詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」

2018-04-29 09:42:02 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」(「独合点」132、2018年02月08日発行)

 大橋政人「大きい女の人」。前半は、淡々とした描写がつづく。あるいは、だらだらと言ってもいい。

洋間で本を読んでいたら
門から大きい女の人が入ってきた
大股で堂々と入ってきた
玄関に行ってみたら
新しい新聞の集金の人で
さっきは見えなかったが
右肩に小さい女の子を乗せていた
ぐっすり眠ってしまって
ぐにゃぐにゃになっている女の子を
右手で押さえながら
大きい女の人は
左手で器用に領収書を切った
手をつないで二人で歩いてきたのに
途中で眠くなってしまって…
初めての幼稚園で気疲れがするみたいで…
私が何もきかないのに
大きい女の人は説明した

 「説明した」が文体の特徴を端的にあらわしているが、これは要するに「説明散文」である。このあと大橋のことばは、「感想」というか「空想」というか、女を説明することをやめる。女の子が主役になって動き始める。そこに大橋の書きたい「詩」があるのだと思う。
 それはそれで「感動的」なのだが、私は、この前半部分にとても魅力を感じた。「ほんとう」を感じた。
 「私が何もきかないのに」がとてもリアルでいい。ひとは、聞かれなくてもことばを発することがある。言う必要もない。でも、言ってしまう。そして、それを聞いてしまう。そこに人間の「機微」というものがある。こういうことは「散文」が得意とするところである。
 で、こういうことばの動きを「底」から支えているのが、

さっきは見えなかったが

 この一行だ。
 ここには書かれていないが、「さっきは見えなかったが」は「いまは見える」ということばを含んでいる。「見えない」が「見える」に変わる。
 この瞬間が詩なのだ。
 そして、こういうとき「いまは見える」が省略される。それは大橋にはわかりきっているからである。「肉体」になっている。「意識」にならない。こういうことばを私は「キーワード」と呼び、それを探して読むのが大好きだ。この場合、それは「動詞」でなければならない、と思っている。
 隠れている「動詞」がぱっと私の「肉体」をつかまえてしまう。私は瞬間的に大橋になってしまう。
 
さっきは見えなかったが

 は省略しても、この詩の「意味」というか、書かれている「客観的事実(?)」が変わるわけではない。だから、書かなくてもいい。でも、書いてしまう。書かないと、大橋のことばが動かない。大橋の「肉体」が要求している「必然」なのである。だからこそ、それをキーワードと呼ぶ。
 見えなかったものが、見える。
 「女の子」だけではない。女の人の動き、領収書の切り方が見える。(こういうものは、新聞代金を払うときに見る必要のないものである。必要なものがあるとしたら、領収書のはんこと、宛て先が大橋になっているかだけである。)
 「見なくてもいいものを見ている」は「見なくてもいいものを見られている」でもある。それは、その場にいれば「通じる」。だから女の人は、ついつい「説明」するのだ。必要以上に「見られたくない」から「見られてもいい」と判断したものを先回りして言ってしまう。
 女の人にしても、「さっきまでは見えなかったが」、いまは大橋が女の子の方に注目しているということが「わかる」。つまり「意識」の動きが「肉体」そのものとして「見える」。
 この「見える」と「見えない」がさらに変化して、後半の、いわゆる「詩」につながる。この後半(私は、あえて引用しない)がいいと言うひとはきっと多い。でも、私は前半がとても好き。
 大橋の「正直」がまっすぐに出ている。「正直」が見られているなんて、大橋は想像しないかもしれないけれど。



 金井雄二「ぼくは、あったよ」。

君は蜜柑を食べたことがあるかい
若い駅員が電車に合図を送っているのを見たことがあるかい

 とはじまる。たぶん、だれでも「ある」と答えることをあえて問いかけている。これは「私は君と同じだよ」ということを伝えたくて、そういう問いをしているのだろう。「同じ」というのは、「そばで支えている」、あるいは「支えになるからね」ということを間接的に伝えるためである。そばに「いる」、そばで「支える」というのは、ちょっと押しつけがましい感じがするから、なかなかことばにできない。だから、こういうことばの動きになるのだと思う。
 切々としていて、いいのだけれど。
 この詩の最後、タイトルになっている部分、

古びた椅子に座って
君は蜜柑を食べたことがあったかい
ぼくは、あったよ

 「過去形」が出てくる。ここで、私はつまずいてしまった。なぜ「あったかい」、なぜ「あったよ」なのか。
 そばに「君」がいるなら、絶対に「あったかい」「あったよ」という過去形でことばは動かない。
 「君」は、もうこの世界にはいないのではないか。
 この三行の直前に、

ぼくたちってこの地球のどこにいるんだい

 の「地球」は「この世」かもしれない。「君」を支えようにも、もう支えられない。

ぼくは、あったよ

 の読点「、」の一呼吸も、そういうことを感じさせる。「君」に話しかけるというよりも、自分自身に言い聞かせる(思い出し、それを納得する)ときの「一呼吸」がある。
 「あたたかさ」だけではない、「さびしさ」がことばの変化のなかに隠れている。
 見えなかったものが、最後の瞬間に、ぱっと見える。見えながら、消えていく。つまり、「君」の不在(非在)を断定はできないという意味だが。






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