になった、前川前文科省次官の「授業」について踏み込んで質問している文科省(介入を迫った国会議員)の問題からも明らかである。
 自立した人間、批判力をもった人間を育てない、ひたすら権力の言うことに従う人間を育てるために、学校教育が利用されようとしている。その支配が進められている。

 「教育」については「無償化」のほかにも、「改憲」が提案されている。「第7章 財政」の89条である。「金の支出」に関して、「教育」ということばが出てくる部分を改正しようとしている。
 現行憲法は、

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 この「公の支配に属しない」を「公の監督が及ばない」と書き変え、こうしている。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 「公の支配に属しない」とは、それにつづく「教育(事業)」と結びつけて読むと「私立学校」になるだろうか。これを「監督が及ばない」と言いなおしたのはどうしてなのか。「監督するぞ」という意思表示である。
 どんな教育をするのか。「国の未来は安倍独裁政権を倒す以外にない」というような教育はさせないぞ、と言っているのである。教育の自由(学問の自由)を否定している。自民党の「無償化」は「学問の自由」を否定することで成り立っている。
 これは前川授業への介入という形で「先取り実施」されている。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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ジェフリー・アングルス「騙る語り」

2018-04-01 08:52:46 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルス「騙る語り」(「ミて」141、2017年12月31日発行)

 ジェフリー・アングルス「騙る語り」は「寓話」なのかと思って読み始める。

彼等は
人間に見える

 「人間に見える」と書かれているので「人間ではない」と思って読み始める。「正体」は何なのだろう。

問題の原因は
そこにある
道を渡るとき
テーブルに座るとき
目の前で待っているとき
何の見分けもつかない

 「人間に見える」。でも「人間ではない」。しかし、その「見分けはつかない」。では、どうして「人間ではない」と言えるのか。

また
コンビニでぶつかるとき
口をすぼめて 謝るとき
耳元にやさしくささやくとき
何も気がつかない

 「見分ける」が「気がつく」と言いなおされている。「見分ける」は「視覚」の問題。だから一連目には「目の前で」と、「目」も書かれている。(「連」は実際にはなくて、ひとつづきの展開なのだが、私の感想を区別するために、便宜上「連」と呼んでおく。以下も同じ。)「気がつく」は「意識」の問題ということになるか。「耳」のあとに「優しく」ということばがある。「優しく」というのは「目」には見えにくいか。でも「耳」で聞きとれるか。簡単には言えない。「耳」から進入してきて「気(持ち)」に触れるので、「優しい」ということばが動くのか。わからないが、一連目と比較すると、二連目には「接触」が書かれている。「ぶつかる」「謝る」「ささやく」は、「距離」がなくなる感じである。接触は、「気(持ち)」に触れることになる。

また
人の肩に手をかけるとき
黒い手帳を取り出すとき
密かな観察を書き記すとき
何も読み取れない

 「気がつかない」と「読み取れない」は似ている。でも、書き分けているのだから、そこに「違い」があるはずだ。どんな違いだろうか。
 二連目の「接触」は「瞬間的」で、「距離」もあった。「人間に見える」何かと、「私(筆者/ジェフリー・アングルス)」のあいだには「隔たり」があった。三連目では、「隔たり」に変化がある。「手をかける」は明確な接触である。「触れている」ということを意識させる。そのあとの「黒い手帳」はすこし意味が強くて「取り出す」という動詞を見落としそうになるが、「取り出す」の方が重要だ。「取り出す」は「なか」から「取り出す」である。「人間に見える」何かは、その「なか」から手帳を「取り出し」、そこに「密かな観察」を「書き記す。ここでも「書き記す」が大事だ。「接触」してきた何かが、「私」から見つけ出した「何か」を、その「内部」に「取り込んだ」のである。「書き記す」は「書き込む」であり、「取り込む」でもあり、それは「取り出す」と向き合っている。「私」は「取り込まれた」のである。
 どんなふうに「取り込まれた」のか、それを「読み取れない」。
 「読む」は「文字」を「読む」。変更のきかないもの、動かしがたいもの、である。

あとで
独りきりになったら
彼らと交わした言葉と
素直に結んだ約束を
考えなおすだろう

 「考えなおす」という動詞が出てくる。「考える」だけではなく、「考えなおす」。「なおす」は「修正」である。それまで「考えてきたこと」を別な視点から点検しなおす。「人間に見える/彼ら」が何を「書き記したか」は「読み取れない」。だが、「私」自身を振り返れば、そこに「書き記された」ことがある。それは「私」を見つめなおすことである。
 私は「見ていた」(一連目)。しかし、実は「見られていた」。私は「気がつかなかった」(二連目)。しかし「彼ら」は「気づいていた」。私は「何も読み取れなかった」。しかし、「彼ら」は「私」をしっかりと「読み取り」、しかも「取り込んでいた」。「取り込んでいた」とは書かれていないが(三連目)。
 どこに?
 「彼ら」の「枠(規定)」のなかに、である。

だが
もう遅すぎる
証拠はすでに採用されて
有罪か 無罪か
もう判決が
出ている

 「有罪」か「無罪」かは、ある「基準」によって決まる。「枠(規定)」をあてはめて判断される。「書き込まれた」瞬間に、もう「判決」が出ている。というよりも、想定された「判決」にそって「証拠」が集められた(書き込まれた)ということになるだろう。
 この最終連には、そして「私」がない。「私」を引き受ける動詞がない。
 「私は」何も見分けがつかない(一連目)
 「私は」何も気がつかない(二連目)
 「私は」何も読み取れない(三連目)
 「私は」考えなおすだろう(四連目)
 判決が出ている(五連目)
 強引に「私は」を主語にすると、

 「私は」何もできない

 ということになる。「私は何もできない」が省略されていることになる。
 こんな状況に追い込まれてしまったのはなぜか。
 「彼らは/人間に見える」にもどって読み直してみる。(考えなおしてみる)。
 「彼らは/人間に見える」は「彼らは人間ではない」を含んでいる。だが、それは「人間以外の何か」を指すとは限らない。

 彼らは人間に見えないが、人間である。

 これを「反対側」から言ったのが「彼らは/人間に見える」なのである。「有罪か無罪か」断定されたとき(きっと有罪である)、そういう暴力をふるう人間は人間には見えない(自分にとって仲間には見えない)。けれど、その「彼ら」も「人間である」。
 「彼らは人間に見えるが、人間ではない」と始まった「寓話」は、「彼らは、私には人間には見えないが、人間である」と、逆の「結論」にたどりついて閉じられる。
 どこが「区切り」と言えない「ずるずる」と動いてしまう感じが、「連」をつくらずに「また」「あとで」「だが」という短いことばで動いているところが不気味である。「人間に見える」を通り越して、「日本の状況」に見えてくる。

 つまり。

 この「寓話」は、いまの「日本」を語っていようにも読み取ることができる。
 安倍は「人間に見える」。けれど、別の名前(呼称)が必要である。「総理大臣」ではなく「独裁者」という「呼称」が。
 安倍の気に入った人間だけを優遇し、そうでない人間は「有罪」と判断して切り捨てる。そのために「黒い手帳」をもった人間を組織し、「密かな観察」を「書き込み続ける」。そういうことが始まりつつある。
 つい最近、文科省の前次官が学校で講演したところ、その内容を文科省が調査するということがあった。自民党の国会議員が問い合わせるように圧力をかけたのである。その際、「前川は不祥事で辞任した人間である。風俗店に通っていた人間である」という一方的な「見方(枠)」を押しつけている。つまり「有罪」判決を押しつけて、調査をすすめている。
 こういうことは、どんどん増えてくるだろう。
 国税庁長官をやめた佐川の場合は、もっと問題が深刻である。学校で、「先生」の求める「回答」にあわせて答えるという訓練だけをしてきた人間が、その「習性」を捨てきれずに、「安倍の求める答え」にあわせて「答え」つづけている。証人喚問では、自民党の丸川が、これまて「安倍の求める答え」を誘導するように、質問を繰り広げている。
 不気味なのは、「事件」がすべて、森友学園(佐川)、加計学園(前川)と「学校」がらみであることだ。
 「学校」とは、「自分で考える力を育てる」場所である。しかし、安倍がつくろうとしている学校は、佐川に代表されるように、「先生の求める答え」以外は答えないという人間を育てるための学校である。「洗脳」するための学校である。森友学園を優遇したのは、「教育勅語」を幼稚園児に暗唱させるという「洗脳教育」がお気に入りだったからだろう。
 「洗脳」と「密告」で「独裁」は完全になる。
 「人間の仮面」をかぶって、「独裁」が進んでいる。
 「エイプリルフール」ではない。「警鐘」として、この「寓話」を読み直す必要があると思う。





*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

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目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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