劉霞『毒薬』(書肆侃侃房、2018年03月02日発行)
劉霞『毒薬』の感想を書くのは、非常にむずかしい。そこに書かれている「具体」は客観的な具体ではなく、劉霞がつかみとった具体だからである。
言い換えると、そこには「ことば」があるだけだからだ。「具体」を「ことば」という抽象のなかだけで動かしている。
何かを恐れている。それを劉暁波との関係、政治との関係に結びつけて言うことができるかもしれないが、私は中国の現実を知らないので、そういうことはしない。
「空いている椅子」を読んでみる。
「ヴァン・ゴッホの空いている椅子」は「具体」であると同時に「抽象」である。ゴッホが描いた絵の中にある。そこにはゴッホの思想が色と形になっている。ゴッホの思想は色と形でしか表現されないが、それが思想の「具体的な形」である。
このゴッホの「思想」と劉霞はやはり「思想(ことば)」で向き合う。ゴッホの椅子が「思想」を語る具体的なものとして取り扱われている。ゴッホの「思想」も、それを語る劉霞の「思想」は具体的なのだけれど、この具体性は、「頭」ではわかった気持ちになるが、ちょっとくらい読んだだけでは咀嚼しきれない。劉霞のことばを相当読み続けている人間以外には、その「思想の肉体」がつかめないからだ。
こんなことを言えばゴッホについても同じかもしれないが、ゴッホについていえば、私は中学生くらいのときからなじんでいる。「ほんもの」を見る機会はずっとあとになってだが、中学生の頃から「本」で見ている。だから「知っている」と錯覚できるが、劉霞はそういう錯覚すらない。
これが、こまる。
しかも、「ことば」は翻訳されていて、それを読むことができるから、余計に向き合い方がむずかしくなる。
でも、こんなことはいくら書いてもどうしようもない。
「わかる」ことを書いていくしかない。
劉霞がゴッホからつかみ取った「思想」は「空いている」という動詞で書き留められている。椅子は人が「座る」ことで「椅子」になる。人が座るまでは椅子の形をしているが、椅子の働きをしていない。「動詞」になっていない。そういう椅子は世界にはたくさんある。それなのに、劉霞はゴッホの椅子こそが「空いている」と感じる。そこに惹きつけられる。
なぜ、ゴッホの椅子を「空いている」と感じたか。あるいは、そこには何が「座る」べきだと考えたのか。
詩は、こうつづいていく。
ゴッホの椅子に、劉霞は「想像力」で座る。「ことば」で座る。そのときの「座り方」は少し変わっている。足を床に着けない。つまり、「全身」を椅子に預ける。椅子だけに頼る。椅子と一体になる。そうすると、全身をあずけられた椅子が「息」を洩らす。「息」なのに、それは冷たい。なぜだろうか。ゴッホの椅子は「冷たい」何かを座らせていたのだ。そのために冷たくなっている。そして、それを感じると劉霞も冷たくなって、「身動きできなくなる」。椅子との一体感が強くなる。劉霞自身が椅子になる感じだ。
ゴッホの椅子に座っていた人間は、「身動きできない」人間だったのだ。足があるけれど、動けない。そういう状況にあったのだ。そのひとは、「冷たさ」と直面していた。「冷たさ」は「孤独」かもしれない。「絶望」かもしれない。そのために「身動きできなくなって」いた。
ゴッホの椅子に座って、劉霞はゴッホの椅子なり、同時に椅子に座っていた人間になる。
だれが、座っていたのか。
三連目で、「だれが」が書かれる。
「死」が座っていた。「だれ」ではなく、死がすわっていた。死んだ人が座っていた。それは、でもだれなのか。ゴッホのなかの「もう一人のゴッホ」か。ゴッホは生きているから、「もう一人のゴッホ」は「死んだ」としても「描かれる」ことはない。「死」はこの場合、具体ではなく、「理念」だからである。もし、椅子に座っている人が大事な人だった場合は、どうか。死んでもその人はゴッホの「思い」のなかで生きている。その「生」を強く感じる。このときも死は「理念」として存在することになる。
ゴッホは「理念」を描いている。「思想」を描いている。劉霞は、ことばで、その「理念(思想)」に触れ、「冷たい」と感じる。同時に、その「思想(理念)」を描こうとするゴッホの「熱さ」も感じる。絵を描ききることが「葬式」なのである。だから「現実」の葬式ではなく、「理念(思想)」として葬式をする。
矛盾のなかで、激しくのたうっている。ことばで説明しようと、同義反復になる。違う意味のことが、同じことばの中にあらわれてきてしまう。その同じことばを何とか、違うことば、新しいことば、既成のことばではなく、劉霞だけがつかみとったことばとして生み出そうとしている。この劉霞のことばの模索は、そのままゴッホの色と形を求めて苦闘する姿そのものにもなる。
ゴッホの椅子をみるとき、劉霞は椅子そのものであり、またその椅子に座る人であり、同時にその椅子を描くゴッホでもある。
このことばを「現実」と交差させるためには、劉霞をもっともっと読まないといけない。そういうことを感じる。
それ以上のことは、いまは書けない。何かが書けるとしたら、もっともっと劉霞を読んでからだ。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
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劉霞『毒薬』の感想を書くのは、非常にむずかしい。そこに書かれている「具体」は客観的な具体ではなく、劉霞がつかみとった具体だからである。
言い換えると、そこには「ことば」があるだけだからだ。「具体」を「ことば」という抽象のなかだけで動かしている。
何かを恐れている。それを劉暁波との関係、政治との関係に結びつけて言うことができるかもしれないが、私は中国の現実を知らないので、そういうことはしない。
「空いている椅子」を読んでみる。
あちらにもこちらにも空いている椅子
こんなにたくさんの空いている椅子が
世界のあちこちにあるけれど
特に私はヴァン・ゴッホの空いている椅子に魅せられる
「ヴァン・ゴッホの空いている椅子」は「具体」であると同時に「抽象」である。ゴッホが描いた絵の中にある。そこにはゴッホの思想が色と形になっている。ゴッホの思想は色と形でしか表現されないが、それが思想の「具体的な形」である。
このゴッホの「思想」と劉霞はやはり「思想(ことば)」で向き合う。ゴッホの椅子が「思想」を語る具体的なものとして取り扱われている。ゴッホの「思想」も、それを語る劉霞の「思想」は具体的なのだけれど、この具体性は、「頭」ではわかった気持ちになるが、ちょっとくらい読んだだけでは咀嚼しきれない。劉霞のことばを相当読み続けている人間以外には、その「思想の肉体」がつかめないからだ。
こんなことを言えばゴッホについても同じかもしれないが、ゴッホについていえば、私は中学生くらいのときからなじんでいる。「ほんもの」を見る機会はずっとあとになってだが、中学生の頃から「本」で見ている。だから「知っている」と錯覚できるが、劉霞はそういう錯覚すらない。
これが、こまる。
しかも、「ことば」は翻訳されていて、それを読むことができるから、余計に向き合い方がむずかしくなる。
でも、こんなことはいくら書いてもどうしようもない。
「わかる」ことを書いていくしかない。
劉霞がゴッホからつかみ取った「思想」は「空いている」という動詞で書き留められている。椅子は人が「座る」ことで「椅子」になる。人が座るまでは椅子の形をしているが、椅子の働きをしていない。「動詞」になっていない。そういう椅子は世界にはたくさんある。それなのに、劉霞はゴッホの椅子こそが「空いている」と感じる。そこに惹きつけられる。
なぜ、ゴッホの椅子を「空いている」と感じたか。あるいは、そこには何が「座る」べきだと考えたのか。
詩は、こうつづいていく。
ひっそりと坐ってみる
両足を少しゆらゆらさせてみると
椅子からにじみ出る息遣いに
凍えるほどかじかんでしまい
身動きもできなくなってしまう
ゴッホの椅子に、劉霞は「想像力」で座る。「ことば」で座る。そのときの「座り方」は少し変わっている。足を床に着けない。つまり、「全身」を椅子に預ける。椅子だけに頼る。椅子と一体になる。そうすると、全身をあずけられた椅子が「息」を洩らす。「息」なのに、それは冷たい。なぜだろうか。ゴッホの椅子は「冷たい」何かを座らせていたのだ。そのために冷たくなっている。そして、それを感じると劉霞も冷たくなって、「身動きできなくなる」。椅子との一体感が強くなる。劉霞自身が椅子になる感じだ。
ゴッホの椅子に座っていた人間は、「身動きできない」人間だったのだ。足があるけれど、動けない。そういう状況にあったのだ。そのひとは、「冷たさ」と直面していた。「冷たさ」は「孤独」かもしれない。「絶望」かもしれない。そのために「身動きできなくなって」いた。
ゴッホの椅子に座って、劉霞はゴッホの椅子なり、同時に椅子に座っていた人間になる。
だれが、座っていたのか。
三連目で、「だれが」が書かれる。
ヴァン・ゴッホが大きく絵筆を振る
出て行け 出て行け 出て行け
今夜は葬式などしないぞ
「死」が座っていた。「だれ」ではなく、死がすわっていた。死んだ人が座っていた。それは、でもだれなのか。ゴッホのなかの「もう一人のゴッホ」か。ゴッホは生きているから、「もう一人のゴッホ」は「死んだ」としても「描かれる」ことはない。「死」はこの場合、具体ではなく、「理念」だからである。もし、椅子に座っている人が大事な人だった場合は、どうか。死んでもその人はゴッホの「思い」のなかで生きている。その「生」を強く感じる。このときも死は「理念」として存在することになる。
ゴッホは「理念」を描いている。「思想」を描いている。劉霞は、ことばで、その「理念(思想)」に触れ、「冷たい」と感じる。同時に、その「思想(理念)」を描こうとするゴッホの「熱さ」も感じる。絵を描ききることが「葬式」なのである。だから「現実」の葬式ではなく、「理念(思想)」として葬式をする。
矛盾のなかで、激しくのたうっている。ことばで説明しようと、同義反復になる。違う意味のことが、同じことばの中にあらわれてきてしまう。その同じことばを何とか、違うことば、新しいことば、既成のことばではなく、劉霞だけがつかみとったことばとして生み出そうとしている。この劉霞のことばの模索は、そのままゴッホの色と形を求めて苦闘する姿そのものにもなる。
ゴッホの椅子をみるとき、劉霞は椅子そのものであり、またその椅子に座る人であり、同時にその椅子を描くゴッホでもある。
ヴァン・ゴッホが私のひとみをじっと見つめ
私のまぶたを閉じさせる
本焼きを待つ陶器のように
ひまわりの烈火の中に坐って待つ
このことばを「現実」と交差させるためには、劉霞をもっともっと読まないといけない。そういうことを感じる。
それ以上のことは、いまは書けない。何かが書けるとしたら、もっともっと劉霞を読んでからだ。
*
「詩はどこにあるか」3月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
詩はどこにあるか3月号注文
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ここをクリックして1750円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
森口みや「コタローへ」2 池井昌樹『未知』4
石毛拓郎「藁のひかり」15 近藤久也「暮れに、はみ出る」、和田まさ子「主語をなくす」19
劉燕子「チベットの秘密」、松尾真由美「音と音との楔の機微」23
細田傳造『アジュモニの家』26 坂口簾『鈴と桔梗』30
今井義行『Meeting of The Soul (たましい、し、あわせ)』33 松岡政則「ありがとう」36
岩佐なを「のぞみ」、たかとう匡子「部屋の内外」39
今井義行への質問47 ことばを読む53
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」56 菊池祐子『おんなうた』61
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」63
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(下)68
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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