何も言わなかった
私は「天国」というものを信じていない。「天」を信じていないと言い換えた方がいいかもしれない。「ここ」を離れた場所を思い描くことができない。
一回だけ、不思議な体験をした。
父が入院している病院から電話があった。「あと一週間は持たない。会いにきたらどうか」。私の会社は小倉にあった。父は氷見の市立病院に入院している。いよいよというときに連絡をもらっても臨終に立ち会えない。
私はめったに帰省しなかった。特に年末は会社が忙しくて抜け出せない。事情は父も知っている。この時期に見舞いに行くのは、死期が近いぞ、と教えに行くようなものである。残酷かもしれない。けれど死ぬとわかっているのに会いに行かないのも残酷である。
病院についたのは午後だった。父はベッドで寝ていた。私が入っていくと、気づいて目を開けた。「会いに来たよ」と言うと、黙って目をつぶった。何も言わない。私も何も言うことがない。黙って父を見ていた。そばに私が買っておくった小型のカラーテレビがあった。私の唯一の親孝行である。しかし、テレビを見る習慣のない父は、テレビをつけていなかった。ブラウン管は、無言の私の顔を映していた。
父が寝息を立て始めた。何時間すぎたのか。窓から入ってくる冬の光も、弱く、冷たくなった。淡い朱色の光が壁を染め、徐々に天上の方へ広がっていく。父のベッドがゆっくりと浮かび、天上に近づいていく。椅子に座って父を見ているのに、父に見おろされている。
沈黙が過ぎていく。
部屋を満たした最後の光が窓からふたたび遠くへ帰っていく。父のベッドも水平にもどる。部屋の明かり、蛍光灯の光に気がついたとき、ベッドはもとにもどっていた。
借りてきた布団を床に敷き、一晩寄り添った。朝、「また時間があったら会いに来るよ」と言って、病室を去った。父は、やはり何も言わなかった。会社に帰り、仕事をはじめたら「父が死んだ」と電話があった。最後に見た父は口が少し開いていが、何も言わなかった。
私は「天国」というものを信じていない。「天」を信じていないと言い換えた方がいいかもしれない。「ここ」を離れた場所を思い描くことができない。
一回だけ、不思議な体験をした。
父が入院している病院から電話があった。「あと一週間は持たない。会いにきたらどうか」。私の会社は小倉にあった。父は氷見の市立病院に入院している。いよいよというときに連絡をもらっても臨終に立ち会えない。
私はめったに帰省しなかった。特に年末は会社が忙しくて抜け出せない。事情は父も知っている。この時期に見舞いに行くのは、死期が近いぞ、と教えに行くようなものである。残酷かもしれない。けれど死ぬとわかっているのに会いに行かないのも残酷である。
病院についたのは午後だった。父はベッドで寝ていた。私が入っていくと、気づいて目を開けた。「会いに来たよ」と言うと、黙って目をつぶった。何も言わない。私も何も言うことがない。黙って父を見ていた。そばに私が買っておくった小型のカラーテレビがあった。私の唯一の親孝行である。しかし、テレビを見る習慣のない父は、テレビをつけていなかった。ブラウン管は、無言の私の顔を映していた。
父が寝息を立て始めた。何時間すぎたのか。窓から入ってくる冬の光も、弱く、冷たくなった。淡い朱色の光が壁を染め、徐々に天上の方へ広がっていく。父のベッドがゆっくりと浮かび、天上に近づいていく。椅子に座って父を見ているのに、父に見おろされている。
沈黙が過ぎていく。
部屋を満たした最後の光が窓からふたたび遠くへ帰っていく。父のベッドも水平にもどる。部屋の明かり、蛍光灯の光に気がついたとき、ベッドはもとにもどっていた。
借りてきた布団を床に敷き、一晩寄り添った。朝、「また時間があったら会いに来るよ」と言って、病室を去った。父は、やはり何も言わなかった。会社に帰り、仕事をはじめたら「父が死んだ」と電話があった。最後に見た父は口が少し開いていが、何も言わなかった。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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