詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外23)Lucianoの作品

2018-11-10 09:23:15 | estoy loco por espana




ルシアーノ Luciano González Diaz の作品は、バランスの感覚を思い出させる。
私は、どんなバランスを生きているのか、と。
象徴は、意味に転化する。
ルシアーノの作品は「抽象」ではないが、「意味」を呼び込む力が強いので、抽象的、あるいは象徴的な印象が強い。

紹介されている作品のなかでは、梯子から伸びた棒の上を歩く男がいちばん印象的だ。
夢の中に迷い込んだような錯覚に陥る。
バランスを崩せば落ちる。
歩きつづけても落ちる。
でも、歩くしかない。

El trabajo de Luciano me recuerda el sentido del equilibrio.
Me pregunto qué equilibrio estoy viviendo.
Los símbolos se convierten en significados.
Aunque el trabajo de Luciano no es "abstracto", tiene una gran capacidad para atraer "significado", por lo que tiene una fuerte impresión abstracta o simbólica.

Entre los trabajos que se están presentando, el hombre que camina en el palo que se extiende desde la escalera es el más impresionante.
Caigo en una ilusión como si me perdiera en mi sueño.
Si pierdo el equilibrio caeré.
Incluso si sigo caminando, me caeré.
Pero no tengo más remedio que caminar.

Tal vez estoy soñando con el placer de caer.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(125)

2018-11-10 08:06:59 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
125  ジャコメティの歩く人

 ジャコメティとギリシアは関係があるのだろうか。ジャコメティはギリシアから学んだのだろうか。

考えたあげく 表情も筋肉も殺ぎに殺ぎ 歩く人の線だけになり
ついには動きの気配だけになるだろう それが二千六百年前の
古拙と呼ばれる最初の笑み 最初の踏み出しの含んでいたもの

 「動きの気配」の「気配」を「精神」と読み直してみたい。ギリシアの彫刻には「気配」というよりも「精神」を感じる。「集中力」と言ってもいい。
 ジャコメティの彫刻はどうか。私はあまりジャコメティの彫刻を知らない。だから、いいかげんなことを書くしかないのだが、「殺ぎに殺ぎ」の果てに残るのは、やはり「精神」ではないのか。もちろん「肉体」とは違って、そんなものは「ない」と言うこともできるだろう。しかし、「肉体」をつらぬく「何か」、完全に「殺ぐ」寸前に「残っている」と感じられる(錯覚することができる)ものがあるとすれば「精神」と呼んでもいいような気がする。
 「考えたあげく(花冠が得る)」は、その出発点である。「考える」という動詞が最後まで動き、その動きが残る。
 一方、「気配」は、どうか。私は「肉体」の内部にあるものとは思わない。「肉体」の外にあるのが「気配」、「肉体」からはみ出して動いているのが「気配」と感じる。「気配」を追い掛けて「肉体」が動く。
 「精神」が内部から「肉体」を動かすのに対し、「気配」は「肉体」を外から誘っている。

 高橋は、違う、と言うだろう。
 それは、しかし、仕方のないことだ。
 書いた人と、読んだ人が「ことば」のなかで必ず一致しなければならないということもないだろう。

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