詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

何も言わなかった

2018-04-22 21:03:44 | 
何も言わなかった

 私は「天国」というものを信じていない。「天」を信じていないと言い換えた方がいいかもしれない。「ここ」を離れた場所を思い描くことができない。
 一回だけ、不思議な体験をした。
 父が入院している病院から電話があった。「あと一週間は持たない。会いにきたらどうか」。私の会社は小倉にあった。父は氷見の市立病院に入院している。いよいよというときに連絡をもらっても臨終に立ち会えない。
 私はめったに帰省しなかった。特に年末は会社が忙しくて抜け出せない。事情は父も知っている。この時期に見舞いに行くのは、死期が近いぞ、と教えに行くようなものである。残酷かもしれない。けれど死ぬとわかっているのに会いに行かないのも残酷である。
 病院についたのは午後だった。父はベッドで寝ていた。私が入っていくと、気づいて目を開けた。「会いに来たよ」と言うと、黙って目をつぶった。何も言わない。私も何も言うことがない。黙って父を見ていた。そばに私が買っておくった小型のカラーテレビがあった。私の唯一の親孝行である。しかし、テレビを見る習慣のない父は、テレビをつけていなかった。ブラウン管は、無言の私の顔を映していた。
 父が寝息を立て始めた。何時間すぎたのか。窓から入ってくる冬の光も、弱く、冷たくなった。淡い朱色の光が壁を染め、徐々に天上の方へ広がっていく。父のベッドがゆっくりと浮かび、天上に近づいていく。椅子に座って父を見ているのに、父に見おろされている。
 沈黙が過ぎていく。
 部屋を満たした最後の光が窓からふたたび遠くへ帰っていく。父のベッドも水平にもどる。部屋の明かり、蛍光灯の光に気がついたとき、ベッドはもとにもどっていた。
 借りてきた布団を床に敷き、一晩寄り添った。朝、「また時間があったら会いに来るよ」と言って、病室を去った。父は、やはり何も言わなかった。会社に帰り、仕事をはじめたら「父が死んだ」と電話があった。最後に見た父は口が少し開いていが、何も言わなかった。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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苗村吉昭「ふらんす日和」

2018-04-22 17:36:01 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「ふらんす日和」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 少し早起きして、出勤途中に見知らぬコーヒー店に入る。ガラス越しに街行く人を眺めている。そのときのことを苗村吉昭「ふらんす日和」は書いている。

頬杖ついて珈琲をすすり
エナメル靴の若い女性の足首や白髪紳士の黒鞄を
黙って黙って眺めていますと
そういえば前にもこんな日があったことが思い出されてくるのです
三十年前のふらんすの田舎町
小さなカフェで頬杖ついてカフェ・オ・レをすすり
黙って黙って美しい田舎町を眺めていました
あのころわたしはとても華奢で
そのうえ女の子のような髪型をしていましたので
カフェにきた杖つく老人に握手を求められ
「ジン・ジュール マドモワゼル」と話しかけられ苦笑したものです
そんなことなど思い出していますと
ガラススクリーンの向こうに
三十年前のふらんすがだんだんと拡がっていきます

 フランスの田舎町のカフェか。行ってみたいなあ。だれも知らない街で、ぼんやりと風景と人とを眺めていたいなあ、という気持ちになる。
 なぜなんだろうなあ。
 「頬杖ついて珈琲をすすり」「黙って黙って眺めています」、「頬杖ついてカフェ・オ・レをすすり」「黙って黙って」「眺めていました」。「すする」「黙る」「頬杖をつく」「眺める」と同じ動作が繰り返される。動詞が同じ。「肉体」が動くと、その「肉体」が動いたときの記憶が「肉体」の奥からよみがえる。
 こういうことが苗村だけに起きているのではない。
 三十年前の「ふらんす」。そこで出会った老人は、やはりカフェで珈琲(カフェ・オ・レ)を「すすり」「黙って」町を「眺めている」女性に会ったのだ。そして握手を求め「ボン・ジュール」と言ったのだ。吉村だけに、そう言ったのではない。「反復」がある。新しいことだけれど、それは反復である。
 もちろん、こんなことは苗村は書いていない。書いていないけれど、私は感じる。苗村が書いていることばの「主人公」は「わたし(苗村)」なのだが、そのことばのなかに、「もうひとりの主人公」を感じる。もし苗村が何年か後に「ふらんす」へ行ったら、カフェでカフェ・オ・レをすすっている女性に「ボン・ジュール」と声をかけるかもしれない。
 それは「三十年前のふらんす」なのか「何年か後のふらんす」なのか。わからないけれど、そういう具合に、思いが拡がっていく。その「ひろがり」のなかで、苗村と老人は、「ひとつ」になり、互いを「反復」する。
 その「反復(繰り返し)」のなかで、「誤解」は、「苦笑」のように、軽くあらわれて、静かに消えていく。

 そして、ここでこんなことも思う。
 「繰り返す」ということは「拡げる」ことなのだ、と。
 「繰り返す(思い出す)」は遠くにあるものを近くに引き寄せる。だから、それは「拡げる」というよりも「縮める」ということでもあるのだが、単に「効率をあげる」ために反復し、その動きを身につけるのではないときは、それは「縮める」とは違う動きをする。遠くにあったものが、すぐ身近になり、それが身近を通り越して(あるいは、身=肉体を突き破って)、身(肉体)そのものを解放する。拡げる。自由にする。

 「だんだん」ということばも、とてもうれしい。この「拡げる」にぴったりあっている。「徐々に」とか「少しずつ」とか、同じ意味のことばはあるが、ちょっと違うなあ。「だんだん」には、とてもあいまいな、「ことばにならない(説明にならない)」ものがあって、それが「繰り返し」と「拡げる」のつながりに、とても似合っている。
 「だんだん」は「段々」なのだろうけれど「暖々」のような、あたたかい感じがある。「だんだん」が「段々(一区切りづつ)」なんて、子どものときは気がつかない。けれど、子どもが最初におぼえるのは「徐々に」とか「少しずつ」ではなく「だんだん」だろうなあと思い返すと、ここにも不思議なものを感じる。
 「だんだん」って、何だったかなあ、と思い返す(思い出を繰り返す/反復する)と、私自身がコーヒー店でコーヒーをすすっているのか、「ふらんす」でカフェ・オ・レをすすっているか、それとも老人になって「ボン・ジュール」と女に声をかけているのか、わからなくなる。そこに拡がっている「世界」に「だんだん」溶け込んでしまう。


*

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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