詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」

2018-04-16 10:30:06 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「うさぎ島」、宗田とも子「遠い水」、若尾儀武「答」(「タンブルウィード」3、2018年03月15日発行)

 同人誌、あるいは月刊誌で詩を読むのは、むずかしい。複数のひとが書いていて、「ことば」が入り乱れる。共通ではないものが共通なものとして見えてきたり、共通なのに違うものに分かれていったりする。これは、私の「個人的」な印象だけれど。

 斎藤恵子「うさぎ島」。

なにをはこんでいるかしらない
いっしんに
ちいさな手をはなさないで
せかいに撒かれるものを
たいせつにして

 「しらない」けれど「いっしん」である。「いっしん」は「一心」で、それは「たいせつ」と言いなおされる。「たいせつ」は「はなさない」という動詞へ還っていく。
 なぜ「しらない」かといえば「ちいさな」ひとだからである。
 そういうことを引き継いで、

みしることのないひとたちの
あえいだ息が
海ぞこにかさなり

 と、ことばが動く。「しらない」は「みしることのない」とかわる。同時に、そこに「あえいだ」が加わる。息。「ちいさな手」のひとたちもまた「息」をしただろう。「いっしん」に、手から「はなさずに」、「たいせつ」に運ぶとき、いつもとは違う「息」をしていただろう。
 「しらない」が「息」を通して重なり、それが「海ぞこ」に「かさなる」。
 ことばにならなかった「歴史」がふいに、そこにあらわれてくる。



 宗田とも子「遠い水」には、こんなことばがある。

高速横浜環状南線の橋脚下部工事が終わるのは来春だ
フェンスの囲いが畑と水田をはめ残したパズルの模様にする
それでも実る稲と里芋の葉が揺れている
コウボネの黄色の花と露草のあぜ道は数百年の土を重ねてきた
赤マンマに覆われた角地はもうすぐ廃田になる

 「数百年の土を重ねてきた」。この「重ねる」の「主語」は何なのか。わからない。「あぜ道」をつくったひとと言えるかもしれないが、特定してもはじまらない。「ひと」を無視して、そこに「あぜ道」は「ある」。それは「あぜ道」であることをやめてしまっても、「土」そのものとして「ある」。そこには「重なる」が「ある」。
 具体的なことは何も「しらない」。けれど、「しらない」を超えて、「ある」があることが「わかる」。
 「ちいさな手」は、その手の持ち主である子ども(たぶん)は、「なにをはこんでいるか」だけではなく、あらゆることを「知らない」。けれど、何かが「わかる」。だから「いっしんに」動いている。「たいせつ」を生きている。



 若尾儀武「答」では、ことばは、こんなふうに動いている。

そやさかい どう返事したら答えになるのんか
考えに考え抜いて
テンノウヘイカがそういわはるのやったら残ります
と答えました
そうしたら センセ
ハル君はあんまり学校に来んけれど ええ心構えしとる
みんなもハル君を見習わないかんな
と 言わはって
わたしは
何で急にハルがハル君になったんか
わけ 分からんと
教室の隅でうつむいていました

 「わけ 分からん」と書いているが、わからないのは「わけ」であって、「急にハルがハル君になった」ということは「わかる」。この「わかる」が強烈だからこそ、「わからない」がある。
 この「わからない」ものを「わかる」のはいつか。それは「わかる」というよりも「知る」である。

 「知る」には「肉体」で繰り返しなおすことのできない、何か「残酷」なものがある。
 宗田の書いている「あぜ道」の「数百年」も「知る」ものだが、それは人間は「数百年は生きられない」という「事実」をつきつけるという意味では「残酷」だが、そんな「知る」を無視して土は「ある」と「わかる」ので、不思議と優しい気持ちになる。
 三人は「知る」「知らない」「わかる」「わからない」をどうつかうかを相談して決めているわけではないのだが、「ことば」の奥を似たものかつらぬいている。






*

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夜を叩く人
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マーク・ウェブ監督「さよなら、僕のマンハッタン」(★★★★+★)

2018-04-16 09:56:14 | 映画
監督 マーク・ウェブ 出演 カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジス、ケイト・ベッキンセール、ピアース・ブロスナン

 映画はナレーションからはじまる。ジェフ・ブリッジスの声である。やがてカラム・ターナーがあらわれる。そして、しゃべる。この瞬間、私は眩暈のようなものをおぼえる。「声」が似ている。私は音痴だ。耳が悪い。だから混乱するのかもしれないが、妙に似ている。いまのはジェフ・ブリッジスのナレーション? カラム・ターナーのこころの声?
 ニューヨークに住んでいるネイティブなら混乱しないかもしれないが、私の耳は混乱してしまう。
 で、この「混乱」が最後になって、「混乱」していてよかったのだ、と納得する。二人の声が似ているのには、それなりの理由があったのだ。
 という「オチ」は、まあ、どうでもよくて。
 映画はまるで「小説」。映画なのに「会話」や「アクション」よりも風景描写が多い。街の表情がストーリーを語っていく。「名所」が出てくるわけではない。セントラルパークは出てくるが、ランドマークとなるような建物は出てこない。「街角」が出てくるだけである。その「街角」が、人が生きていることを語る。
 マンハッタンは巨大な街なので、一人で住むと、まさに「ひとり」であることが強烈に身に迫ってくるだろうけれど、それはそのひとだけが感じることではない。みんなが感じていることなのだ。そのせつなさが、あらゆる街角にあふれている。
 あ、行きたいなあ。あの街角を歩いてみたいなあ、と思う。そこでは、何をことばにしても「詩」になる、と錯覚させてくれる。いや、きっと詩になるに違いない。巨大な街のなかで「ひとり」が触れることができるものは、小さな「個別」そのものだから。「個別」をことばにするしかないから。
 で、「ことば」と書いて。
 また最初にもどる。「ことば」と「声」。あるいは「語る」こと。
 この映画は、伏線として、初老の作家がマンハッタンでひとり住まいをしている少年(といっても、すでに青年である。現代は、「少年時代」が長いのだ)が、少年から大人になるまでを小説にするということになっているが、それを見終わると、初老の作家こそが「少年」そのものに見えてくる。作家は「おとな」になるために、「少年」を書くしかなかったのだとわかる。ジェフ・ブリッジスとカラム・ターナーが静かに交錯し、静かに入れ代わる。こういうことが自然に起きるのもニューヨークならではなのだと思う。
 ニューヨークには「未来」の美しさがある。すでに古い街だが、必ず新しいことが起きる街だと感じさせてくれる映画だ。「過去」を発見し、生きなおすこと、それも「未来」なのだ。それが繰り返されているのがニューヨーク。
 黒星1個の追加は、カラム・ターナー、ジェフ・ブリッジスの「声のキャスティング」に。
(2018年04月15日、KBCシネマ1)


 *

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