後藤光治『松山ん窪』(鉱脈社、2018年03月01日発行)
後藤光治『松山ん窪』は、「宮崎抒情詩」の系列の作品である。一括りにしてはいけないのだが、古くは菱田修三、嵯峨信之、最近なら本多寿、杉本昭人、谷元益男。ただし、嵯峨と本多とのあいだには完全な断絶がある。いま書かれているのは「新・宮崎抒情詩」というものかもしれない。
宮崎にはもうひとり、みえのふみあきという忘れられない詩人がいる。私は、みえのふみあきの作品がとても好きだ。みえのふみあきは、彼らのなかではかなり異色だ。「新・宮崎抒情詩」には、属さない。
宮崎弁(すべてではないが)は、独特のイントネーションがある。でも、不思議なことに「新・宮崎抒情詩」に限らないが、「書きことば」では「方言」が気にならない。他県の人の詩は、どこかでつまずくが、彼らの詩ではつまずかない。「音」が読みやすい。それで、私はついついひとくくりにしてしまう。
「新・宮崎抒情詩」は「現代詩」とは距離をおいている。「いま」、ここに書かれている生活があるとは、私には思えない。
たとえば後藤の「枯れ枝」。
「記憶」の風景だろう。
「枯れ枝の折れる乾いた音がした」という一行に「宮崎抒情詩」の特徴があらわれている。こういう行は好きだ。
一方、「厳しい生活」という表現にも、一種の「くせ」のようなものがある。「厳しい」ということばがなくても「厳しい」はわかるはずなのだが、念押しのように書いてしまう。そこに、ざらっとした理性というが、突き放したような冷たさを私は感じ、私はどうしても好きになれない。
ついつい「竈や風呂の焚き木」なんて、「いま」では「贅沢」に属する。高齢化が進む「限界集落」では、ガスや電気がないと生きていけない。雑木林へ入ったら、老人はもう出てこれない、というようなことを言いたくなってしまう。
でも、この詩を取り上げてしまうのは。
「母が鉈を揮う恰好をしていた」が、とてもおもしろい。木そのものが鉈を揮うときの母親の形をしていたのか。そうではなくて、母ならば、その枯れ木に鉈を揮うだろう、その木を伐って薪にするだろう、ということだと思う。鉈を揮うのにふさわしい(?)木の形だろうと、私は「誤読」し、おもしろいと感じた。
母と枯れ木が瞬間的に入れ代わる。なぜ入れ代わるか、入れ代わることが可能かというと、母と枯れ木は、枯れ木をたたききって薪にするという「暮らし」のなかで「一体」になっているからだ。区別がないのである。
だからこそ書くのだが。
「溜息のように」という比喩は、私には納得がいかない。「厳しい生活」ということばの「厳しい」と同じように、「世界」を突き放している。自分とは関係がないもののようにみつめている。実際に、そういう「暮らし」をしていると、「厳しい」ということば思いつかない。
山に入る。切れない鉈で必死になって枯れ木をたたききる。つかれる。息があがる。それこそ、終わったころには「溜息」が出ると「想像」してしまうが、私の実感では違うなあ。溜息というよりも「安堵」である。あ、これで竈の火が炊ける、きょうは風呂に入ることができる。それは「うれしさ」である。
ひとは誰でも、つらく苦しい「暮らし」を生きている。けれど、それを「他人」には言われたくない。たとえ、それが「母子」の関係であっても。いや、「母子」の関係なら、なおさらそうである。母なら、溜息をつくかわりに、「おまえも良くがんばったね。きょうはこれで風呂が焚けるよ」と言うのではないか。
本多からはじまった、この「架空の山村物語」は、「架空」独特の美しさをもっているが、貧乏な生活をくぐり抜けてきた私には、何か、むかっ腹がたつところがある。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
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ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
後藤光治『松山ん窪』は、「宮崎抒情詩」の系列の作品である。一括りにしてはいけないのだが、古くは菱田修三、嵯峨信之、最近なら本多寿、杉本昭人、谷元益男。ただし、嵯峨と本多とのあいだには完全な断絶がある。いま書かれているのは「新・宮崎抒情詩」というものかもしれない。
宮崎にはもうひとり、みえのふみあきという忘れられない詩人がいる。私は、みえのふみあきの作品がとても好きだ。みえのふみあきは、彼らのなかではかなり異色だ。「新・宮崎抒情詩」には、属さない。
宮崎弁(すべてではないが)は、独特のイントネーションがある。でも、不思議なことに「新・宮崎抒情詩」に限らないが、「書きことば」では「方言」が気にならない。他県の人の詩は、どこかでつまずくが、彼らの詩ではつまずかない。「音」が読みやすい。それで、私はついついひとくくりにしてしまう。
「新・宮崎抒情詩」は「現代詩」とは距離をおいている。「いま」、ここに書かれている生活があるとは、私には思えない。
たとえば後藤の「枯れ枝」。
女たちは
雑木林へ分け入った
木立をかき分けて行くと
枯れ枝の折れる乾いた音がした
厳しい生活のなかで
女たちは
竈や風呂の焚き木には
鉈を揮って枯れ木を集め
山の斜面を下りた
「記憶」の風景だろう。
「枯れ枝の折れる乾いた音がした」という一行に「宮崎抒情詩」の特徴があらわれている。こういう行は好きだ。
一方、「厳しい生活」という表現にも、一種の「くせ」のようなものがある。「厳しい」ということばがなくても「厳しい」はわかるはずなのだが、念押しのように書いてしまう。そこに、ざらっとした理性というが、突き放したような冷たさを私は感じ、私はどうしても好きになれない。
ついつい「竈や風呂の焚き木」なんて、「いま」では「贅沢」に属する。高齢化が進む「限界集落」では、ガスや電気がないと生きていけない。雑木林へ入ったら、老人はもう出てこれない、というようなことを言いたくなってしまう。
でも、この詩を取り上げてしまうのは。
先日 僕は
あの頃の山に分け入った
母と来た場所に来ると
どの木も
母が鉈を揮う恰好をしていた
そして風が
枯れた木立の中を
溜息のように吹いていた
「母が鉈を揮う恰好をしていた」が、とてもおもしろい。木そのものが鉈を揮うときの母親の形をしていたのか。そうではなくて、母ならば、その枯れ木に鉈を揮うだろう、その木を伐って薪にするだろう、ということだと思う。鉈を揮うのにふさわしい(?)木の形だろうと、私は「誤読」し、おもしろいと感じた。
母と枯れ木が瞬間的に入れ代わる。なぜ入れ代わるか、入れ代わることが可能かというと、母と枯れ木は、枯れ木をたたききって薪にするという「暮らし」のなかで「一体」になっているからだ。区別がないのである。
だからこそ書くのだが。
「溜息のように」という比喩は、私には納得がいかない。「厳しい生活」ということばの「厳しい」と同じように、「世界」を突き放している。自分とは関係がないもののようにみつめている。実際に、そういう「暮らし」をしていると、「厳しい」ということば思いつかない。
山に入る。切れない鉈で必死になって枯れ木をたたききる。つかれる。息があがる。それこそ、終わったころには「溜息」が出ると「想像」してしまうが、私の実感では違うなあ。溜息というよりも「安堵」である。あ、これで竈の火が炊ける、きょうは風呂に入ることができる。それは「うれしさ」である。
ひとは誰でも、つらく苦しい「暮らし」を生きている。けれど、それを「他人」には言われたくない。たとえ、それが「母子」の関係であっても。いや、「母子」の関係なら、なおさらそうである。母なら、溜息をつくかわりに、「おまえも良くがんばったね。きょうはこれで風呂が焚けるよ」と言うのではないか。
本多からはじまった、この「架空の山村物語」は、「架空」独特の美しさをもっているが、貧乏な生活をくぐり抜けてきた私には、何か、むかっ腹がたつところがある。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
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ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
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