詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

医療保険の将来(新しい差別制度は、どうやってつくられていくか)

2018-11-07 19:18:27 | 自民党憲法改正草案を読む
医療保険の将来(新しい差別制度は、どうやってつくられていくか)
             自民党憲法改正草案を読む/番外244(情報の読み方)

 2018年11月07日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

医療保険 母国の家族除外/外国人労働者 健保法改正へ/財政負担を抑制

 日本の医療保険制度は、外国人にも適用されている。留学生や労働者も当然保険に加入している。大企業などの健保組合などでは「家族」を被扶養者と認めている。これを除外するというもの。
 現行制度では、母国の家族が病気になって治療を受けたとき、申請すれば、日本の保険が適用される。それができなくなる。
 これは将来、日本人にも適用されるだろうなあ。
 企業は、実際に企業で働いている労働者自身の保険については分担するが、従業員の家族については保険の適用を認めない。きっと、そうなる。家族は「健康保険組合(大企業)」「協会けんぽ(中小企業)」の「被扶養者」から除外される。別個に、国民健康保険に加入しないといけなくなる。

 法改正の目的を、読売新聞は、こう説明している。

 海外に住む外国人家族の医療費を日本側が負担する仕組みを改めることで、日本人労働者が抱く不公平感を解消し、医療保険財政への圧迫を抑える狙いがある。

 でも、ここに書いてある「日本人労働者が抱く不公平感」というのは、どうやって調べたのか。誰かが、外国人労働者の家族に医療保険が適用されるのは、日本人にとって不公平と言ったのか。だいたい、そういうシステムを日本人のいったい何人が知っているといえるだろうか。たぶん、ほとんどの日本人従業員は、そういうことを知らない。知らないから、それが「不公平」であるなどと言うはずがない。
 こういうシステムを知っているのは、健康保険組合や協会けんぽの関係者である。言い換えると、外国人を従業員として雇っている企業である。そこから「要請」があったのだろう。一般の国民が、外国人労働者の家族に保険が適用されるのは不公平だなどと、わざわざ騒いだりするはずがない。少なくとも、そういう問題を一般国民が取り上げて、政府に陳情したというようなことは聞かない。
 だから、これは政府(安倍)と健康保険組合(企業)が結託してつくりだした「ニュース」なのだ。「財政負担を抑制」するという「目的」で合致したものが、つくりだした「ニュース」なのだ。
 そして、この「法改正」が成立すれば、きっと次は、日本人労働者についても、同じことが適用される。実際に労働している従業員には保険を分担する。けれど企業で働いていない家族については、企業責任ではなく「自己責任」で保険を分担しろ、つまり「国民健康保険」に入れ、ということになるだろう。そうすれば大企業の「分担」は軽くなる。

 日本は労働力不足が深刻だ。それを補うには外国人労働者に頼るしかない。それなのに、外国人労働者を「使い捨て」にすることしか考えていない。安い賃金でつかうだけつかって、期限が来たら追い返す。日本に定住する(家族を呼び寄せる)には高いハードルを設定する。家族(家庭)が人間の生き方なのに、外国人には「家族」を認めない。この外国人差別が、やがて日本人差別(分断)につながる。
 「1号資格」の日本人には「家族」を認めない。(家族分の負担、扶養制度を適用しない)、「2号資格」から「家族」を認める、というようなことがきっと始まる。「生産性」の高い労働者は保護するが、「生産性」の低い労働者は保護しない。

 こういう「差別」は、具体的にはなかなか見えてこない。
 しかし、「限界集落」というような呼び方をされる地方の実態をみると、見えない差別が社会を動かしていることがわかる。「生産性」が高いと言われる都会の大企業だけが保護されているから、みんな都会の大企業を目指す。ほそぼそと田畑を守る、里山を守る農業など、だれもしなくなる。
 どういう政策的差別が働いて、日本をこんな形にしてしまったのか。
 それを検証し直すヒントは、きっといま安倍が大企業と結託して進めている「外国人労働者問題」に隠されている。大企業優先の「政策」が、さまざまな差別を助長し、差別を定着させることになる。
 「外国人労働者」の問題は、外国人の問題ではなく、日本そのものの問題だ。

 かつて日本は「金の卵」(中学卒業の労働者)に頼って、高度成長をなし遂げた。しかし、それが実際に成長につながったのは、金の卵を使い捨てにせずに、金の鶏にまで育てる政策をしたからである。
 そのことを思い出すべきである。
 日本に働きにやってきてくれる外国人がいるなら、その外国人を大切にしなければならない。外国人に対する差別をなくすようにしないといけない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(122)

2018-11-07 09:34:32 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
122  恋の詩と読む人 カヴァフィス再読

不思議だ すべて いまは無いこと

 何と美しい響きだろう。
 美しい響きのなかで、「いまは無い」と、なぜわかるのだろうという疑問がわいてくる。過ぎ去った、消えた。「無い」とわかるのは、覚えているからだ。記憶(肉体)のなかには残っているのに、「いまは無い」と言うしかない。
 「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシア哲学だが、この詩の「無い」は哲学的なテーマではないがゆえに、いっそう哲学的だ。

それを見つめる 憧れにひりひり渇いた心とが
しかし 不思議だ そのことをひそかに記した

 「それ」は直前の行に書かれている。あえて、それを省略して引用する。
 「それ」はは何か、人によって違う。しかし、それを「見つめる」ということの方が重要だ。「見つめる」、その結果、こころが「ひりひり渇いた」。見つめたこと、ひりひり渇いたことは過去なのに、いまも「ある」。

言葉の連なりが いまなお生きて 呼吸していて

 ああ、カヴァフィスがいる。そう感じる。
 「無い」ものをめぐって、生きている。「言葉」は「呼吸」である。吸って、吐く。その息に乗って「ことば」が動く。「ことば」というよりも「声」が動く。「肉体」が動く。
 カヴァフィスの詩には、いつも「声/呼吸」が動いている。呼吸が動いている。
 私は中井久夫の訳でカヴァフィスを読んだのだけれど。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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