116 葬儀
死者の魂は彼らには まるで無関心
最後列に立つ人びとに立ちまじり
不思議そうに 儀式の進行を見守る
「彼ら」とは「葬儀を仕切る人たち」。
私はいつも「魂」ということばに戸惑う。私は「魂」ということばは知っているが、それが存在しているのかどうか知らない。だから、感想も、実は、どう書いていいのかわからない。
「見守る」という動詞を手がかりにすれば、高橋の「魂」には「目」がある。そして、それは「目」で考えるのだろう。「不思議そうに」ということばがあるから。
このあと、詩は、とても美しい展開をする。
たぶん生と同じく 死もまた遊び
生きる者にとっても 死んだ者にも
これは「魂」から見れば、ということだろう。
「魂」には生も死も同じ。「遊び」。
「遊び」とはなんだろう。「遊ぶ」とは、どういうことだろう。たぶん「目的」にしばられずに、ということだろうなあ。「目的」というものはあったとしても、仮のもの。それは、何かをするための「方便」だ。ほんとうは「遊ぶ」が「目的」で、「個別の遊び」は「手段」なのだろう。
で、ここから、私はこんなことを考える。
では、人間から見れば「魂」とは何? それはやはり「遊び」なのではないか。何かから自由になるための「目的」なのではないだろうか。あるいは「方便」なのではないだろうか。自由にことばを動かすための「方便」として「魂」ということばがある。考えるための「手段」、ことばを動かすための「手段」。
、これなら、わかるなあ。
こういう「魂」なら、あってもかまわない、と思う。
でも、ふつう、人はそんなふうには考えていないだろうなあ。
高橋はどうなのかな?
私は、熱心な高橋の読者とは言えないので、高橋がどんなふうに「魂」ということばを使ってきているか、知らない。