高階杞一「フタ」(「詩の発見」17、終刊号、2018年03月22日発行)
高階杞一「フタ」は、いわゆる「ライトバース」と呼ばれる詩なのかもしれない。さっと読める。そして、いいなあ感じる。
でも、私は、同時に「違和感」もおぼえた。
三連目は、いわばこの詩の「さび」のような部分。読んでいて、意識がひっかきまわされる。「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」のような部分である。予想もしなかった「比喩」によって、意識が活性化する。
でもねえ……。
始めから書き直そう。
一連目。「容器」の「比喩」が「人間」なのではなく、「人間」の比喩が「容器」である。比喩からはじまっている。
「フタ」も比喩なのだが、「人間にはフタがない」というとき、それは比喩ではなくなっている。「こぼれたり/湿気たり」しないようにするための意思、理性というものが「人間のフタ」という比喩として成り立つはずだからである。比喩のままなら「人間には理性というフタがある」と言えるはずである。
「容器の中の物」とは三連目の「思い」である。この場合も「思い」が「事実」であり「中の物」というのは比喩である。
「こぼれる」は「中のもの(思い)」が、外へ出ること。「湿気る」は外にある水分が中に入ってきて「中のもの(思い)」が変化すること。
ここには「流出(する)」と「流入(する)」という二つの動きが書かれている。
「流出する」は「流失する」でもあるかもしれない。
「流出する」は「中のもの」が流れ出て行くこと。「流失する」は「中のもの」が出て行くこともあるが、自分の外にあるものが「失われる」を意味することもある。たとえば、橋が洪水のために「流失する」。
「流出する」を「流失する」と言い換えて(?)、二連目はのことばは動く。
「大切なものを失って」というのは高階の「中のもの」を失ってではない。「大切なもの」は「中」にはない。高階の「外」にある。それを「失ったとき」、失われたものへ向かって「体(中)」からあふれてくるものがある。これは「思い」があふれてくる。言い換えると「悲しみ」があふれてくる。これは「制御」できない。「大切なもの」ではなく「大切な人」を失ったときのことを思えば、ここに書かれていることがわかる。
このあと、「醤油瓶」の比喩が出てくる。「醤油瓶」というよりも「醤油差し」かもしれないなあ。醤油が出てくるところは「フタ」なのか「注ぎ口」なのか。「フタ」とはいえないかもしれないなあ、と思うが比喩なのだから、このあたりは自在に動いていいとも思う。
でも、このとき、二連目で書いた「あふれる」という動詞はどうなっているんだろうか。「あふれる」は「中」の変化だね。「醤油瓶(醤油差し)」なかでは、何かが「あふれる」ように動くことはあるだろうか。ないなあ。「醤油瓶(醤油差し)」のなかの醤油は、外から注ぎ入れたもの。それは「あふれる」という動詞とは結びつかない。「あふれる」があるとすれば、醤油を醤油瓶(醤油差し)に注ぐときだ。
高階の「言いたい」部分は、
の「出す」にある。自分で制御して「思い」を出せるならどんなにいいんだろう、ということにあるのはわかるのだが、「あふれるもの」を「思い」と言った先に、「あふれる」なんてないかのように書いている。「あふれる」という動詞が、ここでは完全に無視されている。
そこに非常に違和感をおぼえる。
この違和感は、最終連を読むと、いっそう強くなる。
最終連、その最終行に
という表現がある。これは二連目の「とめられない」と「対」になっている。
「体の中のもの(思い)」が激しくあふれてくる。主語は「思い」、述語が「あふれる」。しかし、この文章は、もう一つ動詞をもっている。「あふれてくるものをとめられない」というとき、主語は「私(高階)」である。「あふれる」という動詞があって、それが「私(高階)」を激しく動かしている。「あふれる」と動詞があって、「思い」を「とめられない」が成り立っている。
これが最終連で「とまらない」になるとき、高階のなかで(体のなかで)何が起きているか。「私(高階)」は「あふれてくるもの」そのものに「なっている」。高階は、「容器」ではなく「中身」になっている。「あふれてくるもの」は単に「あふれる」のではなく、「容器」を突き破って、「容器」を呑みこんでいる。「あふれてくるもの」、「あふれる」という動詞が「容器」になって、そのなかに「私」がいるという感じ。「容器」と「中身」が入れ代わる、私が私ではなくなる、という「詩」そのものがここでは「体験」されている。
わーっ、いいなあ、と私は思わず声を洩らす。
声を洩らすのだけれど、えっ、それではあの三連目はなんだったのかなあ、とわけがわからなくなる。
「感動」を盛り上げるためのテクニック?
つまずいてしまうなあ。
*
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谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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高階杞一「フタ」は、いわゆる「ライトバース」と呼ばれる詩なのかもしれない。さっと読める。そして、いいなあ感じる。
でも、私は、同時に「違和感」もおぼえた。
たいていの容器には
フタがあって
中の物がこぼれたり
湿気たり
しないようになっている
が
人間にはフタがない
ので
ときどき
こぼれたり
湿気たりすることがある
大切なものを失って
体から
激しくあふれてくるものがあって
とめられない
醤油の瓶のように
傾けたときにだけ
思いを
出せるようになっていればいいんだけれど
ごめんね ごめんね
春
ふりそそぐ光の中で
あふれてくるものが
とまらない
三連目は、いわばこの詩の「さび」のような部分。読んでいて、意識がひっかきまわされる。「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」のような部分である。予想もしなかった「比喩」によって、意識が活性化する。
でもねえ……。
始めから書き直そう。
一連目。「容器」の「比喩」が「人間」なのではなく、「人間」の比喩が「容器」である。比喩からはじまっている。
「フタ」も比喩なのだが、「人間にはフタがない」というとき、それは比喩ではなくなっている。「こぼれたり/湿気たり」しないようにするための意思、理性というものが「人間のフタ」という比喩として成り立つはずだからである。比喩のままなら「人間には理性というフタがある」と言えるはずである。
「容器の中の物」とは三連目の「思い」である。この場合も「思い」が「事実」であり「中の物」というのは比喩である。
「こぼれる」は「中のもの(思い)」が、外へ出ること。「湿気る」は外にある水分が中に入ってきて「中のもの(思い)」が変化すること。
ここには「流出(する)」と「流入(する)」という二つの動きが書かれている。
「流出する」は「流失する」でもあるかもしれない。
「流出する」は「中のもの」が流れ出て行くこと。「流失する」は「中のもの」が出て行くこともあるが、自分の外にあるものが「失われる」を意味することもある。たとえば、橋が洪水のために「流失する」。
「流出する」を「流失する」と言い換えて(?)、二連目はのことばは動く。
「大切なものを失って」というのは高階の「中のもの」を失ってではない。「大切なもの」は「中」にはない。高階の「外」にある。それを「失ったとき」、失われたものへ向かって「体(中)」からあふれてくるものがある。これは「思い」があふれてくる。言い換えると「悲しみ」があふれてくる。これは「制御」できない。「大切なもの」ではなく「大切な人」を失ったときのことを思えば、ここに書かれていることがわかる。
このあと、「醤油瓶」の比喩が出てくる。「醤油瓶」というよりも「醤油差し」かもしれないなあ。醤油が出てくるところは「フタ」なのか「注ぎ口」なのか。「フタ」とはいえないかもしれないなあ、と思うが比喩なのだから、このあたりは自在に動いていいとも思う。
でも、このとき、二連目で書いた「あふれる」という動詞はどうなっているんだろうか。「あふれる」は「中」の変化だね。「醤油瓶(醤油差し)」なかでは、何かが「あふれる」ように動くことはあるだろうか。ないなあ。「醤油瓶(醤油差し)」のなかの醤油は、外から注ぎ入れたもの。それは「あふれる」という動詞とは結びつかない。「あふれる」があるとすれば、醤油を醤油瓶(醤油差し)に注ぐときだ。
高階の「言いたい」部分は、
思いを
出せるようになっていればいいんだけれど
の「出す」にある。自分で制御して「思い」を出せるならどんなにいいんだろう、ということにあるのはわかるのだが、「あふれるもの」を「思い」と言った先に、「あふれる」なんてないかのように書いている。「あふれる」という動詞が、ここでは完全に無視されている。
そこに非常に違和感をおぼえる。
この違和感は、最終連を読むと、いっそう強くなる。
最終連、その最終行に
とまらない
という表現がある。これは二連目の「とめられない」と「対」になっている。
「体の中のもの(思い)」が激しくあふれてくる。主語は「思い」、述語が「あふれる」。しかし、この文章は、もう一つ動詞をもっている。「あふれてくるものをとめられない」というとき、主語は「私(高階)」である。「あふれる」という動詞があって、それが「私(高階)」を激しく動かしている。「あふれる」と動詞があって、「思い」を「とめられない」が成り立っている。
これが最終連で「とまらない」になるとき、高階のなかで(体のなかで)何が起きているか。「私(高階)」は「あふれてくるもの」そのものに「なっている」。高階は、「容器」ではなく「中身」になっている。「あふれてくるもの」は単に「あふれる」のではなく、「容器」を突き破って、「容器」を呑みこんでいる。「あふれてくるもの」、「あふれる」という動詞が「容器」になって、そのなかに「私」がいるという感じ。「容器」と「中身」が入れ代わる、私が私ではなくなる、という「詩」そのものがここでは「体験」されている。
わーっ、いいなあ、と私は思わず声を洩らす。
声を洩らすのだけれど、えっ、それではあの三連目はなんだったのかなあ、とわけがわからなくなる。
「感動」を盛り上げるためのテクニック?
つまずいてしまうなあ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
高階杞一詩集 (ハルキ文庫 た) | |
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