詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

外国人労働者の問題は日本の低賃金労働者の問題である。

2018-11-08 10:29:13 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人労働者の問題は日本の低賃金労働者の問題である。
             自民党憲法改正草案を読む/番外245(情報の読み方)

 2018年11月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。2面の見出し。

「特定技能1号」/就労期間 永住要件含めず/政府方針 急増懸念に配慮

 見出しだけでは、なんのことかさっぱりわからない。(きっと多くの人も何のことかわからないから、記事を読みとばすだろう。あるいは外国人の問題であって、日本人の問題ではないから、と読みとばすだろう。))
 私の「誤読」が含まれているかもしれないが。簡単にまとめると。
 日本に永住するための「要件」に「継続して10年以上日本に居住」というものがある。外国からの技能実習生は最長5年間日本に居住することができる。この外国人が「特定技能1号」に移行すれば、さらに5年間、つまり合計10年間日本に居住することになる。つまり、現行の「永住要件」を満たすことになる。そうすると、結果的に「永住外国人(移民?)」が増えることになる。
 政府と自民党は、これを心配している。「永住外国人」を増やさないために「特定技能1号」の5年間は、「要件」に含めない、合算しない、ということだ。(研修生の5年間は、「1号資格」が獲得できなければ、その段階で帰国ということになるから、10年の要件は満たすことができない。)
 これでは「1号資格」までは外国人を使い捨てにするということ。「2号資格」をとってから10年で、やっと「永住要件」を満たすことになる。研修生時代から含めると、20年である。20年間、日本のために働けば、しかも「日本語」と「就業分野」の両方の試験に合格すれば、やっと「永住」できる。
 なんとも厳しい「要件」である。

 記事中に、次の文章がある。

日本での永住を認めるかどうかについては、法務省が運用指針を定めている。①素行が善良②独立の生計を営むに足りる資産や技能がある③永住が日本の利益になる--ことなどを満たす必要がある。③に関連し、日本に継続して10年以上住んでいることや、就労資格を5年以上もっている事なども条件となる。

 「③永住が日本の利益になる」というのは、あまりにも自己中心的(日本中心的)な考え方ではないか。
 「研修生」や「1号資格」のひとたちは、日本の利益になっていないのか。安い賃金で働き、こきつかうのは、それが「日本の利益(企業の利益)」だからではないのか。安い賃金でつかえるだけつかって、高い賃金を払う必要が出てきたり、社会保障(きのう書いた医療費の負担)や子供の教育の問題が絡んでくると、「日本の不利になる」というのは、あまりにも人権を無視した考え方である。
 外国人労働者の問題は、「人権問題」として見つめなおさないと、そこで展開される「人権無視」はかならず日本人労働者の労働条件に反映されることになる。「人手不足」といいながら、低賃金でつかえるだけつかって、一定の期間がすぎれば使い捨てということが必ず起きる。
 「無期転換ルール」をめぐっても、すでに「雇い止め」が問題化している。「雇い止め」で切り捨てられるのは、低賃金の労働者である。低賃金であっても、「無期限」で働かれれば、支払う合計賃金は多くなる。そうしないために「雇い止め」が行われるのである。「雇い止め」の対象にされた人は、いままでよりもさらに安い賃金で働かざるを得なくなる。低賃金労働者を生み出すために、「雇い止め」が利用されている。
 外国人労働者の問題は、日本人の労働問題と緊密に連携している。
 日本の労働者は外国人と連携なければならない。「連合」のような「経営者予備軍」は安倍の手先にすぎない。野党は、もっと真剣に外国人労働者の人権問題を取り上げ、そこから日本の労働問題をあぶり出していくべきだ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(123)

2018-11-08 09:13:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
123  セフェリスに

あなたのXA-I-KA-Iは十六句 十七句目は確信犯的欠番

 「確信犯」ということばに高橋の「共感」を読む。共感しなければ「確信犯」ということばをつかわないだろう。
 「確信犯」を高橋は、こう言いなおしている。

共感のしるしとして献げるに十七句 ではなく わざわざ十六句

 「わざわざ」が「確信犯」である。偶然ではなく、仕組んでいる。「わざわざ」はなくても「意味」は通じる。けれど高橋は「わざわざ」と書かずにはいられなかった。
 なぜなのだろう。
 次の最終行 (結論) の一行を書くためだ。

十七句目の沈黙をもって あなたの俳句讃仰を閉じた

 「沈黙」と「閉じる」。
 高橋が「俳諧(俳句)」から読み取っているのは「沈黙」によって「閉じる」世界だ。句の中に「沈黙」があるのか、句の外に「沈黙」があるのか。句の内と外をつなぐものとして「沈黙」があるのか。
 こういうことは「分析」しても始まらない。「論理」というのは、どのようにも展開できる。つまり「結論」などというものは、どのようにも捏造できる。単なることばの運動の「終わり方」にすぎない。

 だから、というのは変な言い方だが。
 先に書いたことを覆すために、私はこう書きたい。「確信犯」は「わざわざ」と言いなおされているが、他のことばでも言いなおされている。それこそがこの詩のポイントだ。
 引用は前後するのだが、三行目はこうである。

窮極の詩型が歴史の気まぐれの破砕の結果だ と先験的に知っていた

 「確信犯的」とは「先験的」であるということ。それは「わざわざ」と言いなおされているが、「わざわざ」は実は「わざと」ではなく、どうしようもなく「本来的(本能的)」ということだ。
 どんな詩、どんな詩人も「後天的」にはつくれない。「先天的」に詩なのだ。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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