劉暁波『独り大海原に向かって』(劉燕子・田島安江訳・編)(書肆侃侃房、2018年03月20日発行)
劉暁波『独り大海原に向かって』のなかに「天安門事件犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)」という作品が十九篇ある。「一周年追悼」から「十九周年追悼」まで。ただし「十二周年追悼」が二篇あり、「十四周年追悼」はない。「十四周年」(2003年)に何があったのか。わからない。
「一周年」の詩には「死の体験」というタイトルがついている。
この書き出しよりも、私は二連目の方が好きである。
これは天安門の「実景」かどうかわからない。死んだ母親のとなりに子どもが泣いていたかどうかわからない。たぶん「子ども」は「旗」の比喩なのだと思う。「旗」は支える人(持つ人)がいないと倒れてしまう。死体のそばで、旗は力なく倒れていただろう。倒れているから、どこにあるかわからない。「旗が見分けられなくなった」とは「翻る旗を見ることができない」という意味だろう。
そう読んだ上で、「比喩」の力というものを、ここに見る。
旗は母親が死んだことを知らずに泣き叫んでいる。ここはいやだ。お家へ帰りたい。「家」とはどこなのか。旗にとって、「家」とは何なのか。
逆に、「家」にとって「旗」とは何なのかも考える。「旗」は「家」の象徴である。「旗」を目印に、ひとは「家」へ帰ってくる。
瞬間的に、子どもは「旗」に向かって、「もう一度、翻って、目印になってくれ」と叫んでいるようにも見える。
「比喩」というのは、論理的には別の存在であることによって「比喩」として成り立つのだが、いったん「比喩」になってしまったら、それは区別がつかない。瞬時に入れ代わりながら動く存在である。(「きみは薔薇のように美しい」と言ったとき「きみ」と「薔薇」は別個の存在だが、それは固定化されたものではなく、入れ代わることで「意味」が明確になる。)
ここには天安門を直接見た人間の、強い視力が生きている。動いている。「見分けられない」には「否定」の意味があるが、この否定を肯定に変えていく強い力が、ことばとなって動いている。
こういうことばを読むと、「天安門」にいるような錯覚にとらわれる。
5連目の次の部分も強い。
「ぼくはまだ生きている」。それまでは「生きている」という実感がなかった。それまでの実感は「死になくない」だったか、「逃げなければ」だったか。
この「気づき」が、そして、周囲の「死」の絶対性をさらに強調する。「生きている」と気づくことで、死んだ人がいる、その死が意識に入ってくる。死を放置して、ことばを動かせない、と自覚させる。
「気づく」はまた「わかる」でもある。どこに向かうか「わからない」が、いきていることは「わかる」。「わかる」ことをことばにし、「わかる」を広げていく。
「ぼくはまだ生きている」というところから、劉はすべてのことばを動かし始めるのである。
「記憶(六周年)」では、次の部分。
「生きる望み」という「名詞」が「もがく」という「動詞」で言い換えられる。「肉体」がもがいているのだが、それは「希望」がもがいているのだ。火葬場に投げ込まれたときも、柔らかいのは「からだ」だけではない。「希望」そのものも柔らかいのだ。
「生きる希望」(生きたいという欲望)だけではなく、「彼ら」にはもっともっとことばにならないままの「希望」があった。その「希望」は語られることなく(ことばになることもなく)、焼かれてしまった。
ここでも、ことばは入れ代わる。入れ代わることで、単独では見えないものを明確にする。
「ぼくはぼくの魂を解き放つ(七周年)」の最後。
「松葉杖」の「比喩」はわからない。わからないから、考える。「追放された霊魂」とは天安門で死んだ人の霊魂である。足をなくして死んだ人がいるだろう。眼を撃ち抜かれて死んだ人がいるだろう。そのひとたちが「ぼく」の「松葉杖」になるということだろう。そのひとたちに導かれて、どこへでも行く。方向は決まっていない。その人たちが生きたいと思うところがどこであれ、そこへ行かなければならない、と劉は感じ、それをことばにしている。
「一枚の板の記憶(十二周年)」を読む。
「あれ何か」は「わからない」。しかし、「わかる」ことがある。「彼はぼくよりずっと勇敢」であること、が「わかる」。そして「勇敢」とは特別なことではない。それは「ふる里の硬い石ころ」のように、ただ、そこに「ある」ということなのだ。
そこに「ある」ものすべてが勇敢である。
これは、逆説的に、「彼を殺した者」は「勇敢ではない」と告発しているのだ。天安門事件で暴力をふるった者たち、武装し、彼らを殺したものたちこそが「勇敢」からほど遠い存在なのだ。戦車が石ころを破壊したのだ。戦車が石ころを恐れたのだ。
「あの春の霊魂(十八周年)」にも「わからない」ということばがつかわれている。
「霊魂」と「残忍」と「春」。それは互いに互いの「比喩」になりながら動く。切り離せない。別個のものを強烈な力で結びつけ、それを瞬間的に入れ替えてしまう。そのとき、詩が動く。
詩は美しくロマンチックなものばかりではない。
詩は、ただ「強い」ものである。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
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劉暁波『独り大海原に向かって』のなかに「天安門事件犠牲者への鎮魂歌(レクイエム)」という作品が十九篇ある。「一周年追悼」から「十九周年追悼」まで。ただし「十二周年追悼」が二篇あり、「十四周年追悼」はない。「十四周年」(2003年)に何があったのか。わからない。
「一周年」の詩には「死の体験」というタイトルがついている。
記念碑が声を殺して哭いている
流血が染み込んだ大理石のマーブル模様
心が、思いが、願いが、青春が
戦車の錆びたキャタピラーに轢き倒され
東方の太古の物語が
突如、鮮血となって滴り落ちてきた
この書き出しよりも、私は二連目の方が好きである。
ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー!」
これは天安門の「実景」かどうかわからない。死んだ母親のとなりに子どもが泣いていたかどうかわからない。たぶん「子ども」は「旗」の比喩なのだと思う。「旗」は支える人(持つ人)がいないと倒れてしまう。死体のそばで、旗は力なく倒れていただろう。倒れているから、どこにあるかわからない。「旗が見分けられなくなった」とは「翻る旗を見ることができない」という意味だろう。
そう読んだ上で、「比喩」の力というものを、ここに見る。
旗は母親が死んだことを知らずに泣き叫んでいる。ここはいやだ。お家へ帰りたい。「家」とはどこなのか。旗にとって、「家」とは何なのか。
逆に、「家」にとって「旗」とは何なのかも考える。「旗」は「家」の象徴である。「旗」を目印に、ひとは「家」へ帰ってくる。
瞬間的に、子どもは「旗」に向かって、「もう一度、翻って、目印になってくれ」と叫んでいるようにも見える。
「比喩」というのは、論理的には別の存在であることによって「比喩」として成り立つのだが、いったん「比喩」になってしまったら、それは区別がつかない。瞬時に入れ代わりながら動く存在である。(「きみは薔薇のように美しい」と言ったとき「きみ」と「薔薇」は別個の存在だが、それは固定化されたものではなく、入れ代わることで「意味」が明確になる。)
ここには天安門を直接見た人間の、強い視力が生きている。動いている。「見分けられない」には「否定」の意味があるが、この否定を肯定に変えていく強い力が、ことばとなって動いている。
こういうことばを読むと、「天安門」にいるような錯覚にとらわれる。
5連目の次の部分も強い。
夜更けてとあるたばこ屋の前で
ぼくは数人の屈強の男に襲われた
手錠をかけられ、目隠しされ、口もふさがれ
どこに向かうかわからない護送車に投げ込まれた
ただハッと気がついた ぼくはまだ生きていると
「ぼくはまだ生きている」。それまでは「生きている」という実感がなかった。それまでの実感は「死になくない」だったか、「逃げなければ」だったか。
この「気づき」が、そして、周囲の「死」の絶対性をさらに強調する。「生きている」と気づくことで、死んだ人がいる、その死が意識に入ってくる。死を放置して、ことばを動かせない、と自覚させる。
「気づく」はまた「わかる」でもある。どこに向かうか「わからない」が、いきていることは「わかる」。「わかる」ことをことばにし、「わかる」を広げていく。
「ぼくはまだ生きている」というところから、劉はすべてのことばを動かし始めるのである。
「記憶(六周年)」では、次の部分。
旅に出るときの彼らはまだ若かった
地面に倒れる瞬間
一縷の生きる望みのために懸命にもがいていて
火葬場に投げ込まれたときも
そのからだはまだ柔らかかった
「生きる望み」という「名詞」が「もがく」という「動詞」で言い換えられる。「肉体」がもがいているのだが、それは「希望」がもがいているのだ。火葬場に投げ込まれたときも、柔らかいのは「からだ」だけではない。「希望」そのものも柔らかいのだ。
「生きる希望」(生きたいという欲望)だけではなく、「彼ら」にはもっともっとことばにならないままの「希望」があった。その「希望」は語られることなく(ことばになることもなく)、焼かれてしまった。
ここでも、ことばは入れ代わる。入れ代わることで、単独では見えないものを明確にする。
「ぼくはぼくの魂を解き放つ(七周年)」の最後。
ぼくには障がいがあるで
決して脱出できない
この都市から、この時代から
ただ一つ幸いなのは
ぼくには追放された霊魂がついている
足もなければ眼もないが
松葉杖だと前に進める
方向はどこでもよく
雨風を避ける必要もなく
あちこちをたださまようばかり
「松葉杖」の「比喩」はわからない。わからないから、考える。「追放された霊魂」とは天安門で死んだ人の霊魂である。足をなくして死んだ人がいるだろう。眼を撃ち抜かれて死んだ人がいるだろう。そのひとたちが「ぼく」の「松葉杖」になるということだろう。そのひとたちに導かれて、どこへでも行く。方向は決まっていない。その人たちが生きたいと思うところがどこであれ、そこへ行かなければならない、と劉は感じ、それをことばにしている。
「一枚の板の記憶(十二周年)」を読む。
夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ
あれは何だ ぼくにはわからない けれど
彼はぼくよりずっと勇敢
ぼくのふる里の硬い石ころのようで
ぼくよりずっと脆くて痛々しい
「あれ何か」は「わからない」。しかし、「わかる」ことがある。「彼はぼくよりずっと勇敢」であること、が「わかる」。そして「勇敢」とは特別なことではない。それは「ふる里の硬い石ころ」のように、ただ、そこに「ある」ということなのだ。
そこに「ある」ものすべてが勇敢である。
これは、逆説的に、「彼を殺した者」は「勇敢ではない」と告発しているのだ。天安門事件で暴力をふるった者たち、武装し、彼らを殺したものたちこそが「勇敢」からほど遠い存在なのだ。戦車が石ころを破壊したのだ。戦車が石ころを恐れたのだ。
「あの春の霊魂(十八周年)」にも「わからない」ということばがつかわれている。
ぼくにはよくわからない。霊魂があの残忍な春を昇華させたのか、
それとも残忍さそのものが春をもって霊魂を昇華させたのか。
「霊魂」と「残忍」と「春」。それは互いに互いの「比喩」になりながら動く。切り離せない。別個のものを強烈な力で結びつけ、それを瞬間的に入れ替えてしまう。そのとき、詩が動く。
詩は美しくロマンチックなものばかりではない。
詩は、ただ「強い」ものである。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
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ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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