小川三郎『あかむらさき』(七月堂、2018年10月20日発行)
小川三郎『あかむらさき』。「下着」。
「ほんとうのこと」とは何だろうか。まだ、わからない。しかし、「ほんとうのこと」が「怖い」というのは、わかる。だれかに嘘をついた。それが、ばれると、まずい。「怖い」というようなことを含めて、眠ろうとして眠れない夜を過ごすということは、誰にでもあることかもしれない。
詩は、こうつづく。
私は、この連を、思わず線で囲んだ。
これは、なんだろう。
「時間」は「行ったり来たり」するものだろうか。もっぱら「行ったまま帰って来ない」もの、流れすぎるものと考えられていると思う。だから、ここで一瞬つまずくのだが、先の「ほんとうのこと」を結びつけると、「行ったり来たり」は「ほんとうのこと」のような気がする。たとえば、必死になってついた嘘。「ばれるだろうか、いやばれないさ、大丈夫、しかし心配だ」。「思い」は「行ったり来たり」する。それが「時間」のなかで繰り返される。「行ったり来たり」というよりも、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりかもしれない。どちらにしろ「まっすぐ」に目的地には行かない。どこにもたどりつけず、むだに(?)時間が過ぎていく。
しかし、そういうときも「下着は少しずつ/乾いていった。」
「私(小川)」が生きているときの、小川の感情の時間とは別の時間があって、そこでは「もの」は「もの」の時間を生きている。
「少しずつ/乾いていった」とはいうものの、小川は、その「少しずつ」を実際に確かめたわけではないだろう。一分おきに手で触って確かめたわけではないだろう。しかし「少しずつ」と整えて言う。「頭」で何かを理解している。
「頭」で理解していることと、「感情」が感じていること、感情にはわかっていることとのあいだには、何か、ずれのようなものがある。
それが「怖い」のか。
「当たり前」。部屋の外を夜が包んでいる、は当たり前。しかし、これも「頭」で考えたことである。下着が少しずつ乾いていく、というのと同じである。
やっぱり、下着が少しずつ乾いていくということが怖いのだ。
下着が乾いてゆくのは「当たり前」のことだが。
詩は、こうしめくくられる。
「私は下着ではない。/私は下着にはなれない。」は「事実(客観)」のようだが、「客観/事実」というのは、不思議である。「事実/客観」がどうであれ、ことばは「私は下着になる」と言うことができる。「想像」を「捏造」することができる。そういう「ことば」が成り立ちうるのなら、「事実」の方が「ことば」の方へ向かって変形してしまうということもあるかもしれない。絶対に不可能なのならば、「ことば」はなぜ、そういう動きをすることができるのか、それが大問題になる。
「ない」が「ある」ということを発見した(?)のはギリシャ人だが、「ことば」というのは、何か非常に矛盾したものなのだ。「ことば」がないと考えられないのに、「ことば」があるから間違えるということも起きる。
鴨居の下にぶら下がっているのは、もう下着ではなく、「私」だ。
「ことば」を動かすと、「私」は「私」ではなく、「ことばが描くもの」になってしまう。
「穴」という作品も、怖い。
「しばらく考えたら」が興味深い。「下着」の「少しずつ」に通じるが、ここには「時間の幅」がある。
小川は「時間の一瞬」にことばを凝縮させるのではなく、「時間の幅」のなかにことばがひろがっていくのに身を任せる。いや、ことばをつかって「時間の幅」を広げていく。「この瞬間」でも、それは「瞬間」ではなく、こんなに「幅」がある。ここには、こんなものが隠れていると、ゆっくり動く。しかも、それを「ある」という「現在形」ではなく「あった」と「過去形」で語る。そうすることで、「時間の幅」がさらに別の時間からながめられることになり、妙な「客観」というものが生まれる。「現在形」は「主観」がつよく動く。「過去形」にも「主観」はあるのだが、すでに「終わった」(客観になった)という感じがする。
で、この作品の最後。
突然、「現在形」になって、終わる。
静かな不気味さがある。生きていることの、不気味さだ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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小川三郎『あかむらさき』。「下着」。
濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。
私はそれを
一晩中見つめていた。
私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。
「ほんとうのこと」とは何だろうか。まだ、わからない。しかし、「ほんとうのこと」が「怖い」というのは、わかる。だれかに嘘をついた。それが、ばれると、まずい。「怖い」というようなことを含めて、眠ろうとして眠れない夜を過ごすということは、誰にでもあることかもしれない。
詩は、こうつづく。
真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は少しずつ
乾いていった。
私は、この連を、思わず線で囲んだ。
これは、なんだろう。
「時間」は「行ったり来たり」するものだろうか。もっぱら「行ったまま帰って来ない」もの、流れすぎるものと考えられていると思う。だから、ここで一瞬つまずくのだが、先の「ほんとうのこと」を結びつけると、「行ったり来たり」は「ほんとうのこと」のような気がする。たとえば、必死になってついた嘘。「ばれるだろうか、いやばれないさ、大丈夫、しかし心配だ」。「思い」は「行ったり来たり」する。それが「時間」のなかで繰り返される。「行ったり来たり」というよりも、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりかもしれない。どちらにしろ「まっすぐ」に目的地には行かない。どこにもたどりつけず、むだに(?)時間が過ぎていく。
しかし、そういうときも「下着は少しずつ/乾いていった。」
「私(小川)」が生きているときの、小川の感情の時間とは別の時間があって、そこでは「もの」は「もの」の時間を生きている。
「少しずつ/乾いていった」とはいうものの、小川は、その「少しずつ」を実際に確かめたわけではないだろう。一分おきに手で触って確かめたわけではないだろう。しかし「少しずつ」と整えて言う。「頭」で何かを理解している。
「頭」で理解していることと、「感情」が感じていること、感情にはわかっていることとのあいだには、何か、ずれのようなものがある。
それが「怖い」のか。
部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。
「当たり前」。部屋の外を夜が包んでいる、は当たり前。しかし、これも「頭」で考えたことである。下着が少しずつ乾いていく、というのと同じである。
やっぱり、下着が少しずつ乾いていくということが怖いのだ。
下着が乾いてゆくのは「当たり前」のことだが。
詩は、こうしめくくられる。
私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。
下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。
「私は下着ではない。/私は下着にはなれない。」は「事実(客観)」のようだが、「客観/事実」というのは、不思議である。「事実/客観」がどうであれ、ことばは「私は下着になる」と言うことができる。「想像」を「捏造」することができる。そういう「ことば」が成り立ちうるのなら、「事実」の方が「ことば」の方へ向かって変形してしまうということもあるかもしれない。絶対に不可能なのならば、「ことば」はなぜ、そういう動きをすることができるのか、それが大問題になる。
「ない」が「ある」ということを発見した(?)のはギリシャ人だが、「ことば」というのは、何か非常に矛盾したものなのだ。「ことば」がないと考えられないのに、「ことば」があるから間違えるということも起きる。
鴨居の下にぶら下がっているのは、もう下着ではなく、「私」だ。
「ことば」を動かすと、「私」は「私」ではなく、「ことばが描くもの」になってしまう。
「穴」という作品も、怖い。
底にはなにもないのであった。
なんど見なおしてみても
底にはなにもないのであったし
もちろん
誰もいないのであった。
だから私は
思い切って穴に入り
その底に立ってみたのであった。
入ってみると見た目に反して
恐ろしく深い穴なのであった。
穴の底には
穴以外は空しかなかった。
ここはもしかすると私が
ずっと来たかった場所ではなかったろうかと
しばらく考えたが
どうやらそうであるらしかった。
「しばらく考えたら」が興味深い。「下着」の「少しずつ」に通じるが、ここには「時間の幅」がある。
小川は「時間の一瞬」にことばを凝縮させるのではなく、「時間の幅」のなかにことばがひろがっていくのに身を任せる。いや、ことばをつかって「時間の幅」を広げていく。「この瞬間」でも、それは「瞬間」ではなく、こんなに「幅」がある。ここには、こんなものが隠れていると、ゆっくり動く。しかも、それを「ある」という「現在形」ではなく「あった」と「過去形」で語る。そうすることで、「時間の幅」がさらに別の時間からながめられることになり、妙な「客観」というものが生まれる。「現在形」は「主観」がつよく動く。「過去形」にも「主観」はあるのだが、すでに「終わった」(客観になった)という感じがする。
で、この作品の最後。
いまはただ穴の中だ。
穴と私と
空だけなのだ。
突然、「現在形」になって、終わる。
静かな不気味さがある。生きていることの、不気味さだ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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