詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』

2018-11-26 10:44:21 | 詩集
重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』(思潮社、2018年08月31日発行)

 重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』は「邪」という作品がおもしろい。

人間でないものに
なりたい
たどたどしい川とか
満載喫水線
たどりつけない驟雨
きれいな足首
駱駝の固い頭
ふやけたスタジアム
なめらかな水掻き
正しいものの横に
そっと置かれた誰かの悪意に
そして いつも
間違っていますように

 「きれいな足首」は「人間でないもの」ではなく、人間の一部に感じられる。だから、そこが詩としては弱い部分なのだが、これがあるから「正しい」とか「悪意」が肉体に響いて来る。
 それぞれの行の形容詞、形容動詞は「感覚(感情)」をくすぐる。それも「人間」を感じさせる。「人間でないもの」はどこにも書かれていない。「満載」さえ客観的事実を超えて「感覚」としてつたわってくる。「いっぱいになっている」というような。
 「誰かの悪意」の「誰か」は人間以外に考えられないが、そうすると「人間ではないもの」とは、単純に、「私ではないもの」ということになる。
 そう読んだ上で、「誤読」を進めるのだが。

間違っていますように

 この一行は、何が「間違い」と言うのだろうか。「正しいもの」が間違っているのか。「悪意」というものが間違っているのか。言い換えると「正しい」と判断した重本、「悪意」と判断した重本が間違っているのか。もし、重本が間違っているのだとしたら、「正しいものの横に/そっと置かれた誰かの悪意」は、どうなるのだろうか。
 わからない。
 わからなからこそ、感じる。重本は、ここで真剣にことばを動かしている、と。ことばを動かすことで、重本自身をつくりかえようとしていると。
 この運動こそが「人間でないもの」(自分ではないもの)になる、ということだと思う。めれが「……ますように」という祈りになっている。

 「翼のある生活」は、こんな具合に始まる。

翼があります
飛べません
肩の付け根が重いです
売っていません
ある日
へなへなと
生えてきたんです

 「へなへな」がおもしろい。この「へなへな」を、このあと視点をかえながら少しずつ明確にしていく。
 重本の詩は、一行一行が短くて、昔の、手書き詩のような感じがする。この「手書き」という印象を呼び起こすところも、妙におもしろい。切断と接続を、「小さく」見せる。「小さく」見えるけれど、ほんとうは「大きい」かもしれない。
 「小さい」ものがよく見ると少しずつ「大きく」なる。けれど、「結論」にたどりついてみると「大きい」はずが、やっぱり「小さい」。「大きさ」を問題にするようなことではない。かといって「深さ」を見つめる、という感じでもない。
 そういうところが印象に残る。





*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(141)

2018-11-26 09:56:04 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
141  梟

 日本語と外国語はどう違うのか。あるいは日本人と外国人はどう違うのか。「観念」と「比喩」の結びつき方が違う気がしてならない。ある存在を見つめ、凝縮する。「比喩」になり、「観念」に変化する。そこから「観念(抽象)」がもう一度「比喩/象徴」に変化する。こういう絡み合いに対する訓練が日本語(日本人)には欠如しているような気がする。単に、外国人のことば(翻訳でしか知らないけれど)の方が、抽象と象徴、観念と比喩の結びつきが強靱に感じられるということなのだけれど。
 ことばを熟知している高橋の詩を読んでも、同じことを感じるときがある。

フクロウを宰領とする知恵の女神が
甲冑を身につけているのは 理由のあること
強い翼で飛びかかり 鋭い爪と嘴を立てないでは
血の滴る詩も真実も掴めないのだよ ホーホー    (「掴む」は原文は正字体)

 「知恵の女神」から、すでに日本語ではなく「翻訳」(借り物の観念)の匂いがする。借り物だから「強い翼」「鋭い爪」「嘴」は比喩から象徴に変化していかない。「血の滴る詩」「真実」は観念のままだ。外国人なら、「鋭い爪で肉を掴み、嘴を立てて内臓をむさぼるとき、爪と嘴から血が滴る。フクロウの肉体が噴出させる血のように鮮やかな真実となって」というような感じで、動詞をもっとことばの動きにからませるだろう。「名詞」の組み合わせではなく、「名詞」を「動詞」の動きの中でつかみなおす、あるいは「動詞」の動きを「名詞」として結晶させるというような使い方をすると思う。
 高橋のことばは、「名詞」によって静かに抑えられている。観念/抽象、比喩/象徴の激しさというか、スピードを欠いている。フクロウが鳴いている声を聞いて想像しているだけで、ふくろうがネズミや蛇を襲って食べている姿を目撃して書いた詩ではないからだろう。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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