愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(詩的現代叢書28)(書肆山住、2018年04月05日発行)
愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』の感想を書くのはむずかしい。私が以前に書いた感想が「解説」として収録されているからだ。
私は書くために考える。考えというのは、日々変わるものである。「変わらない考え」というものがあるかもしれないが、私は、そういうものを信じていない。変わってこそ、「考えた」ことになる。
そして、私は私の書いたことをまったくおぼえていない。読めば思い出すだろうが、そんなめんどうなことはしたくない。
だから、(あるいは、かもしれない)
私は、いままで書いたこととは違うことを、平気で書く。あるいは、いままで書いたことを否定して、別なことを書きたいという欲望ももっている。どうせ考えるなら、同じことではなく、新しいことを考えたい。別な見方は(読み方は)できないか、私自身のことばを点検してみたい。
これって、他人から見ると「いいかげん」に見えるだろうなあ。それが気になる。ほかのひとはともかく、愛敬は、ぜんぜん違うことを書いていると怒るかもしれないなあ。「矛盾したことを書くな」と。
でも、書いてみたい。
長い前置きになったが。
石毛が「それは阿Qだ」と言ったのは、「少年時」というシリーズに登場する「カクさん」のことである。「カクさん」というのは、愛敬が少年のときに見かけた男。何でも知っている。でも、ぶらぶらしている。子ども相手に質問に答えてくれる。
「少年時(その七)」には「カクさん」は「具体的」には書かれていない。
そうだ
もう、あの田んぼ道はないのだ
私の家があった高台の下から駅までの
田んぼの中の
うねうねとした
途中に一本柳のある
あの道は
もう、ないのだ
私の目には
はっきり見えるのに
そこに行ってももうない
「私の目にははっきり見えるのに」「もうない」。これが愛敬のテーマ。「カクさん」も「もういない」。それなのに愛敬にははっきり見える。だから、書く。「不在」(非在)をことばで「存在」させる。「否定される何か」を「存在」として動かし、そこから見えてくるものを見つめなおす--石毛が「阿Q」を引き合いに出したのは、こういう運動を愛敬のことばに見いだしたからだ。それ以上の批評はない。
だから、私は、「阿Q」性について、あるいはその「思想」性については書かない。
私は引用した部分では、二か所に思わず傍線を引いた。このことばについて何か書いてみたいと思った。
ひとつは、「私の目には/はっきり見えるのに/そこに行ってももうない」の「のに」。強い力を感じた。
「のに」とは何か。
「見える」と「ない(見えない)」が「のに」によって結びつけられ、結びつけられることによって「ことば」が動く。
「のに」は「結びつける」という「見えない動詞」、ことばそのものを動かす力だ。
「見えるのに、ない」というのは「矛盾」だが、それは「切断」されない。「結びつけられ/接続させられ」「矛盾」を存在させる。「矛盾」を存在させる力が「のに」にはある。
なぜ「矛盾」を存在させたいのか。「矛盾」として否定したもののなかに動いているものをことばにしたいからだ。(あ、こう書いてしまえば、石毛の指摘したことと、かわりがないか。)
この「のに」にいちばん近いことばが、「途中に一本柳がある」の「途中」である。「途中」というのは「あいだ」である。ふたつのものをつないでいる。「道」は「のに」のような「ことば」ではなく、実在のものである。「途中」も「実在」のものである。でもその「実在の途中」というのは、ほとんど重視されない。「道」にとって重視されるのは「出発(点)」と「到着(点)」である。「道」は短い方がいい、というのが「資本主義経済」の論理である。「うねうね」していては、だめ。
でも、ひとは、その「省略されてしまう」部分、「途中」を一生懸命に生きている。「途中」がないと、どこへも行けない。「途中」を意識するために「一本柳」があるのかもしれない。
ここからちょっと逆戻りして。
「のに」も「途中」である。「見える」と「ない(見えない)」をつないでいる。その「中間」になる。でも、この「のに」を「うねうねとした道」としてあらわすのは、なかなかむずかしい。「のに」は意識の運動であり、意識は「飛び越える」ことを専門にしている。「肉体」では飛び越えられないものを「意識」は簡単に飛び越す。「うねうね」は意識にとっていちばんの「苦手」な運動である。逆に言うと「うねうね」を書くと文学になる、ということ。
さて、愛敬は、どうやって「のに」を「うねうねした道」にし、その「途中」を何によって印づけるか。
詩は、こうつづいている。
どういうわけでか
整備事業などというものがあり
小さな
それぞれ
まちまちな大きさの田が
ただの長方形になり
しばらく振りにふるさとに帰ってみると
その田んぼだった所に
大型のスーパーマーケットが建っていたりする
まるで知らない場所に変わっている
「はっきり見える」のは「ちいさな」「それぞれ」「まちまち」という「形」である。「省略」されたのは、「個別性」なのだ。「個別性」というものが以前は存在していた。「個別性」が「うねうね」なのである。
それを否定するのが「ただの長方形」の「ただの」であり、「大型のスーパーマーケット」の「大型」である。「単純」で「大型」のもの、合理化された大型のものが、個別性を破壊し、捨て去った。
けれども、愛敬には、その否定されたものが「見える」。愛敬は、否定されたものを、生きている。ひきずっている、という言い方もあるが、ひきずるのは、それを復活させたいという思いがどこかにあるからだ。「個別性」のなかに、何かを感じているからだろう。
この変化の過程(あいだ、途中)にどういう暴力があったのか。それは具体的にはどんな具合に「カクさん」に影響したのか。私はそれが読みたくなる。しかし、書かれない。
書かなかったために、詩の最後の部分で、愛敬のことばは大きく変わる。
もちろん
カクさんがいまそこを歩いているはずがない
カクさんが
ゆっくりと
限りなく、ゆっくりと
そこから遠ざかっていくのは分かる
カクさんが歩くような道はもうどこにもない
カクさんが
遠ざかっていることだけが分かる
「見える」が「分かる」と変わる。「のに」という意識の運動を「小さな」「それぞれ」「まちまち」から「ただの」「大型の」への変化として意識しなおしたとき、「見える」という「肉眼(肉体)」の動詞が、「分かる」という「意識」の動詞に変わる。
とても正直な変化だが、ここは簡単に「意識」の「動詞」になってしまうのではなく、「肉眼(肉体)」の動詞のまま踏ん張ってほしかったと思う。「分かる」ではなく「見える」という動詞で詩を動かしてほしいと思う。
「意識」で「カクさん」を追いかける(追い求める)のではなく、どこまでも「肉眼(肉体)」で追いかければ、愛敬は「カクさん」になれるのではないのか。「意識」にしてしまっては、愛敬は「カクさん」になれない。「分かる」は「分ける」でもある。分けてしまっては(分離してしまっては)、それは「追憶」に終わってしまう。「追憶」にせずに、肉体でつなぎとめればことばは「いま」を生きることになると思う。
「分かる」というのは、都合がいいというか、「手抜きことば」なのだ。書いている人間は、分かってはいけないのだ。分かったら、書く必要はない。
途中までは、ことばが丁寧だったのに……。
*
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