近藤久也「暗くてみえない」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)
近藤久也「暗くてみえない」の全行。
アーサー・ブラインド・ブレイク。近藤は「どんなひとだか知らない」と書いているが、私も知らない。詩のなかのことば、「音」「リズム」を手がかりに考えれば、音楽家ということになる。たぶん演奏家。
最初の、「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」の「こころ」は、だれのこころか。アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか。どちらともとれる。音楽を聴いての感想(?)なので、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころかもしれない。
これは単純なことばだし、だれもがいうことばでもあるが、正確につかみとろうとするとむずかしい。「暗くて」、そこにあるはずのものが「みえない」。けれど「暗さ」は「みえる」。「暗さ」そのものが「みえる」から、そこにあるものが「みえない」。でも、このことばの動きは、そこに何かが「ある」ということを前提としている。もし「暗さ」というものしかないのだとしたら、「暗くてみえない」という言い方は間違っていることになる。こういう「間違い」を私たちは平気でしてしまう。何かが「ある」ことを前提に考えてしまう。
アーサー・ブラインド・ブレイクの演奏は暗い。暗さしかみえない。「こころ」が演奏を生み出していると考えるので、そのとき「みえない」は「こころの中」が「みえない」である。「みようとしても」が、この「こころ」がアーサー・ブラインド・ブレイクのこころであることを証明しているかもしれない。
「偶然、ひかりさしても」というのは、曲を聴いていて「ひかり」のようなものを感じたということか。もしかすると、その光をたよりに何かが「みえる」と思ったのか。けれど、みえたのは「ひだひだ」。あるいは「奇怪」。それは「入り組む」という動詞といっしょにある。「ひだひだ」が「奇怪」に「入り組む」。そうすると「奥(内部)」にまでは光はととどかない。これが「暗い」という状態。「みえない」は「入り組む」ものの「入り組み方」がみえないということかもしれない。「入り組んで」いるということだけは、わかる(みえる)。これは「視力」の問題ではなく、別の問題だね。
この「入り組む」という動詞に「わけ入る」という動詞が向き合う。
「入り組む」は「組む」の内部にさらに「組む」が「入り」、からみついたもの。その「こころの中」、その「内部」は「奥」と呼ばれる。「ひだひだの奥わけ入ってくる」。「入り組んだ」ものの「組む」を「わけて(解体して/ほどいて)+入る」。
と、ここまで書いてくると、ふっと、また最初の疑問にもどってしまう。これは、だれのこころ? アーサー・ブラインド・ブレイクのこころだとしたら、それは「わけ+入って+くる」でいいのか。「わけ+入って+いく」のではないか。「くる」というかぎりにおいては、その「こころ」の持ち主の「感じ」である。「くる」は自分に影響がある。「くる」と感じるのは「受ける」からである。
だれのこころ、と区別できなくなっている。それこそ、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころと、近藤のこころが「入り組んで」、「奥」がふかくなり、わけがわからなくなっている。しかしこれは、音楽の愉悦だね。そして、どんな芸術にも言えること。ある芸術から受け止めるのは、作者(演奏者/実演者)のこころなのか、自分が感じていることなのか。わからない。自分が感じることを、他人の中にみつけだしているということかもしれない。
「入り組む」「わけ入る」と「入る」というこ動詞をつかったことが、自他の混同(融合?)を加速させ、「わけ入ってくる」になったのかもしれない。
それは、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか、もう区別がつかない。だから、
「勝手に」ということばが出てくる。近藤が、「勝手に」思うのだ。それはアーサー・ブラインド・ブレイクのこころだ、と。その「演奏(こころ)」のなかに「入る」。「こころ」の住人になる。「こころ」の中から世界をとらえなおす。これは近藤が「勝手に」思うことだが、思ったそれが瞬間からアーサー・ブラインド・ブレイクの思ったことになる。言い換えると、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクになって、世界をみつめる。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体」のなかに入って、アーサー・ブラインド・ブレイクの眼でみつめる。(私は「こころ」というものがあるとは思わないので、勝手に「肉体」と言い換えるのだが。)
そうすると、
このことばが、ぱっと動く。
これは他の行とは違って括弧のなかに入っている。つまりアーサー・ブラインド・ブレイクの「声」である。アーサー・ブラインド・ブレイクの声と言っても、それはアーサー・ブラインド・ブレイクの肉体のなかに入った近藤の声である。アーサー・ブラインド・ブレイクになってしまった近藤が発する声である。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体(こころ)」の中に入った近藤が、アーサー・ブラインド・ブレイクの声を聞き、聞いた瞬間にそれが近藤の声になって出てきた。
これも入り組んで、実は区別ができない。でも、それが単純に近藤自身の声ではないということを明らかにするために、括弧のなかに入っている。
この二行を、私はさらに、こう読む。
「おもう」とは、どういう動詞なのか。この「おもう」の前に書かれたことばは、すべて近藤が「思った」ことばである。
「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」も、実際に「みて」言っているわけではない。「ことば」で「みている」、思ったことを「ことば」にしているのであって、「客観的事実」ではない。
でも、ここでは、どうなのか。やはり、「ことば」が動いているだけなのかもしれないが。
何か、違う。わざわざ「おもう」と書いたのはなぜなのか。十行目には「思った」と漢字をつかって書いている。書き分けている。「おもう」を別なことばで言いなおすと、何になるのか。
次の行の、
信用する
である。この二行は、
ひとりで入って勝手に「信用する」
(信用できねえ、みえるもの)
なのだ。
みえるものは信用できない。だから「暗さ」のなかに身を沈める。あらゆるものを「入り組ませる」。そうやって作り上げた「奥」の「暗さ」は「信用できる」。そう聞きとって、近藤は、それを「信用できる」と言っている。
近藤は、アーサー・ブラインド・ブレイクからつかみとった「信用」を書いている。「信用する」とは、別なことばで言えば、それから先は自分が自分でなくなってもいいと覚悟することだ。
「暗くてみえない」、けれど「陽気」だ。「みえない」ことを受け入れ、身を任せたからだ。この「受け入れる」を受け身ではなく、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクに「わけ入る」という形で実践している。
「入る」という動詞が、この詩の土台になっている。「入る」ことではじまる濃密なドラマを描いている。
*
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近藤久也「暗くてみえない」の全行。
仄暗い
こころの中 みようとしても
暗くてみえない
偶然、ひかりさしても
奇怪なひだひだ入り組んで
とどきゃしない
チョーキングの
曲がった音
ひだひだの奥わけ入ってくる
と思ったら
生きてるみたいなシンコペーション
ずれずれの
リズム ひとりぼっちの
弾ける音
アーサー・ブラインド・ブレイク
どんなひとだか知らないが
暗い暗い箱の中
ひとりで入って勝手におもう
(信用できねえ、みえるもの)
かたちはいらない
すわりこんでも
おどってるおどってる
ずれずれリズムで
暗くてみえない
陽気な
ラグ
アーサー・ブラインド・ブレイク。近藤は「どんなひとだか知らない」と書いているが、私も知らない。詩のなかのことば、「音」「リズム」を手がかりに考えれば、音楽家ということになる。たぶん演奏家。
最初の、「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」の「こころ」は、だれのこころか。アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか。どちらともとれる。音楽を聴いての感想(?)なので、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころかもしれない。
暗くてみえない
これは単純なことばだし、だれもがいうことばでもあるが、正確につかみとろうとするとむずかしい。「暗くて」、そこにあるはずのものが「みえない」。けれど「暗さ」は「みえる」。「暗さ」そのものが「みえる」から、そこにあるものが「みえない」。でも、このことばの動きは、そこに何かが「ある」ということを前提としている。もし「暗さ」というものしかないのだとしたら、「暗くてみえない」という言い方は間違っていることになる。こういう「間違い」を私たちは平気でしてしまう。何かが「ある」ことを前提に考えてしまう。
アーサー・ブラインド・ブレイクの演奏は暗い。暗さしかみえない。「こころ」が演奏を生み出していると考えるので、そのとき「みえない」は「こころの中」が「みえない」である。「みようとしても」が、この「こころ」がアーサー・ブラインド・ブレイクのこころであることを証明しているかもしれない。
「偶然、ひかりさしても」というのは、曲を聴いていて「ひかり」のようなものを感じたということか。もしかすると、その光をたよりに何かが「みえる」と思ったのか。けれど、みえたのは「ひだひだ」。あるいは「奇怪」。それは「入り組む」という動詞といっしょにある。「ひだひだ」が「奇怪」に「入り組む」。そうすると「奥(内部)」にまでは光はととどかない。これが「暗い」という状態。「みえない」は「入り組む」ものの「入り組み方」がみえないということかもしれない。「入り組んで」いるということだけは、わかる(みえる)。これは「視力」の問題ではなく、別の問題だね。
この「入り組む」という動詞に「わけ入る」という動詞が向き合う。
「入り組む」は「組む」の内部にさらに「組む」が「入り」、からみついたもの。その「こころの中」、その「内部」は「奥」と呼ばれる。「ひだひだの奥わけ入ってくる」。「入り組んだ」ものの「組む」を「わけて(解体して/ほどいて)+入る」。
と、ここまで書いてくると、ふっと、また最初の疑問にもどってしまう。これは、だれのこころ? アーサー・ブラインド・ブレイクのこころだとしたら、それは「わけ+入って+くる」でいいのか。「わけ+入って+いく」のではないか。「くる」というかぎりにおいては、その「こころ」の持ち主の「感じ」である。「くる」は自分に影響がある。「くる」と感じるのは「受ける」からである。
だれのこころ、と区別できなくなっている。それこそ、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころと、近藤のこころが「入り組んで」、「奥」がふかくなり、わけがわからなくなっている。しかしこれは、音楽の愉悦だね。そして、どんな芸術にも言えること。ある芸術から受け止めるのは、作者(演奏者/実演者)のこころなのか、自分が感じていることなのか。わからない。自分が感じることを、他人の中にみつけだしているということかもしれない。
「入り組む」「わけ入る」と「入る」というこ動詞をつかったことが、自他の混同(融合?)を加速させ、「わけ入ってくる」になったのかもしれない。
それは、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか、もう区別がつかない。だから、
ひとりで入って勝手におもう
「勝手に」ということばが出てくる。近藤が、「勝手に」思うのだ。それはアーサー・ブラインド・ブレイクのこころだ、と。その「演奏(こころ)」のなかに「入る」。「こころ」の住人になる。「こころ」の中から世界をとらえなおす。これは近藤が「勝手に」思うことだが、思ったそれが瞬間からアーサー・ブラインド・ブレイクの思ったことになる。言い換えると、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクになって、世界をみつめる。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体」のなかに入って、アーサー・ブラインド・ブレイクの眼でみつめる。(私は「こころ」というものがあるとは思わないので、勝手に「肉体」と言い換えるのだが。)
そうすると、
(信用できねえ、みえるもの)
このことばが、ぱっと動く。
これは他の行とは違って括弧のなかに入っている。つまりアーサー・ブラインド・ブレイクの「声」である。アーサー・ブラインド・ブレイクの声と言っても、それはアーサー・ブラインド・ブレイクの肉体のなかに入った近藤の声である。アーサー・ブラインド・ブレイクになってしまった近藤が発する声である。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体(こころ)」の中に入った近藤が、アーサー・ブラインド・ブレイクの声を聞き、聞いた瞬間にそれが近藤の声になって出てきた。
これも入り組んで、実は区別ができない。でも、それが単純に近藤自身の声ではないということを明らかにするために、括弧のなかに入っている。
ひとりで入って勝手におもう
(信用できねえ、みえるもの)
この二行を、私はさらに、こう読む。
「おもう」とは、どういう動詞なのか。この「おもう」の前に書かれたことばは、すべて近藤が「思った」ことばである。
「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」も、実際に「みて」言っているわけではない。「ことば」で「みている」、思ったことを「ことば」にしているのであって、「客観的事実」ではない。
でも、ここでは、どうなのか。やはり、「ことば」が動いているだけなのかもしれないが。
何か、違う。わざわざ「おもう」と書いたのはなぜなのか。十行目には「思った」と漢字をつかって書いている。書き分けている。「おもう」を別なことばで言いなおすと、何になるのか。
次の行の、
信用する
である。この二行は、
ひとりで入って勝手に「信用する」
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なのだ。
みえるものは信用できない。だから「暗さ」のなかに身を沈める。あらゆるものを「入り組ませる」。そうやって作り上げた「奥」の「暗さ」は「信用できる」。そう聞きとって、近藤は、それを「信用できる」と言っている。
近藤は、アーサー・ブラインド・ブレイクからつかみとった「信用」を書いている。「信用する」とは、別なことばで言えば、それから先は自分が自分でなくなってもいいと覚悟することだ。
「暗くてみえない」、けれど「陽気」だ。「みえない」ことを受け入れ、身を任せたからだ。この「受け入れる」を受け身ではなく、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクに「わけ入る」という形で実践している。
「入る」という動詞が、この詩の土台になっている。「入る」ことではじまる濃密なドラマを描いている。
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「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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