井波は欄間で有名だ。木彫職人が店を並べている。
川田良樹を尋ねた。店先で作品をつくっていた。どの店もそうだが、こうやって仕事風景を見せながら、客を待っている。
彫っていたのは龍。正月の縁起物なのだろうか。ほかにも正月の縁起物らしい作品が並んでいる。
川田の人柄なのか、堅実な印象がある。叩いても壊れない、という感じ。木だから、叩いたくらいでは壊れないのは当たり前なのだが。
そうした縁起物のほかに、少女の像もつくっている。やはり美術品は、美術館や個人所蔵が多くなるので、手元にはなかなか残していない。
工房訪問のむずかしさは、このあたりにある。つくっている途中の作品、完成したばかりの作品を見る楽しさはあるが、写真で知っているあの作品はどこ?となると、作家のアトリエにはないのだ。
少女像は、胸のそらした感じが、顔の表情にまでつながり、あたたかな春の光を感じる。さわやかな希望が、体中にひろがっていく。その感じを、あじわいつくそうとしている。
上半身のラインが美しい。
足元には、作品をつくるための、小さなモデルがあった。実物を見ることができないのは、残念だった。
ネットに残っているものでは、この作品がいちばん美しい。少女の肉体と、裸体に巻いた布のリズムが楽しい。足のバランスも落ち着いている。
岩倉雅美は欄間を彫っていた。
やはり店先で客を待ちながらの制作である。
手元にある作品は、モダンアート風のオブジェ。同級生の中では作風が変わっている。面が組み合わさって立体になるのか、立体が解体して面になるのか。接続と同時に、切断もある。相反する概念をつなぎとめるものとして、木を選んでいるのだが、理に走りすぎている感じがする。
木が時間をかけて一本の木に育つように、作品の中で概念が育ってくるとおもしろいと思う。木のことはよくわからないが、形と材質が固く結びつくと違った風に見えるかもしれない。
展示場所も選ぶ作品といえる。違う場所で見れば、また違った感じがするだろうと思う。欄間をつくっている店先とは相いれない気がする。
ひな人形は、形が落ち着いている。つくりなれている安心感がある。
モダンアートの試みもいいけれど、手になじみのある形の方が、木が生きている感じがする。
高桑良昭の作品は、鯉が印象に残った。
シンプルな形に作為がない。自然な美しさがある。うろこのパターンと、顔の対比も鮮やかだ。一匹つくるというよりも、何度も何度もつくってきたことを感じさせる静かさがある。鯉をつくることが生活になっているのだろう。
高桑本人の写真は、手振れでぼけてしまった。申し訳ない。
井波には瑞泉寺がある。その山門の柱に掘られた獅子がおもしろい。右側の柱は、獅子が子供を滝から突き落としている。左の柱には、滝壺からよじ登ってくる子獅子が掘られている。そうやって生き延びるものだけを育てる。厳しい自然の掟である。
この獅子を見ながら、私の同級生は育ったのだ。