詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎『あかむらさき』

2018-11-02 11:46:41 | 詩集
小川三郎『あかむらさき』(七月堂、2018年10月20日発行)

 小川三郎『あかむらさき』。「下着」。

濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。

私はそれを
一晩中見つめていた。

私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。

 「ほんとうのこと」とは何だろうか。まだ、わからない。しかし、「ほんとうのこと」が「怖い」というのは、わかる。だれかに嘘をついた。それが、ばれると、まずい。「怖い」というようなことを含めて、眠ろうとして眠れない夜を過ごすということは、誰にでもあることかもしれない。
 詩は、こうつづく。

真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は少しずつ
乾いていった。

 私は、この連を、思わず線で囲んだ。
 これは、なんだろう。
 「時間」は「行ったり来たり」するものだろうか。もっぱら「行ったまま帰って来ない」もの、流れすぎるものと考えられていると思う。だから、ここで一瞬つまずくのだが、先の「ほんとうのこと」を結びつけると、「行ったり来たり」は「ほんとうのこと」のような気がする。たとえば、必死になってついた嘘。「ばれるだろうか、いやばれないさ、大丈夫、しかし心配だ」。「思い」は「行ったり来たり」する。それが「時間」のなかで繰り返される。「行ったり来たり」というよりも、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりかもしれない。どちらにしろ「まっすぐ」に目的地には行かない。どこにもたどりつけず、むだに(?)時間が過ぎていく。
 しかし、そういうときも「下着は少しずつ/乾いていった。」
 「私(小川)」が生きているときの、小川の感情の時間とは別の時間があって、そこでは「もの」は「もの」の時間を生きている。
 「少しずつ/乾いていった」とはいうものの、小川は、その「少しずつ」を実際に確かめたわけではないだろう。一分おきに手で触って確かめたわけではないだろう。しかし「少しずつ」と整えて言う。「頭」で何かを理解している。
 「頭」で理解していることと、「感情」が感じていること、感情にはわかっていることとのあいだには、何か、ずれのようなものがある。
 それが「怖い」のか。

部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。

 「当たり前」。部屋の外を夜が包んでいる、は当たり前。しかし、これも「頭」で考えたことである。下着が少しずつ乾いていく、というのと同じである。
 やっぱり、下着が少しずつ乾いていくということが怖いのだ。
 下着が乾いてゆくのは「当たり前」のことだが。
 詩は、こうしめくくられる。

私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。

下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「私は下着ではない。/私は下着にはなれない。」は「事実(客観)」のようだが、「客観/事実」というのは、不思議である。「事実/客観」がどうであれ、ことばは「私は下着になる」と言うことができる。「想像」を「捏造」することができる。そういう「ことば」が成り立ちうるのなら、「事実」の方が「ことば」の方へ向かって変形してしまうということもあるかもしれない。絶対に不可能なのならば、「ことば」はなぜ、そういう動きをすることができるのか、それが大問題になる。
 「ない」が「ある」ということを発見した(?)のはギリシャ人だが、「ことば」というのは、何か非常に矛盾したものなのだ。「ことば」がないと考えられないのに、「ことば」があるから間違えるということも起きる。
 鴨居の下にぶら下がっているのは、もう下着ではなく、「私」だ。
 「ことば」を動かすと、「私」は「私」ではなく、「ことばが描くもの」になってしまう。

 「穴」という作品も、怖い。

底にはなにもないのであった。
なんど見なおしてみても
底にはなにもないのであったし
もちろん
誰もいないのであった。

だから私は
思い切って穴に入り
その底に立ってみたのであった。
入ってみると見た目に反して
恐ろしく深い穴なのであった。

穴の底には
穴以外は空しかなかった。
ここはもしかすると私が
ずっと来たかった場所ではなかったろうかと
しばらく考えたが
どうやらそうであるらしかった。

 「しばらく考えたら」が興味深い。「下着」の「少しずつ」に通じるが、ここには「時間の幅」がある。
 小川は「時間の一瞬」にことばを凝縮させるのではなく、「時間の幅」のなかにことばがひろがっていくのに身を任せる。いや、ことばをつかって「時間の幅」を広げていく。「この瞬間」でも、それは「瞬間」ではなく、こんなに「幅」がある。ここには、こんなものが隠れていると、ゆっくり動く。しかも、それを「ある」という「現在形」ではなく「あった」と「過去形」で語る。そうすることで、「時間の幅」がさらに別の時間からながめられることになり、妙な「客観」というものが生まれる。「現在形」は「主観」がつよく動く。「過去形」にも「主観」はあるのだが、すでに「終わった」(客観になった)という感じがする。
 で、この作品の最後。

いまはただ穴の中だ。
穴と私と
空だけなのだ。

 突然、「現在形」になって、終わる。
 静かな不気味さがある。生きていることの、不気味さだ。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(117)

2018-11-02 10:05:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
117  遁れむ いずこに

ギリシア人はホメロスのほか ほとんど読まなかった
素で考え 素で詩をつくり 堂堂としていた
天空はひたすら青く 百千鳥は酔い痴れたりせず
ひたすら 餌をさがし 伴侶を求め
子を育て 死んでいった 疑いも知らず

 「素で」は「ひたすら」と言い換えられている。「素で」が二回つかわれるなら、「ひたすら」も二回つかって言いなおす。ここに、「まっすぐ」な何かが生まれてくる。
 書かれていないが「死んでいった」の前にも、私は「ひたすら」を補う。
 そのあとで、「ひたすら」は「疑いもせず」とさらに言いなおされる。
 これは先に出てきた「堂堂としていた」を言いなおしたものだとわかる。

 見つめているのは、「死」である。「生」が「死」と同じである、と見つめているのだ。
 「死」が何であるか、誰も知らない。「他人の死」は知っているが、自分の死はどういうものか、知っている人はいない。同様に、「自分の生」を知っている人はいない。日々、発見し、ひたすらに生きるしかない。

 さて。
 「疑いも知らず」と高橋は書いているが、ギリシア人のひとり、ソクラテスは「ひたすら」疑った。疑って、疑って、疑って、「知らない」ということにたどりついた。そして、死んでいった。
 ソクラテスは何も知らない。だから何にも頼らずに「素で」考えた。考えて、考えて、考えて死んでいった。
 あ、ソクラテスは「考える」ということについて、疑いを持つことを知らなかったということか。「ひたすら考える」とき、ソクラテスは「ひたすら」ということ、「素」であることを信じていたのか。

 私は「ひたすら」死ぬことができるだろうか。
 「素で」死ぬことができるだろうか。
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