高校時代の同級生の作品を尋ね歩いてみた。
私は木に携わる仕事をしてみたかった。しかし、高校に入って実際に木に向き合ってみて気づいた。私の「立体感覚」は同級生に比べて格段に劣る。机の引き出し、つまり「箱」さえ正確な形にならない。立体をつくることに向いていない。
就職先もなく、大学へ進学しようかな、でも木の仕事もしたい。そう思っていたとき、県美術展で大丸晃世(勉)の作品を見た。男の頭。コンクリート製。圧倒された。私にはやっぱり立体はつくれない。夢は完全にあきらめた。
その作品をもういちど見たかったが、大丸は持っていなかった。美術館にある。他の写真でしか見たことのない作品も、美術館か個人の所蔵。自宅と工房にあるのは、完成直後か作りかけのもの。いわば、まだ誰も見ていない作品。それを紹介する。

「揺光」という作品。
手前には水草(菖蒲のようなもの。名前を聞いたが忘れてしまった)。背後が波。光が反射している。写真ではわかりにくいのだが、波のなかにそれぞれ水紋がある。つまり、光の変化がある。その変化は光の揺れである。水草は、その光の揺れを隠すように、まっすぐに直立している。しかし見ていると、水草の背後に揺れている光が、水草を黒い部分のなかにも見えてくる。隠しているもの(水草)と隠されているもの(水紋/光)が交錯し、入れ代わるような感じ。一体になって、「宇宙」になる。平面作品と呼んでいいのだと思うが、「平面」ではなく「空間」が広がる。

改めて「水紋」を見る。とても細かい変化だ。手が非常に込んでいる。しかし、スピード感がある。水の揺らぎは、私のような目の悪い人間には再現できない。動きが速すぎて、どういう形をしていたか、どういう色がそこにあったのか、はっきりとはわからない。揺らいでいた、光っていた、とことばにするだけだ。大丸は、その変化を確実にとらえている。光の変化よりも、大丸の視力の方が速い。手の動きの方が速い。手のスピード、正確な強さが揺れる光をつくりだしている。
水草も繊細だ。輪郭部のこまかな線は、水草の揺れか、厚みか。揺れだと仮定してみる。不思議なことに、その「揺れ」によって、水草の直線の強さがさらに強くなっていると感じる。剛直さと繊細さが同居している。

鹿と森か、鹿と草原か。背後の模様が何を表しているのかわからないが、わからないことが魅力だ。突然、鹿を目撃する。あ、鹿がいる。そう思うとき、私は森も見ていないし、草原も見ていない。まるで「異界」から鹿があらわれ、いまいる世界(森、草原)を異界そのものに変えてしまったかのよう。「芸術」の瞬間というか、美に触れた瞬間というのは、これに似ている。すべてを理解するわけではない。何かに驚く。驚いて、自分の知っていることが壊され、壊されることで、もう一度生まれ変わる。「あ、鹿だ」と叫ぶ瞬間。それから鹿が二頭いる。楽しそうだ、と感じる。その楽しいは、鹿の楽しさであり、また私の楽しさだ。私はまだ生きているんだなあ、と感じる喜びと言いなおしてもいい。これ、いいなあ、これ、ほしいなあ、と思う。「欲望」が生まれてくる。

海の上を飛んで行く鶴。高い空を飛んで行く鶴、かもしれない。(これは写真で知った。実際には見ていない。)
鶴は鶴の背後の波、あるいは空(雲、光の変化)を隠している。しかし、鶴が動くと、その鶴のいた空間を波、光がすばやく埋める。水草と揺れる光の関係に似ている。世界の広がり方は、「揺光」よりも広く、その広さは拡大していく広さである。鶴が飛ぶからだろう。鶴の動きが世界を広げていく。
二頭の鹿の作品に似ていいるかもしれない。二頭の存在が、動きを誘い合う。呼応が音楽を生み出す。

大丸が住んでいる庄川は井波の近く。井波は欄間で有名だ。大丸も依頼を受けて欄間をつくっていた。松。凝縮と解放のバランス、リズムが強烈だ。幹、節の感じから判断すれば、この松は老木なのだが、力がみなぎっている。葉っぱの先まで、力が動いている。「枠」をはみ出して生きていこうとしている。この躍動が、とても自然だ。
「揺光」について書いたときも触れたが、手が速いのだ。揺るぎ、ためらいがない、と言い換えてもいい。「肉体」が覚えている。木を覚えているし、見たものも覚えている。覚えているものを育てるようにして、手が動いている。




ひな人形、天神様もつくっていた。(完成した天神様は、提供写真)
こうした作品にも、スピード感を感じる。つくりたい形を大丸は確信している。どこに、どうノミをあてれば、木はどう変化するかを熟知している。
ひな人形は彩色されている。それも大丸の手によるものである。着ている服、その色と模様も美しいが、私は人形の目に引きつけられた。とても澄んだ目をしている。人のつくるものは、つくった人に似るというが、人形の目は大丸の目と同じように、ここにあるものを超えて、その遠くにあるものをしっかりと見つめている。
天神様については、大丸は「厳しい顔の天神様をつくりたい」と言っていた。写真の天神様は、まだ柔和かもしれない。顔の「ノミ痕」が菅原道真の厳しさをあらわしているかもしれない。
この作品にもスピードを感じた。スピードが、作品に「生きている」という感じを生み出している。「飾り物」ではなく、生きている存在。生きていると感じさせるものが、芸術なのだろう。






大丸の工房は合掌造りを解体、移築したもの。天井が高く、いろりがある。いろりには炭。昼間だったので、灰でつつみ、火を守っている。
無農薬でコメをつくり、柚子もネギもつくっている。
どこにそんなに時間があるのだろうと思うけれど、すべてのことが「肉体」にしみついていて、確実なのだろう。知っていること、確信していることを、確信しているままに実行する。
そういう強さが、いたるところにあふれている。

私は木に携わる仕事をしてみたかった。しかし、高校に入って実際に木に向き合ってみて気づいた。私の「立体感覚」は同級生に比べて格段に劣る。机の引き出し、つまり「箱」さえ正確な形にならない。立体をつくることに向いていない。
就職先もなく、大学へ進学しようかな、でも木の仕事もしたい。そう思っていたとき、県美術展で大丸晃世(勉)の作品を見た。男の頭。コンクリート製。圧倒された。私にはやっぱり立体はつくれない。夢は完全にあきらめた。
その作品をもういちど見たかったが、大丸は持っていなかった。美術館にある。他の写真でしか見たことのない作品も、美術館か個人の所蔵。自宅と工房にあるのは、完成直後か作りかけのもの。いわば、まだ誰も見ていない作品。それを紹介する。

「揺光」という作品。
手前には水草(菖蒲のようなもの。名前を聞いたが忘れてしまった)。背後が波。光が反射している。写真ではわかりにくいのだが、波のなかにそれぞれ水紋がある。つまり、光の変化がある。その変化は光の揺れである。水草は、その光の揺れを隠すように、まっすぐに直立している。しかし見ていると、水草の背後に揺れている光が、水草を黒い部分のなかにも見えてくる。隠しているもの(水草)と隠されているもの(水紋/光)が交錯し、入れ代わるような感じ。一体になって、「宇宙」になる。平面作品と呼んでいいのだと思うが、「平面」ではなく「空間」が広がる。

改めて「水紋」を見る。とても細かい変化だ。手が非常に込んでいる。しかし、スピード感がある。水の揺らぎは、私のような目の悪い人間には再現できない。動きが速すぎて、どういう形をしていたか、どういう色がそこにあったのか、はっきりとはわからない。揺らいでいた、光っていた、とことばにするだけだ。大丸は、その変化を確実にとらえている。光の変化よりも、大丸の視力の方が速い。手の動きの方が速い。手のスピード、正確な強さが揺れる光をつくりだしている。
水草も繊細だ。輪郭部のこまかな線は、水草の揺れか、厚みか。揺れだと仮定してみる。不思議なことに、その「揺れ」によって、水草の直線の強さがさらに強くなっていると感じる。剛直さと繊細さが同居している。

鹿と森か、鹿と草原か。背後の模様が何を表しているのかわからないが、わからないことが魅力だ。突然、鹿を目撃する。あ、鹿がいる。そう思うとき、私は森も見ていないし、草原も見ていない。まるで「異界」から鹿があらわれ、いまいる世界(森、草原)を異界そのものに変えてしまったかのよう。「芸術」の瞬間というか、美に触れた瞬間というのは、これに似ている。すべてを理解するわけではない。何かに驚く。驚いて、自分の知っていることが壊され、壊されることで、もう一度生まれ変わる。「あ、鹿だ」と叫ぶ瞬間。それから鹿が二頭いる。楽しそうだ、と感じる。その楽しいは、鹿の楽しさであり、また私の楽しさだ。私はまだ生きているんだなあ、と感じる喜びと言いなおしてもいい。これ、いいなあ、これ、ほしいなあ、と思う。「欲望」が生まれてくる。

海の上を飛んで行く鶴。高い空を飛んで行く鶴、かもしれない。(これは写真で知った。実際には見ていない。)
鶴は鶴の背後の波、あるいは空(雲、光の変化)を隠している。しかし、鶴が動くと、その鶴のいた空間を波、光がすばやく埋める。水草と揺れる光の関係に似ている。世界の広がり方は、「揺光」よりも広く、その広さは拡大していく広さである。鶴が飛ぶからだろう。鶴の動きが世界を広げていく。
二頭の鹿の作品に似ていいるかもしれない。二頭の存在が、動きを誘い合う。呼応が音楽を生み出す。

大丸が住んでいる庄川は井波の近く。井波は欄間で有名だ。大丸も依頼を受けて欄間をつくっていた。松。凝縮と解放のバランス、リズムが強烈だ。幹、節の感じから判断すれば、この松は老木なのだが、力がみなぎっている。葉っぱの先まで、力が動いている。「枠」をはみ出して生きていこうとしている。この躍動が、とても自然だ。
「揺光」について書いたときも触れたが、手が速いのだ。揺るぎ、ためらいがない、と言い換えてもいい。「肉体」が覚えている。木を覚えているし、見たものも覚えている。覚えているものを育てるようにして、手が動いている。




ひな人形、天神様もつくっていた。(完成した天神様は、提供写真)
こうした作品にも、スピード感を感じる。つくりたい形を大丸は確信している。どこに、どうノミをあてれば、木はどう変化するかを熟知している。
ひな人形は彩色されている。それも大丸の手によるものである。着ている服、その色と模様も美しいが、私は人形の目に引きつけられた。とても澄んだ目をしている。人のつくるものは、つくった人に似るというが、人形の目は大丸の目と同じように、ここにあるものを超えて、その遠くにあるものをしっかりと見つめている。
天神様については、大丸は「厳しい顔の天神様をつくりたい」と言っていた。写真の天神様は、まだ柔和かもしれない。顔の「ノミ痕」が菅原道真の厳しさをあらわしているかもしれない。
この作品にもスピードを感じた。スピードが、作品に「生きている」という感じを生み出している。「飾り物」ではなく、生きている存在。生きていると感じさせるものが、芸術なのだろう。






大丸の工房は合掌造りを解体、移築したもの。天井が高く、いろりがある。いろりには炭。昼間だったので、灰でつつみ、火を守っている。
無農薬でコメをつくり、柚子もネギもつくっている。
どこにそんなに時間があるのだろうと思うけれど、すべてのことが「肉体」にしみついていて、確実なのだろう。知っていること、確信していることを、確信しているままに実行する。
そういう強さが、いたるところにあふれている。
