詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「とぜん」

2018-04-17 10:29:33 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「とぜん」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)

 「しらない」「わからない」について考えていたら、ふいに、こんな詩があったことを思い出した。
 白鳥信也「とぜん」。

父親より三つ年上の伯父さんは
鍛冶屋で
暗がりで火を使って鉄を溶かし
鍬や鎌をこしらえる
小学校の帰りに立ち寄ると
伯父さんは囲炉裏の脇に座って炭火をみつめている
どうしたのときいたら
とぜんとしている
という
ぬしはずいらぼっぽりどこいってけつかる
という
伯父さんのいっていることはほとんどわからない

家に帰って母親に
とぜんとしている
とはどういうことかと聞いても
母親は知らないという
東京で育った母親は疎開して以来東北暮らしだが
当地の言葉をうまく使えない
父親に聞いたら
とぜんはとぜんだという

 ここに「わからない」と「知らない」が出てくる。
 白鳥は「わからない」と書き、母親は「知らない」と答えている。
 ひとは、どういうときに「知らない」というのか。その「状況」にいないときに「知らない」という。「状況」にいれば、「状況」がわかる。
 この詩でいえば、「伯父さんは囲炉裏の脇に座って炭火をみつめている」。それだけではなく、それを見たら思わず「どうしたの」と聞きたくなる。つまり、「他人」から見たら何をしているか「わからない」。けれど、そこにそうしている。ただ、そこにいて、時間をつかっている。
 こういうとき「とぜんとしている」と言う。
 それだけのことであり、それを「言い直し」しても、どうしようもない。
 母親は、その「状況」を見ていない。だから「知らない」としか言えない。
 「伯父さんが、囲炉裏の脇に座って炭火をみつめて、とぜんとしていた」と白鳥が言ったのなら、母親は「そう、囲炉裏の脇に座って炭火をみつめて、とぜんとしていたの」と返事をするだろう。そのあとで、「とぜんってなに?」と聞けば、「何にもせずに、ただ囲炉裏の脇に座って炭火をみつめているようなこと」と言うだろう。
 「つかう」と自然に「意味」が肉体に入ってくる。つかわないと、「意味」は肉体に入ってこない。母親は「意味」が「わからない」から、「当地の言葉をうまく使えない」のではなく、ことばを「つかわない」から意味が「わからない」。
 ことばは「意味」ではなく、つかうときの「肉体」の「気持ち」だ。

父親に聞いたら
とぜんはとぜんだという

 これが、端的にそのことを語っている。父親は「ことば」を「つかっている」。それは「肉体」になっている。突然、そこに「意味」だけを問われても、答えようがない。

 で、突然、脱線するのだが。
 NHKのラジオ講座で、大西泰斗の「ラジオ英会話」がはじまった。その放送をたまたま聞いていたら、とてもおもしろいことを言っていた。

My dad runs this restaurant.

 この「run 」を、どうつかみ取るか。
 まず、ネイティブの男性に「run を説明して」とたずねた。男性は「先生、困ります。run なんて、だれもが知っている。足を速く動かして、動きつづけること」とかなんとか言っていた。
 ここがポイント。
 この例文の場合も、run は「動き続ける」とつかみとればいい。自分が動き続けるのではなく、レストランを動き続けるようにする、動かし続ける。
 これを、「わかりやすく(?)」言いなおすと、「経営する」になる。でも、「経営する」という具合に意味を限定してとらえるのではなく、そのことばをつかっているひとの「気持ち」をつかみ取ることが、英語を「つかう(つかえるようになる)」コツというのである。

 これは、日本語も同じだろう。
 「状況」と「気持ち」。それがいっしょになって動いているのが「ことば」。「状況」と「気持ち」が「わかる」なら、「意味」はそのうちにやってくる。「意味」は「言い直し」。「意味」は「論理の経済学」でできている。あいまいさをなくし、合理的に、速く、簡便にを最優先する。そういう「つかい方」を「知っている」ことを、「頭がいい」と言うのだと思うけれど。

 また脱線したが、ことばにとって重要なのは「意味」を「知る」ことではなく、ことばが動いている「状況(気持ち)」が「わかる」こと。共感できること。それは、そのことばをつかうこと。それは「言う」「書く」「聞く」だけではなく、「肉体」を重ねること。

次の日伯父さんのところに立ち寄って
なにもせずにぼおっと座っていたら
ぬしもとぜんか
かばねやみでもしたか
という

 「肉体」と「ことば」が重なると、そこに「ことばにならない気持ち」が動き始める。いままで知らなかった「気持ち」が生まれる。それが「わかる」。「なにもせずにぼおっと座ってい」ること、そのときの「気持ち」が「とぜん」。徒然。つれづれなるままに、である。
 「知ったこと」は「忘れる」かもしれないが、「わかったこと」は忘れない。
 だから、白鳥は、こうやって詩を書いている。
 それは「意味」ではなく、「気持ち」だ。

そのころは声だけ
ことばの響きがとびかっていた

 この二行は美しい。
 「ことば」は「意味」に汚されずに、「声」と「響き」のなかで、ゆったりと遊んでいる。つまり、「論理の合理主義/論理の経済学(資本主義?)」に組み込まれることもなく、ただ「肉体」といっしょにある。
 こういう「時間」を「おぼえている(わかっている)」のは、とても大切なことだ思う。

*

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