詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)

2018-04-30 10:12:39 | 映画
チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)
                  (2018年04月29日、t-joy 博多スクリーン5)
監督 チャン・フン 出演 ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン

 これは韓国の「ペンタゴンズ・ペーパー」と言えるかもしれない。政府が「不都合な事実」を隠す。「事実」を「過少」に伝える。それをジャーナリズムがあばく。
 しかし、大きく違う点がある。
 「ペンタゴンズ・ペーパー」では「事実」を発見するのがジャーナリストであるのに対し、「タクシー運転手」ではタクシー運転手であることだ。「情報」の外にいた運転手が、現場にまきこまれてしまう。そこには「情報」というような、整理されたものはない。「事実」がただあるだけだ。軍隊が国民に向かって銃を撃っている。国民を守るための軍隊なのに、国民を殺している。負傷者を助けようとするひとまでも狙っている。動きが遅いから狙いやすいのである。反抗してこないから効率的なのである。
 さて、どう向き合うことができるか。
 運転手の「目的」は金だった。金があれば家賃が払える娘に靴を買ってやれる。平穏に暮らせる。しかし、「事実」を知ってしまうと、それだけではすまなくなる。
 この映画でいちばん興味深かったのは、運転手が光州にドイツ人ジャーナリストを置き去りにして、ひとりでソウルへ帰るシーンである。その途中、食堂に入る。食堂に集まってきている人たちが光州事件について話している。それは彼が見てきた「事実」とはまったく違う。多くのひとは「事実」を知らない。
 何ができるだろうか。
 食堂で、「事実は違う。私は光州で、こういう光景を見てきた」と語っても、だれにも伝わらないだろう。無残に死んで行く光州市民のために何ができるか。
 彼を動かしたのは何なのだろうか。光州市民を見殺しにはできないという「正義感」か。「ジャーナリズム」の必要性に、このとき気づいているとは言えないかもしれない。けれど、「情報」には「事実」と「ねじまげられた事実」があるということには気づいている。「この情報は間違っている」と気づいている。
 逃れてきた光州へ引き返す。そうすると事態はいっそう深刻になってる。きのう、音痴だと笑い飛ばした学生が病院で死んでいる。ほかにも数えきれない死者がいる。負傷者がいる。ジャーナリストも茫然としている。ここで、はっきりジャーナリズムの必要性に運転手が気づく。知らせなければ、だれも知らない。「事実」なのに「事実」にならない。
 ジャーナリストを励まし、映像を撮らせ、それからソウルへの脱出行がはじまる。運転手仲間がそれに協力する。「私服軍人」の追跡を命がけで妨害する。みんなが「伝えてほしい、知らせてほしい」という願いを託している。その思いに支えられて、脱出行は成功する。
 このあと運転手は、運転手集団というか、市民のなかに隠れてしまう。姿をあらわさない。自分の仕事は、そこまで、とはっきり意識している。光州市民を助けることができなかった、あるいは光州のタクシー運転手仲間に助けられたという思いが、彼を「隠す」のかもしれない。表に出てはいけないという気持ちにさせるのかもしれない。
 何をするべきなのかを知っている。
 これは、とても重要なことだ。
 途中に、運転手仲間とけんかするシーンがある。光州までの前料金を運転手は受け取っている。光州に着いてみると、とても危険だ。家ではひとり娘も待っている。早く帰りたい。どうすればいいのか。ジャーナリストが残りの料金も払う。「もう、帰れ」「それは受け取れない」。職業倫理だ。このやりとりに、運転手仲間が加わるから、ちょっとややこしいのだが、このシーンが非常にいい。
 何をするべきか知っているというのは、「思想」の問題である。
 よく中国人は経済で動き、韓国人は思想で動き、日本人は政治で動くというが、その「本質」がここに出ている。その行動は自分の「信念」にあっているか、「倫理」にあっているか、つまり「道」として動いているかどうか。「道」というのは、いつでもいくつにもわかれている。どこを通るか。それを「ことば」として言えるか。ことばとして「言える」のは「道を知っている」ということである。
 で、ここから、飛躍するというか、この映画のもうひとつの見せ場が、「道」を通して語りなおすことができる。
 光州からソウルへ脱出する。このとき高速道路はもちろん一般道路は検問で封鎖されている。ところが、「道」はどこにでもある。運転手仲間が地図を渡しながら言う。「この道は地元の人間でもあまり知らない。ここを通って行け」と。その土地には、その土地の「道」がある。「道」はどこにでもつくられている。
 だとしたら、その「道」をどう歩くか(行くか)というも、また、思想そのものになる。
 地元のひとしか知らない道にも「検問」はあった。なんとかして突破したものの、追跡される。そこでクライマックスのタクシー運転手集団が登場することになる。山の中から突然、というのは奇妙かもしれない(映画的すぎるかもしれない)が、だれでも「秘密の道」をもっている、「道」は切り開くことができる、と考えれば、そういうことはあってもいいのだ。
 自分がするべきことを知っているから、必然的に、そこに「道」はできるのだ。
 タクシー運転手という「仕事」がそのまま「思想」となって、動く。「道」を知らないとタクシー運転手は仕事にならない。知っている「道」を確実に進むことで、客に安心を与える。
 
 ここから「ジャーナリズム」の「道」とは何かを考えることも必要かもしれない。日本では、いま、ジャーナリズムがほとんど死んでいる。「隠されている情報」をどこまでも追及し、明るみに出すという姿勢が欠如している。
 森友学園、加計学園だけではない。
 いま沖縄で起きていることは、「光州事件」に類似している。死者こそ出ていない(出ていないと思う)が、機動隊員と市民が向き合い、市民が暴力的に排除されている。その「事実」はときどきネットで流れているが、新聞、テレビに大きく取り上げられることがない。矮小化されて報道されている。「光州事件」のさなか、「学生の死者は一人」という具合に報じられたのと同じである。
 「情報」が正確に報道されないと、どういうことが起きるか。「光州事件」はいつでも起きるということだ。安倍の「沈黙作戦(情報を与えず、議論させない作戦)」は、絶対に「光州事件」を日本でも引き起こす。すでに稲田は「自衛隊としてお願いします」と言ったが、あらゆるところに「自衛隊」が出動し、市民の行動を封じ込める。それは「報道」されず、隠されたままに行われる。安倍が独裁者のまま居座り、自衛隊が「合憲化」されたら、あらゆる市民運動が自衛隊をつかって封殺される。その結果、一切の議論がなくなり、安倍がしきりに口にする「静かな環境」が完成する。
 「光州事件」の再現シーンで、私は、そういう恐怖を感じた。
この恐怖から、タクシー運転手の「道」が救ってくれたのだが、さて、私にはどんな「道」が可能なのか、という問いをつきつけられた気持ちにもなった。

 まず、「不思議なクニの憲法2018」の上映会で、憲法について語り合うことからはじめる。福岡市での上映会は初めてです。ぜひ、ご参加ください。

日時 5 月20日(日曜日)午後1 時から(上映時間111 分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室(定員70人)
料金 1000円(当日券なし、要予約)
申し込み、問い合わせ 谷内(やち) 090・4776・1279
           yachisyuso@gmail.com

 ★1個追加は、いま、この映画を見逃してはならないという気持ちをこめて。安倍政権がつづくと、絶対に「光州事件」が日本で起きる。「天安門事件」かもしれない。「事実」を「情報」として共有する重要性について、考えなければならない。



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