神原芳之「石蕗の花」「泰山木」(「午前」13、2018年04月15日発行)
神原芳之「石蕗の花」は、さっと書かれたことばが、強い印象を残す。
「人生の十一月」は「意味」がありすぎる。それが「意識」ということばを誘っている。これはこれでわかるけれど、押しつけ、という感じもする。「華麗」や「君臨」ということばも私は好きではない。
しかし、そのあとの石蕗の具体的な描写は美しい。
「少し濁りの入った」ということばは深くて強い。「濁る」と「入る」。「入る」は書き出しの「十一月に入り」にもあって、その「動詞」の重なりが、「人生の十一月」と「濁り」を重ねる。「少し濁りが入った」と神原は自分の人生を「比喩」にしている。そして、そこから石蕗に生きる祈りを重ねていく。
「競う気は見えない」は、神原自信が「競う」という気持ちを放棄しているから、石蕗がそう見えるということ。
「素面」になったのは「庭」だが、そこに咲く石蕗もまた「素面」の美しさである。「少し濁りが入って」いるが、それを隠さない。むしろ、そのまま見せる。庭と石蕗は重なり合っている。その重なりの中から、「首を伸ばす」。自己主張する。「伸ばす」という動詞が、少しだけ「競う気」を刺戟する。「競う」という明確な「気持ち」はないけれど、「生きる」ということは何かを突き破って進むこと。
他人と競うのではなく、自分自身と競う、自分の乗り越える、と読めばいいのかもしれない。まだ「十一月」、まだ「一か月」も残っている。
「泰山木」も開花を描いている。
「投げる」という動詞に深みがある。「投げる」は「放る」、つまり「放す」でもある。何かを手放し、捨てるのだ。
「投げかける」の「かける」には、自己を何かに「たくす」(任せる、預ける)の意味もある。捨てながら、それを他者に託す。そういう「複雑性」がここにはある。
何を捨て、何を託すのか。
神原は最終行で言いなおしているが、私はあえてその一行を省いて引用した。言いなおさなくても、十分に言い尽くしている。
言わない方が、言い尽くすということもある。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
神原芳之「石蕗の花」は、さっと書かれたことばが、強い印象を残す。
人生の十一月に入り 石蕗の花を意識した
金木犀の香りが消え 紅葉の華麗な彩りが
静かに褪せ 小春日和に君臨した柿の実も
鳥に突つかれて姿を崩してしまったあとに
少し濁りの入った黄色い花びらが輪を開く
香りも彩りもほかの花と競う気は見えない
庭が素面になったのを見て長い首を伸ばす
「人生の十一月」は「意味」がありすぎる。それが「意識」ということばを誘っている。これはこれでわかるけれど、押しつけ、という感じもする。「華麗」や「君臨」ということばも私は好きではない。
しかし、そのあとの石蕗の具体的な描写は美しい。
「少し濁りの入った」ということばは深くて強い。「濁る」と「入る」。「入る」は書き出しの「十一月に入り」にもあって、その「動詞」の重なりが、「人生の十一月」と「濁り」を重ねる。「少し濁りが入った」と神原は自分の人生を「比喩」にしている。そして、そこから石蕗に生きる祈りを重ねていく。
「競う気は見えない」は、神原自信が「競う」という気持ちを放棄しているから、石蕗がそう見えるということ。
「素面」になったのは「庭」だが、そこに咲く石蕗もまた「素面」の美しさである。「少し濁りが入って」いるが、それを隠さない。むしろ、そのまま見せる。庭と石蕗は重なり合っている。その重なりの中から、「首を伸ばす」。自己主張する。「伸ばす」という動詞が、少しだけ「競う気」を刺戟する。「競う」という明確な「気持ち」はないけれど、「生きる」ということは何かを突き破って進むこと。
他人と競うのではなく、自分自身と競う、自分の乗り越える、と読めばいいのかもしれない。まだ「十一月」、まだ「一か月」も残っている。
「泰山木」も開花を描いている。
ミシシッピーの平坦な沃野にただよう
艶やかな南部の大気が香ってくる
毛皮のような花びらで蕊を包みながら
硬い守りの盾のあいだから 眼下で
満開を謳歌する紫陽花たちの賑わいに
物憂いまなざしをそっと投げかける
「投げる」という動詞に深みがある。「投げる」は「放る」、つまり「放す」でもある。何かを手放し、捨てるのだ。
「投げかける」の「かける」には、自己を何かに「たくす」(任せる、預ける)の意味もある。捨てながら、それを他者に託す。そういう「複雑性」がここにはある。
何を捨て、何を託すのか。
神原は最終行で言いなおしているが、私はあえてその一行を省いて引用した。言いなおさなくても、十分に言い尽くしている。
言わない方が、言い尽くすということもある。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
青山記―詩集 | |
クリエーター情報なし | |
本多企画 |