詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」

2018-04-21 10:50:49 | 詩集
松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 松尾真由美「乾きという地理の密度」は、どう読んでいいのかわからない。

すでに
乾いた花と茎
気づかぬうちにかたくなり
擦れあう痛みがにぶくひびいて

 「乾く」と「かたくなる」のはわかる。「乾く」と「擦れあう」も通じ合う。湿ったものは「擦れる」とは、たぶん言わない。湿っていると「すべる」か「ねばる」になると思う。「乾いて」「かたくなり」「擦れあう」と、「痛み」が生まれる。
 これは、人間の「肉体」でいうと、「乾燥した(水分を失った)肌」が「硬くなり(しなやかさを失い)」、「擦れ合う(軽い衝撃を受ける)」と、割れてしまい、それが「痛む」というのに似ている。
 花(草)を描写しながら、それを自分の「肉体」で引き受け、「痛み」ということばで一体になる。
 私は、そう読んできて、「痛み」が「響く」というのも納得できるのだが、それが「にぶく」と書かれていることにつまずく。「鈍く」というのは、表面的ではない。「肉体の奥」で動く感じがする。「擦れ合う」は「表面」が「擦れ合う」こと。そういうときは「鈍く」なのかなあ。動詞と反応が、つながらない。だから、わからない。
 詩は、

距離のとれない一室が沼のようにおぼろげに

 という不思議な行を挟んで変わっていく。「一室」が謎なのだが、これは後半、こういう具合に言いなおされる。

好意とか悪意とか霞とか陽炎とか
あからさまにしどけなく鏡の壁を濁していって
不吉なほどに暗い色は私の形であるのだろう
種子を吐きだしたあとの殻の
事後の不明におののきつつ
とおい楽園を思い出す

 とても魅力的だ。
 「一室」とは「種子を吐きだしたあとの殻」である。それを「私の形」と呼ぶのは、松尾が「花(あるいは草)」と松尾の「肉体」を重ねているからだ。花が終わり、実(種子)もすでに草を離れた。残されているのは、種子が入っていたはずの「殻(一室)」である。その変化、「一室(殻)」になるまでの濃密な「時間」が、松尾と他者との「愛憎劇」ということになる。「肉体」の「愛憎劇」は「楽園」のことである。官能のことである。
 でも、そこに書かれるのは「好意」「陽炎」という明るさを含んだことばもあるけさど、重きは「不吉」「暗い色」「不明」の方にある。これは最初に引用した部分の「にぶく」を言いなおしたことばなのかもしれない。そういうものに「おおのく」からこそ「官能」を思い出すということなのかもしれないが、どうもすっきりしない。
 「肉体」がついていけない。「肉体」がほんとうに感じていることではなく、「頭」でこしらえた「ことば」の世界に思えてしまう。



 三角みづ紀「けあらし」も「自然(現象)」と「肉体」を重ねる詩である。

二月末、早朝の大津海岸にて。
幼いあなたは目を凝らして
たちのぼる霧をのがさない
わたしは海面から霧がたちのぼる理由を
すこしだけ考察した すぐやめた

 「考察する」。「頭」で考える。「頭」で察する。でも、やめた。「頭」を動かすことをやめる。そうすると、世界が突然変化する。

ここに存在するものと
ここに立ったあなたが
同じくらい拡がっていることを
忘れないでおいて。

降りそそぐ陽光で目覚めて
骨格をあらわにした白樺の
沈黙がたちまち語りだした

 「けあらし」の雄大なひろがり。それをみつめるとき、「あなた(人)」はけあらしの雄大そのものになる。「幼いあなた」の「肉体」は小さいが、それがけあらしと向き合うとき、肉体とけあらしが融合し、一体になる。あるいは入れ代わる。区別がつかなくなる。つまり、「一体」になる。
 この瞬間を「忘れないで」と、「幼いあなた」に三角はいうのだけれど、それは同時に三角も忘れないということ。「幼いあなた」「けあらし」「わたし(三角)」が「一体」になっている。
 この瞬間は、ある意味では「目覚め」である。「肉体」が新しく生まれ変わることである。だからこそ、詩は「目覚めて」ということばを含んだ連へと展開する。
 「骨格をあらわした白樺」は、新しく生まれ変わった「幼いあなた/わたし」であり、そこから動き始めることばは「沈黙(語られないことば)」である。詩が、生まれるのだ。
 三角の詩では、「肉体」がすばやく動き、「肉体」であることをやめる。新しい「いのち」へと生まれ変わる。そこに「停滞」とか「矛盾」がない。「加速」と「超越」がある。
 松尾の詩は、「沈滞」を描いているから、同じようにはとらえることはできないということかもしれないが、「頭」が「肉体」を押さえつけている感じがする。三角のように、「考察(頭を動かすこと)」をやめてしまえばいいのになあ、と私は思う。





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