重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』(思潮社、2018年08月31日発行)
重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』は「邪」という作品がおもしろい。
「きれいな足首」は「人間でないもの」ではなく、人間の一部に感じられる。だから、そこが詩としては弱い部分なのだが、これがあるから「正しい」とか「悪意」が肉体に響いて来る。
それぞれの行の形容詞、形容動詞は「感覚(感情)」をくすぐる。それも「人間」を感じさせる。「人間でないもの」はどこにも書かれていない。「満載」さえ客観的事実を超えて「感覚」としてつたわってくる。「いっぱいになっている」というような。
「誰かの悪意」の「誰か」は人間以外に考えられないが、そうすると「人間ではないもの」とは、単純に、「私ではないもの」ということになる。
そう読んだ上で、「誤読」を進めるのだが。
この一行は、何が「間違い」と言うのだろうか。「正しいもの」が間違っているのか。「悪意」というものが間違っているのか。言い換えると「正しい」と判断した重本、「悪意」と判断した重本が間違っているのか。もし、重本が間違っているのだとしたら、「正しいものの横に/そっと置かれた誰かの悪意」は、どうなるのだろうか。
わからない。
わからなからこそ、感じる。重本は、ここで真剣にことばを動かしている、と。ことばを動かすことで、重本自身をつくりかえようとしていると。
この運動こそが「人間でないもの」(自分ではないもの)になる、ということだと思う。めれが「……ますように」という祈りになっている。
「翼のある生活」は、こんな具合に始まる。
「へなへな」がおもしろい。この「へなへな」を、このあと視点をかえながら少しずつ明確にしていく。
重本の詩は、一行一行が短くて、昔の、手書き詩のような感じがする。この「手書き」という印象を呼び起こすところも、妙におもしろい。切断と接続を、「小さく」見せる。「小さく」見えるけれど、ほんとうは「大きい」かもしれない。
「小さい」ものがよく見ると少しずつ「大きく」なる。けれど、「結論」にたどりついてみると「大きい」はずが、やっぱり「小さい」。「大きさ」を問題にするようなことではない。かといって「深さ」を見つめる、という感じでもない。
そういうところが印象に残る。
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谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』は「邪」という作品がおもしろい。
人間でないものに
なりたい
たどたどしい川とか
満載喫水線
たどりつけない驟雨
きれいな足首
駱駝の固い頭
ふやけたスタジアム
なめらかな水掻き
正しいものの横に
そっと置かれた誰かの悪意に
そして いつも
間違っていますように
「きれいな足首」は「人間でないもの」ではなく、人間の一部に感じられる。だから、そこが詩としては弱い部分なのだが、これがあるから「正しい」とか「悪意」が肉体に響いて来る。
それぞれの行の形容詞、形容動詞は「感覚(感情)」をくすぐる。それも「人間」を感じさせる。「人間でないもの」はどこにも書かれていない。「満載」さえ客観的事実を超えて「感覚」としてつたわってくる。「いっぱいになっている」というような。
「誰かの悪意」の「誰か」は人間以外に考えられないが、そうすると「人間ではないもの」とは、単純に、「私ではないもの」ということになる。
そう読んだ上で、「誤読」を進めるのだが。
間違っていますように
この一行は、何が「間違い」と言うのだろうか。「正しいもの」が間違っているのか。「悪意」というものが間違っているのか。言い換えると「正しい」と判断した重本、「悪意」と判断した重本が間違っているのか。もし、重本が間違っているのだとしたら、「正しいものの横に/そっと置かれた誰かの悪意」は、どうなるのだろうか。
わからない。
わからなからこそ、感じる。重本は、ここで真剣にことばを動かしている、と。ことばを動かすことで、重本自身をつくりかえようとしていると。
この運動こそが「人間でないもの」(自分ではないもの)になる、ということだと思う。めれが「……ますように」という祈りになっている。
「翼のある生活」は、こんな具合に始まる。
翼があります
飛べません
肩の付け根が重いです
売っていません
ある日
へなへなと
生えてきたんです
「へなへな」がおもしろい。この「へなへな」を、このあと視点をかえながら少しずつ明確にしていく。
重本の詩は、一行一行が短くて、昔の、手書き詩のような感じがする。この「手書き」という印象を呼び起こすところも、妙におもしろい。切断と接続を、「小さく」見せる。「小さく」見えるけれど、ほんとうは「大きい」かもしれない。
「小さい」ものがよく見ると少しずつ「大きく」なる。けれど、「結論」にたどりついてみると「大きい」はずが、やっぱり「小さい」。「大きさ」を問題にするようなことではない。かといって「深さ」を見つめる、という感じでもない。
そういうところが印象に残る。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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