林嗣夫「柿」、石川逸子「花桃咲く村で」(「兆」177、2018年02月05日発行)
林嗣夫「柿」を読む。
「激しいできごと」が何を表わしているのか、明確には書かれていない。けれども、それを挟む「さらしていた」が、何かを感じさせる。「激しい」できごとは、何かを「さらしてしまう」。「さらす」の反対のことばは「隠す」だろう。何かが暴れ回り、隠しきれなくなる。隠していたものが「さらされる」。「さらす」という動詞が、そういう「運動」を表わしている。
そして、それは「さらされてしまう」と「しずか」になる。「激しさ」を持ったままではいられない。
「対比」のなかで、「さらす」がいっそう強くなる。
この詩は、こう転調する。
「ひそめる」は「隠れる」。「さらす」の反対である。それが、「あらわれた」。
緋色と黒の対比。燃えるような緋色の背後から黒が抜け出す。それはまるで緋色が隠していた黒のようだ。黒があるから緋色の赤は強くなる。美しいのは、黒のなかにまだ緋色が残っているからだろう。色というよりも、「激しい」戦い(できごと)が「ひそんでいた」のである。
「柿のそばに身をひそめていたのだ」という一行は詩というよりも「散文」(説明)だが、「ひそむ」という動詞を書かなければならない理由がある。一連目の「さらす」という動詞と向き合わせせることで、「激しいできごと」を語りなおしたかったのである。
「激しいできごと」は、次の連でこう言いなおされる。
「激しいできごと」は「月日が流れる」の「流れる」という動詞のなかで克明に語りなおされる。「月日(時間)」は「流れる」。「時間」は柿の変化となってあらわれる。「柿」は変化しながら、「隠していたもの」を「さらす」。
「激しさ」は、若葉が「芽吹く」、花が「開く」、実を「つける」、重さを「養う」、甘みに「変える」という「動詞」の変化そのものとして書かれている。「若葉」「花」には「芽吹く」「開く」という動詞は書かれていないが、隠れている。無意識に動いている。それを補うと、書かれていることが「名詞」の変化だけではなく、「動詞」そのものであることがわかる。「動詞」が変化するから「激しい」できごとなのだ。
「さらされた」ものは「傷口」と名づけられているが、その「傷」は「外部」からやってきたものではなく、柿の内部から生み出されたものである。内部の「激しい」動きが、必然的に、そういうことろに達してしまう。
それが「必然」だから、「さらす」は「うみだす」と言いなおすこともできるだろう。「うまれる」と言いなおした方がいいのかもしれない。「うみだす」「うまれる」ということばではなく、林がつかっているのは「傷口になる」の「なる」だが、その「なる」の変化は「柿」の内部からはじまっているので、「うむ」「うまれる」と言いなおせると思う。
最終連。
ここには二つの動詞がある。「待つ」と「訪ねて来る」(訪ねる、来ると、さら二つにわけることもできるが)。
「動き」があるのは「訪ねて来る」の方だが、私は「待つ」の方にこころを動かされた。
「隠している」ものが「さらされる」。「隠していたもの」が「うみだされる」。そこには「月日(時間)」が横たわっている。「激しく動いている」と言ってもいいのだが。そこに「時間」があるからこそ、「待つ」という動詞が必然的につかわれる。
一篇の詩のなかで、「動詞」が緊密に連絡し合うとき、ことばは強くなる。
*
石川逸子「花桃咲く村で」は、どんなふうに「動詞」は呼応するか。
「話す/語る」と「聞く/聴く」。「話す/語る」を「聞く/聴く」とき、「ことば」は「話し手」と「聞き手」によって共有されるが、その「共有」がさらに「鳥/花桃の花」に広がっていく。ここに美しさと悲しさがある。「鳥/花桃の花」は「聴いたことば」を「語る」ということはしない。そこに非情があり、それが悲しく、美しい。
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林嗣夫「柿」を読む。
庭のかたすみに
熟した渋柿が落ち
つぶれた緋色の果肉をさらしていた
激しいできごとの後の
しずけさで
「激しいできごと」が何を表わしているのか、明確には書かれていない。けれども、それを挟む「さらしていた」が、何かを感じさせる。「激しい」できごとは、何かを「さらしてしまう」。「さらす」の反対のことばは「隠す」だろう。何かが暴れ回り、隠しきれなくなる。隠していたものが「さらされる」。「さらす」という動詞が、そういう「運動」を表わしている。
そして、それは「さらされてしまう」と「しずか」になる。「激しさ」を持ったままではいられない。
「対比」のなかで、「さらす」がいっそう強くなる。
この詩は、こう転調する。
つぶれた柿へ一歩近づいた時
黒い美しい蝶が
ひらひらひらと飛び立った
柿のそばに身をひそめていたのだ
「ひそめる」は「隠れる」。「さらす」の反対である。それが、「あらわれた」。
緋色と黒の対比。燃えるような緋色の背後から黒が抜け出す。それはまるで緋色が隠していた黒のようだ。黒があるから緋色の赤は強くなる。美しいのは、黒のなかにまだ緋色が残っているからだろう。色というよりも、「激しい」戦い(できごと)が「ひそんでいた」のである。
「柿のそばに身をひそめていたのだ」という一行は詩というよりも「散文」(説明)だが、「ひそむ」という動詞を書かなければならない理由がある。一連目の「さらす」という動詞と向き合わせせることで、「激しいできごと」を語りなおしたかったのである。
「激しいできごと」は、次の連でこう言いなおされる。
そのような月日が流れてきたのか
柿はこの蝶に会うために
初夏の若葉
花
そして実をつけ
重さを養い
渋を甘みに変え
ついに落下して
思いの傷口そのものになったのである
「激しいできごと」は「月日が流れる」の「流れる」という動詞のなかで克明に語りなおされる。「月日(時間)」は「流れる」。「時間」は柿の変化となってあらわれる。「柿」は変化しながら、「隠していたもの」を「さらす」。
「激しさ」は、若葉が「芽吹く」、花が「開く」、実を「つける」、重さを「養う」、甘みに「変える」という「動詞」の変化そのものとして書かれている。「若葉」「花」には「芽吹く」「開く」という動詞は書かれていないが、隠れている。無意識に動いている。それを補うと、書かれていることが「名詞」の変化だけではなく、「動詞」そのものであることがわかる。「動詞」が変化するから「激しい」できごとなのだ。
「さらされた」ものは「傷口」と名づけられているが、その「傷」は「外部」からやってきたものではなく、柿の内部から生み出されたものである。内部の「激しい」動きが、必然的に、そういうことろに達してしまう。
それが「必然」だから、「さらす」は「うみだす」と言いなおすこともできるだろう。「うまれる」と言いなおした方がいいのかもしれない。「うみだす」「うまれる」ということばではなく、林がつかっているのは「傷口になる」の「なる」だが、その「なる」の変化は「柿」の内部からはじまっているので、「うむ」「うまれる」と言いなおせると思う。
最終連。
蝶も
この日を待って訪ねて来た
ここには二つの動詞がある。「待つ」と「訪ねて来る」(訪ねる、来ると、さら二つにわけることもできるが)。
「動き」があるのは「訪ねて来る」の方だが、私は「待つ」の方にこころを動かされた。
「隠している」ものが「さらされる」。「隠していたもの」が「うみだされる」。そこには「月日(時間)」が横たわっている。「激しく動いている」と言ってもいいのだが。そこに「時間」があるからこそ、「待つ」という動詞が必然的につかわれる。
一篇の詩のなかで、「動詞」が緊密に連絡し合うとき、ことばは強くなる。
*
石川逸子「花桃咲く村で」は、どんなふうに「動詞」は呼応するか。
花桃咲く村で
Kさんの話を聞いた
満蒙拓団に たった十四歳でくわわった
Kさん
花桃咲く村に
再び帰れなかった 同じ団の七十三人
小さな子供たち
年寄り 女性たちばかり
暗夜のトウモロコシ畑で 七十三人は
どのように はかなくなったか
語る Kさん
哀しい話を 鳥たちが聴いていた
花桃の花も
聴いていた
「話す/語る」と「聞く/聴く」。「話す/語る」を「聞く/聴く」とき、「ことば」は「話し手」と「聞き手」によって共有されるが、その「共有」がさらに「鳥/花桃の花」に広がっていく。ここに美しさと悲しさがある。「鳥/花桃の花」は「聴いたことば」を「語る」ということはしない。そこに非情があり、それが悲しく、美しい。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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林嗣夫詩集 (新・日本現代詩文庫134) | |
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