詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外27)

2018-11-23 12:15:37 | estoy loco por espana


Miguel González Díazの作品。
この作品は、木と出会うことで表情が変わった。
背景が空間だったときは、現代人の不安を感じさせた。
木と出会うことで、そこに不条理が加わった。
不安をつくりだしているのは人間(ブロンズ)ではない。
人間(ブロンズ)ではない何か(木)が、ことばにならない接続と切断を迫っている。

Obra de Miguel González Díaz.
La expresión facial de este trabajo cambió al encontrarse con un árbol.
Cuando el fondo era espacio, sentí ansiedad por la gente moderna.
Al encontrar árboles, allí había un absurdo.
No es un ser humano (bronce) que crea ansiedad.
Algo (árbol o madera) que no es humano (bronce) está presionando para una conexión y desconexión indescriptibles.


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志村喜代子『後の淵』

2018-11-23 12:02:43 | 詩集
志村喜代子『後の淵』(水仁舎、2018年08月16日発行)

 志村喜代子『後の淵』は、凝縮度の高いことばで構成されている。「凝らす」という作品の全行。

いちぶ始終を 見たい

土ふまずに音は こぼれ
のんどは声をしたたらせ
地獄耳 生え

狂おしきひとあり

凝らすあまり
眼球 落ち
耳 枯れ
冴え
されこうべ
をして なお

這いすがる愛着
ひばばの ははの また母の はるかより
ゆずり受け

いちぶ始終を 見たい

 何の「いちぶ始終」か。「されこうべ」を手がかりにすると、ひとの一生のすべてということになるかもしれない。だれの一生か。「這いすがる愛着」のあとに、女系の祖先がつらなる。おんな(志村自身)の一生か、おんなの連れ合いの一生か。たぶん、連れ合いの一生のすべてを見たいということなのだろうが、連れ合いの一生を見るということは自分自身の一生を見るということでもある。
 それは分離できない。知らない(知らなかった)部分を含めて、それは「連れ合って」生きてきたのだから。分離できないから「狂おしい」のである。
 この作品では、二連目が、特に印象的だ。「土ふまず」は土を踏まないところ。何かを踏みつぶし、踏みつぶしたものが音を立てるとしても、土踏まずはそれを踏んでいない。あるいは、そこに「空隙」があるから、そこから音はこぼれるのか。足裏の暴力を伝えるために土踏まずはあるのか。「のど」ではなく「のんど」と書いているのも「神話」のような強さを感じさせる。「のんど」というとき「ん」の音が肉体の中に残される。声を滴らせながら、声を「肉体の内部」にも滴らせる。何かしら、矛盾した動きが隠れている。それがことばを強くしている。
 四連目の「冴え」が「されこうべ」へと動いていく音にも強さがある。「されこうべ」は「さえこうべ」と聞こえてしまう。「冴える」は「透明になる」という感じにもつながる。髑髏は、肉が透明になったら見ることができる。そういうことは書いていないのだが、書いていないことを「誤読」してしまう。
 私は、こういう「誤読」を誘うことばが好きだ。「意味」は「誤読」のなかでひろがっていく。

 「夜叉」も強い。

生まれた日を
何十回くり返したら
あした澄むのか
雲ま厚く
ぱたぱた雨がくる

 「雨がくる」は言われたら意味がわかるが、ふつうは、言わない。「雨が降る」というのが一般的だが、その一般的でないところに、ため込んだ力を感じる。何か言いたいことがある。それは力をためる、あるいはたわめないことにはことばにならない。そういうことを感じさせる。
 「あした澄む」の「澄む」も同じだ。あしたは晴れ渡るのか、晴々とした気持ちになれるのか。そういう「意味」だと思うが、「晴れる」ということばをつかわずに、「澄む」ということばのなかにあるものを突き動かそうとしているところに、志村自身が抱え込んでいる「澄んでいないもの」を感じさせる。

秋の風立ち 生き返す穂の波音
葉脈にあふれ土にしむ
ひそやかな しぶき
末期をこえ生きのこるという耳は
海鳴りをたずさえ
ふれあった声をつれ
摺り足で橋をわたる

 その橋は、渡ってはいけない橋である。そうわかって、その橋を渡る。「生き返す」「末期をこえ」「生き残る」は、その対極に「死」があることを語る。ことばは、それが指し示すものだけではなく、それが指し示さなかったもの、指し示すことを拒んだものをより強く出現させることがある。「意味」とはことばの延長線上にあるだけではない。そのことばが生まれてきた場(出発点)よりも「過去」をも同時に暗示してしまう。そして、その「暗示」のなかには、表面上の「意味」以上のものが動いている。

季(とき)は菩提樹
散華のはちす
には 母の陣痛(いたみ)を記せない

産まぬ契り
うまん うましめん
流し棄てた頭蓋
血の干潟には
洪水さえとどかない

新月のほねに
熱(いき)れる夜叉 あした
生き直せるか

 妊娠したが出産はしなかった。「母」になるのではなく、「おんな」を、「性」を生きようとしたことが「夜叉」なのか。
 簡単には言えない。
 こういうことも簡単に言ってしまってはいけないのだとおもうが、志村は「おんなの神話」を書こうとしている。「神話」によって「夜叉」を生きることを選んでいる。それが生まれなかった子供を生きることだと言っているように感じられる。
 私は、そう「誤読」したい。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(138)

2018-11-23 10:26:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
138  蝉の夏 田原に

 中国では、脱皮する前の蝉を食べる--という話を高橋は田原から聞いたらしい。そこからこんな具合にことばを動かしている。

土から出て幹を登る蝉を採り 袋に入れる
母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ
五十歳の君の中には いまも何百匹何千匹が
脱皮前の異形で 上へ 下へ 這いまわっている
君の中の無数の沈黙を脱皮させ 飛び立たせてやれ
存分に鳴かせてやれ それが彼らと君の夏の完成

 「無数の沈黙」と「存分に鳴く」が対比される。その瞬間に夏がなまなましく動き始める。ことばでしかとらえることができない世界が出現する。この「ことばの構図」は完結していて強烈だが、また予定調和の「論理」という感じもする。
 しかし、私にはなんとなくうるさく感じられる。
 私は、そういう「論理」よりも、

母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ

 この一行の「音立てて」が好きだ。蝉が煎られる音なのだが、まるで蝉の鳴き声そのものに聞こえる。
 食べられる前に、蝉はもう存分に鳴いている。それこそ「無数の沈黙」を鳴いている。「脱皮させる」のではなく、「異形のままの無数の沈黙」の「鳴き声」の方がはるかに強烈だ。
 脱皮させてはいけない。
 そういう「論理的な夢」は高橋にまかせておいて、田原には「鉄鍋の音」そのものを書いてもらいたい。
 閻連科は『年月日』でトウモロコシを通して音の神話を描いたが、田原には蝉を主役にもうひとつの神話を書いてもらいたい、と思った。






つい昨日のこと 私のギリシア
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