詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」

2018-04-15 09:51:18 | 詩(雑誌・同人誌)
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、吉田文憲「二つの声」(「午前」13、2018年04月15日発行)

 工藤正廣「すべての祝福の始まり」には「リルケとパステルナーク 田口義弘を偲びつつ」という副題がついている。リルケとパステルナーク(少年)の「出会い」が書かれているのだが、それは田中義弘と工藤の出会いなのかもしれない。
 パステルナーク(少年)は父と旅行している。その列車にリルケが乗ってくる。その三連目。

遥かな野辺とプラットホーム
二人の話すドイツ語
少年はすでにドイツ語は完璧なほどに分かる
しかしこのひとのドイツ語は なぜだろう
いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ

 なるほど、そうかもしれない、と思う。ことばは、「意味」ではなく、それ自体の「ひびき」である。
 この五行のなかでは「なぜだろう」ということばが、「ひびき」として美しい。
 「このひとのドイツ語は/いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ」という形でも「意味」は同じだ、というのは極論だが、「意味」は通じる。その「主語」と「述語」のあいだに、「なぜだろう」という少年の「疑問」が割り込んでいる。「意味/論理」を邪魔するように割り込んでいるのだが、同時に「意味/論理」を後押しするように動いているとも読むことができる。
 邪魔しているのか、推し進めているのか。
 これは、むりに「結論」を出さなくていいことだ。
 何かが動いている。その「衝動」を感じればいいのだと思う。「論理/意味」とは違う「衝動」、あるいは「本能/欲望」のようなもの。それが「純粋」であるとき、それは「美しい」。そして、その「声(ことば)」を聴くとき、そこに今まで知らなかった「ひびき」がある。
 これはなんだろう、ではなく、パステルーク少年は「なぜだろう」と感じている。「なぜ、そんなひびきになるのか」。「なんだろう」は「意味」。でも「なぜだろう」は「意味」ではなく、それを「支えている」ものへの関心だ。
 「意味」は「わかる」。「わからない」のは「なぜ」。そして、その「なぜ」はリルケその人へと向かう。「ことば」の「意味」は「わかる」。「わからない」のは、「そのひと」である。
 「このひと」は誰だろう。どういうひとだろう。
 だから、詩は、「ひと」へと関心が移っていく。

少年は見惚れて耳を澄ませる
このひとは肉体ある人々のあいだで
まるで夏の本質の影絵(シルエット)のようだ おとぎ話のようだ

 「このひと」にも「肉体」はあるのだが、ほかの人々が「肉体」そのものとして見えているとは、何かが違う。
 「耳を澄ませる」ということばがある。「ひびき」をしっかり聞きとるために「耳」に神経(精神)を集中させる。「耳(肉体)」に少年の意識は集中するのだけれど、集中してしまうと、「耳」は「耳」ではなくなる。「耳」が意識されない、「耳」を忘れてしまう。「耳」というのものが「消える」。この「消えてなくなる」という変化を「澄ませる/澄む」というが(不純物が沈殿して、濁った水が澄む、という具合に)、その「澄む」という変化が「そのひと」とつながる。少年の「澄んだ精神」が「そのひとのことばの澄んだひびき」と重なる。「和音」が生まれ、「音楽」が動き出す。
 これを工藤は「本質」と名づけている。
 「本質」は、しかし、「実質(実体)」ではなく、同時に「影絵(シルエット)」と言いなおされている。「実体」が何かの影響を受けて浮かび上がらせる「影」(まぼろし)。
 ここには「耳を澄ませ」、「ことばを聞く」ときの、少年とリルケの「交渉」に通じるものがある。「シルエット」は「光」と「実体」が出会ったときに生まれる。どちらが「光」であり、どちらが「実体」か。こういうことは、「特定」してもはじまらない。「出会い」がなければ「光」も「実体」も、単なる「存在」だからである。「出会い」、互いが相手を認めるときに「ひびき(音楽)」がはじまる。
 こういう「幸福」は、たしかに「おとぎ話」のなかにしかないかもしれない。けれど、パステルナークは、それを「体験」したのだ。「体験」したことを、工藤は知っている。同じことを工藤は田口と出会うことで体験したのだろう。
 私はリルケもパステルナークも、工藤も田口も知らないが、そんなことを思った。



 吉田文憲「二つの声」は、工藤とはまったく別の「出会い」を書いている。

 彼は、と書き、私は、と書いた。ある、ない、ある、ない、の瞬間の交代劇。
だから、こう書いてもいいはずだ。どこかでたえず二つの声が聞こえたはずだ、
と。川にたらした左腕がすきとおる--だれの息が、ここにやってきたのか。
ひとしきり屋根の上に滴の散る音がした。--はぐれてしまった「姉」。

 「出会い」というよりも「別れ」である。「ひとつ」ではなくつ「ふたつ」を意識したとき、それは「別れ」になる。ただし、吉田は「別れ」とは書かない。「交替」と書く。「ふたつ」は「ひとつ」にはならずに、「交替」が繰り返される。「擦れ違い」、入れ代わる。運動が繰り返される。吉田もまた、「特定」を避けている。
 工藤は「ふたつ」なのに「ひとつ」を意識したから、「出会い」になったのだ。「ふたつ」が出会って、「ひとつ」の和音(ひびき)として生まれ変わる。
 吉田は「和音(二つの音)」から「一つの音」へと別れていく。
 この詩の中にも「すきとおる」と「透明/澄む」に通じることばがあるが、それは「二つ」を分離する「あいだ」そのものとして動いている。「すきとおる」時間を利用して、「交替」するということだろう。


 





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未知谷
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