ジョー・ライト監督「ウィンストン・チャーチル」(★★★★-★)
監督 ジョー・ライト 出演 ゲイリー・オールドマン、クリスティン・スコット・トーマス
イギリスはやっぱり「ことばの国」。映画の最後に、「チャーチルはことばを武器にかえて戦場にのり出す」というような台詞があるが、まさにことばで戦う。
人間はことばがないと考えられない。
で、この一点からこの映画を見ていくとき、では「ことば」で何を考えるかという問題をこの映画は描いていることに気がつく。
「第二次世界大戦」を、どうことばにする。
ヒトラーの軍事力に立ち向かうのはむずかしい。フランスは侵攻され、ベルギー、オランダは降伏する。イギリスに脅威が迫っている。ダンケルクでは30万人のイギリス陸軍が孤立している。
一方に「和平交渉」を考えている人間がいる。ヒトラーと交渉し、イギリスの「安全(平和)」を願う人間である。彼らは、戦争と平和、戦争と安全ということばを中心にして考える。イギリス(自分の生活)を考えの「出発点」としている。
他方、チャーチルは違う。自由か服従か、ということばを中心に考える。イギリスを出発点とするのではなく、ヒトラーを出発点として考える。ヒトラーは独裁者である。独裁者を許していいのか、ということからことばを動かしている。
この違いはなかなか「見えにくい」が、見逃してはならない。
子爵(?)議員は、「自己の安全(平和、ここにはたぶん自己の財産も含まれ)」守りたい。イギリスを守るというよりも、自分を守る。そのために「交渉」したい。ヒトラーに対しては「恐怖」を感じるが、たぶん「憎しみ」は感じていない。「いま」を守りたいと考えているといえばいいかもしれない。イギリスが戦場にならなければいいと考えている。そして、このときの「ことば」が向き合っているのは、実は、第二次大戦でもヒトラーでもなく、チャーチルである。ヒトラーと交渉する前に、チャーチルを説得しなければならない。
チャーチルは違う。イギリスを守らなければならないのはもちろんだが、それ以上にヒトラーの独裁を阻止したい。ヒトラーの存在を許しがたいと感じている。自己の平和、安全、財産ではなく、自由を守りたいという考えの方が強い。ヒトラーはどういう人間か、それを「出発点」にして、ことばで世界を描き出す。
このチャーチルが、どう見ても「完全敗北」という状況のなかで、どうことばの力を取り戻すのか。「和平交渉派」の議員を説得することばを見つけ出すか。
ここが映画のいちばんのポイント。
チャーチルは、市民のなかに飛び込み、そこで「ことば」を探す。市民はどういうことばをつかって考えているか。それを確かめる。市民と話す。そして市民のことばを結集する。自分のことばで語るのではなく、市民の声を自分の声のなかに引き込み、「合唱」させる。複数の声である。その複数の声のなかのどれかは、ひとりひとり市民の声とどこかで重なる。だから聞いたひとは、「そうだ、それを言いたかった」と納得する。
シェークスピアが複数の人間の声を聞き取り、それを芝居にしたように、チャーチルは市民の複数の声を聞き取り、増幅させ、ことばにしている。(市民の力の活用という点では、民間の船を大量動員してダンケルクからイギリス軍を救出したのと同じである。)
このことばの力を、チャーチルは、いったん「閣外大臣」を相手にたしかめ、効果を確認した上で、さらにことばを整え国会で演説する。これは、すごい。
ことばと声のドラマ(映画)として、とてもおもしろい。
いまの日本の政治家、特に安倍と比べると、その違いがわかる。官僚の書いた文章を、ルビまでふってもらって、やっと読んでいる。ルビがないと、「云々」すらも読めずに「でんでん」と言ってしまう。安倍には、安倍自身の「ことば」がないし、また市民から声を聞き取り、それをことばにする能力もない。
日本国憲法の起草にかかわった幣原喜重郎首相が電車のなかで聞いた男の声「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」を大切にしたのと同じである。この市民の声が「戦争放棄」という「ことば」に結実して言った。
市民の声をことばにしていくのが政治家の仕事なのだ。
で。
こういうことばの力を描いた映画なのに。
あのチャーチルの特殊メイクは何なのだろうなあ。がっくりしてしまう。顔が似ているかどうかなど関係がない。体型も関係がない。
もっと、ことばのドラマが引き立つような「演出」をしてほしかった。少なくとも、「チャーチルそっくりさん」ではない人間が、チャーチルの考えをことばにする過程を描いた方が、ことばの力が伝わったと思う。
この特殊メイクにがっかりして、★を1個減らした。
(2018年04月04日、KBCシネマ1)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ジョー・ライト 出演 ゲイリー・オールドマン、クリスティン・スコット・トーマス
イギリスはやっぱり「ことばの国」。映画の最後に、「チャーチルはことばを武器にかえて戦場にのり出す」というような台詞があるが、まさにことばで戦う。
人間はことばがないと考えられない。
で、この一点からこの映画を見ていくとき、では「ことば」で何を考えるかという問題をこの映画は描いていることに気がつく。
「第二次世界大戦」を、どうことばにする。
ヒトラーの軍事力に立ち向かうのはむずかしい。フランスは侵攻され、ベルギー、オランダは降伏する。イギリスに脅威が迫っている。ダンケルクでは30万人のイギリス陸軍が孤立している。
一方に「和平交渉」を考えている人間がいる。ヒトラーと交渉し、イギリスの「安全(平和)」を願う人間である。彼らは、戦争と平和、戦争と安全ということばを中心にして考える。イギリス(自分の生活)を考えの「出発点」としている。
他方、チャーチルは違う。自由か服従か、ということばを中心に考える。イギリスを出発点とするのではなく、ヒトラーを出発点として考える。ヒトラーは独裁者である。独裁者を許していいのか、ということからことばを動かしている。
この違いはなかなか「見えにくい」が、見逃してはならない。
子爵(?)議員は、「自己の安全(平和、ここにはたぶん自己の財産も含まれ)」守りたい。イギリスを守るというよりも、自分を守る。そのために「交渉」したい。ヒトラーに対しては「恐怖」を感じるが、たぶん「憎しみ」は感じていない。「いま」を守りたいと考えているといえばいいかもしれない。イギリスが戦場にならなければいいと考えている。そして、このときの「ことば」が向き合っているのは、実は、第二次大戦でもヒトラーでもなく、チャーチルである。ヒトラーと交渉する前に、チャーチルを説得しなければならない。
チャーチルは違う。イギリスを守らなければならないのはもちろんだが、それ以上にヒトラーの独裁を阻止したい。ヒトラーの存在を許しがたいと感じている。自己の平和、安全、財産ではなく、自由を守りたいという考えの方が強い。ヒトラーはどういう人間か、それを「出発点」にして、ことばで世界を描き出す。
このチャーチルが、どう見ても「完全敗北」という状況のなかで、どうことばの力を取り戻すのか。「和平交渉派」の議員を説得することばを見つけ出すか。
ここが映画のいちばんのポイント。
チャーチルは、市民のなかに飛び込み、そこで「ことば」を探す。市民はどういうことばをつかって考えているか。それを確かめる。市民と話す。そして市民のことばを結集する。自分のことばで語るのではなく、市民の声を自分の声のなかに引き込み、「合唱」させる。複数の声である。その複数の声のなかのどれかは、ひとりひとり市民の声とどこかで重なる。だから聞いたひとは、「そうだ、それを言いたかった」と納得する。
シェークスピアが複数の人間の声を聞き取り、それを芝居にしたように、チャーチルは市民の複数の声を聞き取り、増幅させ、ことばにしている。(市民の力の活用という点では、民間の船を大量動員してダンケルクからイギリス軍を救出したのと同じである。)
このことばの力を、チャーチルは、いったん「閣外大臣」を相手にたしかめ、効果を確認した上で、さらにことばを整え国会で演説する。これは、すごい。
ことばと声のドラマ(映画)として、とてもおもしろい。
いまの日本の政治家、特に安倍と比べると、その違いがわかる。官僚の書いた文章を、ルビまでふってもらって、やっと読んでいる。ルビがないと、「云々」すらも読めずに「でんでん」と言ってしまう。安倍には、安倍自身の「ことば」がないし、また市民から声を聞き取り、それをことばにする能力もない。
日本国憲法の起草にかかわった幣原喜重郎首相が電車のなかで聞いた男の声「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」を大切にしたのと同じである。この市民の声が「戦争放棄」という「ことば」に結実して言った。
市民の声をことばにしていくのが政治家の仕事なのだ。
で。
こういうことばの力を描いた映画なのに。
あのチャーチルの特殊メイクは何なのだろうなあ。がっくりしてしまう。顔が似ているかどうかなど関係がない。体型も関係がない。
もっと、ことばのドラマが引き立つような「演出」をしてほしかった。少なくとも、「チャーチルそっくりさん」ではない人間が、チャーチルの考えをことばにする過程を描いた方が、ことばの力が伝わったと思う。
この特殊メイクにがっかりして、★を1個減らした。
(2018年04月04日、KBCシネマ1)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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