詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(118)

2018-11-03 08:52:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
118  声

二千数百年後の詩人も 若者たちを愛した
火曜日の夕べごとに陋居に集う彼らの前に立ち
難解をもって鳴る自作を 朗朗 誦するのを好んだ

 これは高橋自身の「自画像」だろうか。

その声がいかに魅力的だったかを 彼らの何人もが証言している

 「自画像」を「彼ら」の証言で補強するのは、ナルシストだ。だからこそ高橋なのか、それとも別の人の声なのか。
 よくわからない。

 私は一度だけ高橋の「朗読」を聞いたことがある。とても澄んだ響きで、感情の動きを重視した読み方だったので、非常に驚いた。感情を動かして読むのだ。
 それは高橋の詩ではなく、ある中国人の詩を翻訳したものだった。予習してきたわけではないようだが、熟読している感じの朗読だった。初めての楽譜でも、すらすらと歌える人がいるように、高橋は初めて読む詩でも、感情をこめて、まるで自分のことばであるかのように読むことができる。「ことば」が肉体のなかにすべて入っている。「文体」の引き出しがたくさんあって、そのことばがどの「文体」に属しているか、即座に判断できるのだろう。「ことば」が「文体」へ帰っていく感じといえばいいかもしれない。
 感情に戻っていえば、感情を「文体」のなかで動かしているといえばいいのか。「文体」のなかにある感情と、共鳴しながら、和音をつくるのだ。
 こういうことができるのは、高橋の「声」の奥底に「伝統」があるからだ。
 「二千数百年」という「時間」が冒頭に書かれているが、「時間」をくぐり抜けることで初めて生まれる「文体/感情」を高橋は「肉体」として獲得している。
 一方、こんなことも考える。
 私は高橋のことばの響きのなかに「死」を感じるが、それは「伝統」を感じるというのに等しい。「生きている」というよりも「死の歴史」といえばいいのか。もし高橋の声が生きているとしたら、それは「歴史になった文学」が生きているのだ、と思う。

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外国人受け入れ拡大法案

2018-11-03 07:47:19 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人受け入れ拡大法案
             自民党憲法改正草案を読む/番外243(情報の読み方)

 「外国人受け入れ拡大法案」が閣議決定された。単純労働者の「枠(?)」を拡大するというもの。
 2018年11月03日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

外国人材 上限明記せず/単純労働に拡大 法案 衆院提出/人手不足 5年で25万人見込み

 私は国会中継を熱心に見ているわけでも、新聞を隅々まで読んでいるわけでもないので、誤解があるかもしれないが、この法案に関しての野党の態度がよくわからない。
 「移民法とどう違うのか」「外国人労働者が増え、日本人の賃金が下がるのではないか」「治安はどうなる」というようなところから法案の問題点を追及しているが、もっと追及しなければならないことがあるのではないのか。

 何回か書いたことがあるが、私は安倍の「外国人労働者」に対する姿勢は、「使い捨て」の意識が露骨に出ているところに問題があると思う。
 人権を無視している。
 期間を限って、安い賃金でつかうだけつかって、あとは母国へ追い返す。こんな姿勢で外国人と向き合っていいのか。
 今回の法案では、熟練者(?)を対象に「2号資格」をもうけ、配偶者や子供も一緒に日本に住むことができるようになるのだが、この待遇改善の背後で、「使い捨て」が一層拡大しないか。「2号資格」が「1号資格者」を追い出すための口実に利用されないか。つまり、「排除」「差別」を助長することにならないか。これを考えないといけないのではないのか。
 また、人手不足が深刻なら、どうやって「2号資格者」を増やすか、言い換えると、日本に定住してもらうためには、どのような日本語教育をするのか、社会教育をするのか、さらに社会保障をどうするか、という点を追及しないといけない。そうしないと「2号資格者」が増えない。いつまでたっても「人手不足」ということになる。
 給料の高い仕事は日本人、安い仕事は外国人という「線引き」をしたままでは、だれも日本で働こうとはしないだろう。
 「日本人」であるかどうかではなく、「日本」をどうするのか、という視点が欠けていないか。生まれがどこであろうが、「日本」で暮らし、日本のために働く人を日本人と考えない限り、日本は消滅する。「多民族国家」に転換しない限り、確実に滅んでしまう。人口が減り続け、「労働力」確保どころのさわぎではなくなる。
 「日本国籍の人」を増やすためには、働く意欲のある人を排除しては駄目なのだ。人間として尊重し、働きやすい環境をつくることが必要だ。特に、子供の教育が重要だ。両親は母国語、子供は日本語ということがどうしても増える。そのとき、どうやって子供たちの教育を守るか。そこまで視野を広げて外国人と向き合わないといけない。
 安倍の生産性重視、人間は使い捨てというシステムでは、何も動かなくなる。いま、金が儲かればいいというのではなく、人間の「生き方」そのものを守るせいじが必要だ。「外国人労働者」だけの問題と思ってはいけない。
 外国人労働者の後は、日本人が対象にされ「1号資格」「2号資格」とふりわけられるだろう。「正社員」「非正規社員」よりも厳しい世界が始まると考えるべきだろう。そうならないようにするためにも、外国人労働者を「労働力」ではなく「人間」として見る視点が必要なのだ。平等の人間という視点から、安倍の政策を批判する必要がある。

 私のふるさとでは、少子高齢化が激しい。私が子供のときは42世帯があった。同級生だけで6人いた。いまは20世帯を少しこえているだけだ。20歳以下は、高校生がひとりいるだけだ。老夫婦ふたり、あるいは老人の一人暮らしが何世帯もある。一人ずつ死んでいくのを、ただ待っているという状況だ。
 こういう集落は、もちろん安倍の「視野」には入っていない。
 農業、漁業でも外国人労働者を受け入れるというが、そういうことができるのは「大規模農業(漁業)」関係者である。私のふるさとのように、老人が自分が食べる米、野菜をやっとつくっているだけのところにまで外国人が入ってくるはずがない。外国人を雇用できる「経営者」はいない。
 私はふるさとを出てきてしまった人間で、ふるさとに愛着があるというわけでもない。葬儀でもなければ帰省もしないのだが、「日本の将来」そのものの姿に見える。老人が、どこへもゆけず、ただ家に閉じこもって死を待っている。これから増えてくる、この膨大な死とどう向き合うのかということをほっぽりだして、いま労働者が足りないから、使い捨て外国人を受け入れる、という政策では、一部の金持ち以外は、惨めに死んでいくだけだ。
 拡大される「単純労働」のなかには「介護」分野も含まれている。これは考え方(見方)によっては、どうせ死んでいく老人が相手、意思の疎通が不十分な使い捨て外国人に介護させておけばいい、という発想かもしれない。ほんとうに介護を必要としているひとのことを考えるならば、徹底的な日本語教育が必要になる。日本人さえむずかしい仕事を、外国人に押しつけておしまい、というのは、なんともおそろしい話である。












#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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