詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

劉霞『毒薬』

2018-04-12 09:00:28 | 詩集
劉霞『毒薬』(書肆侃侃房、2018年03月02日発行)

 劉霞『毒薬』の感想を書くのは、非常にむずかしい。そこに書かれている「具体」は客観的な具体ではなく、劉霞がつかみとった具体だからである。
 言い換えると、そこには「ことば」があるだけだからだ。「具体」を「ことば」という抽象のなかだけで動かしている。
 何かを恐れている。それを劉暁波との関係、政治との関係に結びつけて言うことができるかもしれないが、私は中国の現実を知らないので、そういうことはしない。
 「空いている椅子」を読んでみる。

あちらにもこちらにも空いている椅子
こんなにたくさんの空いている椅子が
世界のあちこちにあるけれど
特に私はヴァン・ゴッホの空いている椅子に魅せられる

 「ヴァン・ゴッホの空いている椅子」は「具体」であると同時に「抽象」である。ゴッホが描いた絵の中にある。そこにはゴッホの思想が色と形になっている。ゴッホの思想は色と形でしか表現されないが、それが思想の「具体的な形」である。
 このゴッホの「思想」と劉霞はやはり「思想(ことば)」で向き合う。ゴッホの椅子が「思想」を語る具体的なものとして取り扱われている。ゴッホの「思想」も、それを語る劉霞の「思想」は具体的なのだけれど、この具体性は、「頭」ではわかった気持ちになるが、ちょっとくらい読んだだけでは咀嚼しきれない。劉霞のことばを相当読み続けている人間以外には、その「思想の肉体」がつかめないからだ。
 こんなことを言えばゴッホについても同じかもしれないが、ゴッホについていえば、私は中学生くらいのときからなじんでいる。「ほんもの」を見る機会はずっとあとになってだが、中学生の頃から「本」で見ている。だから「知っている」と錯覚できるが、劉霞はそういう錯覚すらない。
 これが、こまる。
 しかも、「ことば」は翻訳されていて、それを読むことができるから、余計に向き合い方がむずかしくなる。
 でも、こんなことはいくら書いてもどうしようもない。
 「わかる」ことを書いていくしかない。
 劉霞がゴッホからつかみ取った「思想」は「空いている」という動詞で書き留められている。椅子は人が「座る」ことで「椅子」になる。人が座るまでは椅子の形をしているが、椅子の働きをしていない。「動詞」になっていない。そういう椅子は世界にはたくさんある。それなのに、劉霞はゴッホの椅子こそが「空いている」と感じる。そこに惹きつけられる。
 なぜ、ゴッホの椅子を「空いている」と感じたか。あるいは、そこには何が「座る」べきだと考えたのか。
 詩は、こうつづいていく。

ひっそりと坐ってみる
両足を少しゆらゆらさせてみると
椅子からにじみ出る息遣いに
凍えるほどかじかんでしまい
身動きもできなくなってしまう

 ゴッホの椅子に、劉霞は「想像力」で座る。「ことば」で座る。そのときの「座り方」は少し変わっている。足を床に着けない。つまり、「全身」を椅子に預ける。椅子だけに頼る。椅子と一体になる。そうすると、全身をあずけられた椅子が「息」を洩らす。「息」なのに、それは冷たい。なぜだろうか。ゴッホの椅子は「冷たい」何かを座らせていたのだ。そのために冷たくなっている。そして、それを感じると劉霞も冷たくなって、「身動きできなくなる」。椅子との一体感が強くなる。劉霞自身が椅子になる感じだ。
 ゴッホの椅子に座っていた人間は、「身動きできない」人間だったのだ。足があるけれど、動けない。そういう状況にあったのだ。そのひとは、「冷たさ」と直面していた。「冷たさ」は「孤独」かもしれない。「絶望」かもしれない。そのために「身動きできなくなって」いた。
 ゴッホの椅子に座って、劉霞はゴッホの椅子なり、同時に椅子に座っていた人間になる。
 だれが、座っていたのか。
 三連目で、「だれが」が書かれる。

ヴァン・ゴッホが大きく絵筆を振る
出て行け 出て行け 出て行け
今夜は葬式などしないぞ

 「死」が座っていた。「だれ」ではなく、死がすわっていた。死んだ人が座っていた。それは、でもだれなのか。ゴッホのなかの「もう一人のゴッホ」か。ゴッホは生きているから、「もう一人のゴッホ」は「死んだ」としても「描かれる」ことはない。「死」はこの場合、具体ではなく、「理念」だからである。もし、椅子に座っている人が大事な人だった場合は、どうか。死んでもその人はゴッホの「思い」のなかで生きている。その「生」を強く感じる。このときも死は「理念」として存在することになる。
 ゴッホは「理念」を描いている。「思想」を描いている。劉霞は、ことばで、その「理念(思想)」に触れ、「冷たい」と感じる。同時に、その「思想(理念)」を描こうとするゴッホの「熱さ」も感じる。絵を描ききることが「葬式」なのである。だから「現実」の葬式ではなく、「理念(思想)」として葬式をする。
 矛盾のなかで、激しくのたうっている。ことばで説明しようと、同義反復になる。違う意味のことが、同じことばの中にあらわれてきてしまう。その同じことばを何とか、違うことば、新しいことば、既成のことばではなく、劉霞だけがつかみとったことばとして生み出そうとしている。この劉霞のことばの模索は、そのままゴッホの色と形を求めて苦闘する姿そのものにもなる。
 ゴッホの椅子をみるとき、劉霞は椅子そのものであり、またその椅子に座る人であり、同時にその椅子を描くゴッホでもある。

ヴァン・ゴッホが私のひとみをじっと見つめ
私のまぶたを閉じさせる
本焼きを待つ陶器のように
ひまわりの烈火の中に坐って待つ

 このことばを「現実」と交差させるためには、劉霞をもっともっと読まないといけない。そういうことを感じる。
 それ以上のことは、いまは書けない。何かが書けるとしたら、もっともっと劉霞を読んでからだ。



*


「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ

詩はどこにあるか3月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

森口みや「コタローへ」2  池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15  近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26  坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47  ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


詩集 毒薬
クリエーター情報なし
書肆侃侃房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛県文書(その2)

2018-04-12 07:15:52 | 自民党憲法改正草案を読む
愛媛県文書(その2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外206(情報の読み方)

 2018年04月11日の朝日新聞(西部版・14版)の加計学園獣医学部に関する愛媛県作成文書の「全文」を引用しながら、きのうは、その「類似性」について指摘した。誰かが「シナリオ(設計図)」を書いているのではないのか。その「設計図」に従って、藤原地方創世推進室次長と柳瀬首相秘書官が愛媛県側を「指導」している。そうとしか思えない。
 一方、二人の「指導」には微妙に違う部分がある。これはこれで、非常におもしろい。なぜ、違うんだろう。

藤原文書「獣医師会等と真っ向勝負にならないよう、既存の獣医学部と異なる特徴、例えば、公務員獣医師や産業獣医師の養成などのカリキュラムの工夫や、養殖魚病対応に加え、ペット獣医師を増やさないような卒後の見通しなどもしっかり書き込んでほしい」
柳瀬文書「獣医師会には、直接対決を避けるよう、既存の獣医大学との差別化を図った特徴を出すことや卒後の見通しなどを明らかにするとともに、(後略)」

 「獣医師会対策」として「真っ向勝負」「直接対決」を避ける。そのために「既存の獣医学部と異なる特徴」「既存の獣医大学との差別化を図った特徴」を出す。さらに「卒後の見通し」を明らかにする。
 二人が言っていることは「概略(ポイント)」が同じ。
 もし、私が愛媛県側のメモ作成者だったら、わざわざ「概略」を書き分けない。「真っ向勝負」と言ったのか「直接対決」と言ったのか。「異なる特徴」と言ったのか「差別化」と言ったのか。時間が経てば、きっと区別がつかなくなる。混同するし、どちらかに合わせてしまう。「脳」というのは、非常にずぼらだから、こんな些細なことは区別せずに「同じ」と判断し、処理してしまう。
 ところが、担当者は書き分けている。ここに大事なポイントがある。
(1)担当者は、面会するとき、それを録音していた。メモは録音を再生しながら作成した。
(2)担当者は、一人で面会のメモを作成したのではない。そのとき同席した人に「こう記憶しているが、この表現で間違いがないか」と確認している。
 どちらかである。
 今後にかかわる重要な文書である。「そんなことは言っていない」と藤原、柳瀬から言われると困るから、「証拠」として残したのである。単なるメモではない。
 これは、森友学園の「昭恵」と同じ。「特殊事情」(特記事項)なのだ。
 なぜ、そうしたのか、と担当者が追及されたとき「これこれの発言があったから」(これこれの名前があったから)と、特殊事情を説明するための「保険」なのである。
 だれだって、重要な話はメモを取る。時には「録音」を証拠として残す。
 いまは出てきていないが、きっと「録音」はある。

 加計学園の獣医学部新設については、安倍がとんでもない答弁をしている。
 読売新聞(2018年04月12日朝刊、西部版・14版、1面)によると、

 首相は、獣医学部新設を認めた行政手続きについて、「プロセスに関わった(国家戦略特区諮問会議の)民間委員からは『一点の曇りもない』との明確な発言があった。私から(不当な)指示を受けたという方は一人もいない」と正当性を強調した。

 「一点の曇りもない」とは、どういうことか。
 民間委員は、愛媛県側のこのメモの存在を知っていたか。その内容を知っていたか。情報を安倍が隠していたから、その情報について民間委員は判断できなかった。
 不都合な情報を公開せず、都合のいい情報だけを提示して議論を進める。これは安倍のもっとも「得意」とする沈黙作戦の手法である。反論させる材料を封印する。
 また、民間委員は安倍から指示を受けていなくても、民間委員が審議した資料(文書)が安倍の指示に従ってつくられているということはないのか。これが問題なのだ。

 それにしても。
 加計学園獣医学部は新設が認可されまで、何度も注文を出されている。カリキュラムなどを何度も修正し、やっと「認可」にこぎ着けている。
 これは愛媛県側の文書(柳瀬文書)の、

加計学園から、先日安倍総理と同学園理事長が会食した際に、下村文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけしからんといっているとの発言があり、その対策について意見を求めたところ、今後、策定する国家戦略特区への取組状況を整理して、文科省に説明するのがよいとの助言があった。

 を連想させる。
 加計学園は認可に必要な「書類」をきちんと準備することができない学園なのである。何度も指摘されて、やっと「書類」を整えている。
 これは平成27年4月当時から、かわらない。
 この「体質」を愛媛県側は熟知していたのではないのか。県がいくら頑張ってみても、加計学園側に「手抜き(不備)」があれば、「国家戦略特区」の指定はむずかしい。もし指定されなかったとき、どうするか。県側ではなく、加計学園に問題があるからだという「証拠」になるから、こういう文書を残したのだ。
 「保身」の文書である。役人は「保身」が第一。「私の責任ではない」というために、「正確な文書」を残すものである。
 こんなに丁寧な指導を受けながら、なぜ加計学園獣医学部は認可までに何度も審議が必要だったのか。加計学園が「提出書類」の作成で手抜きをしたからだ。なぜ手抜きをしたかといえば、「安倍案件」だから絶対に認可されるという確信があり、ずぼらになったのだ。少しでも不安があれば事前に担当の役所に出向いて「事前審査」のようなものを受ける。レクチャーを受けて、書類を提出するはずだ。
 大学(会社)の受験だって、書類が完全かどうか、何度もチェックもすれば、「これでいいですか?」と問い合わせたりする。ずさんなのは、「安倍が何とかしてくれる」と信じきっているからである。「安倍決定案件」だったからである。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。

松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする