詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(2)

2018-04-28 10:52:19 | 詩集
愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(2)(詩的現代叢書28)(書肆山住、2018年04月05日発行)

 愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』。きのうとは、すこし視点を変えて。
 「映画『清作の妻』の佐助」という作品。
 映画の主役は佐助(千葉信男)ではない。あくまでも清作の妻(若尾文子)である。愛敬も若尾文子を見に行ったのだろう。佐助に目がとまったのは、彼が「カクさん」に似ているからだ。知恵遅れの、大男。

確かに昔はそういう人が
村や町に一人や二人はいたものだ

 と簡単に紹介したあと、

インテリだったカクさんとは全く違うタイプだが
佐助もまた
阿Qの一人には違いない
吉田弦二郎の原作小説とはちょっと違うが
映画では
孤立する、主人公の若尾文子を守って
そのため
かえって
村人から袋叩きにあったりする

 ここに愛敬の、おもしろいところがある。「原作小説とはちょっと違う」と指摘できる。つまり、愛敬は「無防備」で対象に向き合うわけではない。しっかり「予習」している。別な言い方をすると「学問」の裏付けがある。
 こういう言い方は愛敬は好まないだろうけれど。
 で、この「学問の裏付け」というのは、愛敬の友人の石毛にも通じるなあ。「庶民」というか、「そこに生きている人」に目を向けるのだけれど、「庶民」になるわけではない。「学問」によって「庶民」から切り離されたところにいる。このとき「学問」をどう隠すか。石毛は「学問」をつぎつぎに展開することで、「こんなものは学問というほどのものではない」という具合にやってのける。
 石毛と比べると、愛敬は、素朴というか、単純である。隠さない。さっと出してしまう。さっと「原作小説とはちょっと違う」と言ったあとで、

孤立する、

 あ、この一言が美しい。
 愛敬の「意識」そのものをつけくわえる。このときの「意識」は、「意識」というよりも、そっとそばに立つ「肉体」の感じそのまま。
 「孤立する」は「主人公の若尾文子」を描写すると同時に、佐助(千葉信男)をも描写する。「孤立する」(孤立している)のは、だれ? 一瞬、わからなくなる。その「わからなくなる」瞬間に、愛敬自身が「肉体」を寄せて、そばに「いる」。佐助になっているのかもしれない。若尾文子になっている、ともいえる。「肉体」で「孤立する」を具体化している。
 スクリーンと客席と、離れているのだけれど「孤立する」という動詞で「ひとつ」になっている。

 ここから、また、別なことも私は考える。
 「孤立する、」の読点「、」の絶妙さが一方にある。「、」によって一呼吸ある。これが「切断」と「接続」を揺り動かす。
 ここは「肉体」そのものが動くというよりも「意識」が動いている。でも、それを「意識」ではなく「呼吸」にしている。「肉体」を滑り込ませている。
 とてもおもしろい。

 さらに。
 この「孤立する、」は、この詩のなかで、それこそ「孤立している」。ちょっといいかげんなことを言うのだが、私の暮らしてきた集落では、どんなことがあっても「孤立する」というようなことばは動かない。そんな「しゃれた」ことばを口にするひとはいない。「のけものにされる」「なかにいれてもらえない」くらいか。「のける(退ける/除ける)」「入れない」とういように「肉体」そのものを動かすことばしかない。
 「孤立する」は「肉体」を動かしていない。こういう動詞は、私の知っている「暮らし」には存在しない。こういう動詞は、前にもどってしまうが、「学問」から入ってきたことばであって、暮らしが生み出したことばではない。
 でも、「孤立する」なら、いまの時代、だれでも知っているとは言える。少なくとも、詩を読む人間は。特別むずかしい「学問」をしなくても、だれもが知っている。
 「学問」をこんな具合に、さっとつかうことができる、というのが愛敬の特徴かもしれない。

 ここまでは、私は、愛敬についてゆく。
 けれど、「考察」のなかの、

三木清の言う「非連続的な時間」のなかを歩くため
原町の情景が
私の目の前に広がっているのか

 というような「異化」の仕方にはついていけない。「学問」が「手抜き」としてつかわれている。「非連続的な時間」という「学問」なしにはわからないことばをつかってしまうと、そこからはじまるのは「学問」の世界になってしまう。「肉体」の時間にひきもどさないと、その世界を歩くのは愛敬と三木清だけにある。もっと意地悪く言うと、そこには愛敬の「肉体」はない。三木清しか動いていない。

私のカクさんは、言葉を求める
私の感情は論理を求める
そうか、これがハイデガーの言う「時熟」なのか

 いくら、「そうか」と納得しても、そこに動いているのは愛敬の「肉体」ではなく、ハイデガーの「肉体」になってしまう。
 こういう「学問」がないと、

ちょうど今
映像の中の渡哲也は、
誰かに見られたか、という不安な顔を私に向けた         (待合室にて)

 というようなことばが輝かない、と考えるのかもしれないけれど。
 この三行、とってもかっこよくて、そのまま盗作したくなるくらいだけれど。この三行にかぎらず「待合室」はとても魅力的なのだけれど。
 ほかの詩とつづけて読んでくると、うさんくさいなあ、という感じもしてくる。
 いや、「うさんくさい」は「うさんくさい」でなかなか手ごわくて、それが愛敬の魅力なのかもしれないけれど。たぶん、「うさんくさい」ものが勢いをもって動いているところがいいんだろうなあ。
 だから「うさんくさい」っていいなあ、と、まったく逆なことも感じたりする。「うさんくさくない」と勢いが出ない。
 「うさんくさい」といえば、石毛も、ね。
 石毛について書くつもりはなかったんだけれど、詩集のタイトルに石毛がはいっているから、まあ、いいか。

 こういう詩を書きたい、でもこういう具合には書きたくない、そういう思いが絡み合うなあ。







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