詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

50年後の発見(2)

2018-11-20 23:57:43 | 50年後の発見

 井波は欄間で有名だ。木彫職人が店を並べている。
 川田良樹を尋ねた。店先で作品をつくっていた。どの店もそうだが、こうやって仕事風景を見せながら、客を待っている。
 彫っていたのは龍。正月の縁起物なのだろうか。ほかにも正月の縁起物らしい作品が並んでいる。




 川田の人柄なのか、堅実な印象がある。叩いても壊れない、という感じ。木だから、叩いたくらいでは壊れないのは当たり前なのだが。

 そうした縁起物のほかに、少女の像もつくっている。やはり美術品は、美術館や個人所蔵が多くなるので、手元にはなかなか残していない。
 工房訪問のむずかしさは、このあたりにある。つくっている途中の作品、完成したばかりの作品を見る楽しさはあるが、写真で知っているあの作品はどこ?となると、作家のアトリエにはないのだ。




 少女像は、胸のそらした感じが、顔の表情にまでつながり、あたたかな春の光を感じる。さわやかな希望が、体中にひろがっていく。その感じを、あじわいつくそうとしている。
 上半身のラインが美しい。
 足元には、作品をつくるための、小さなモデルがあった。実物を見ることができないのは、残念だった。



 ネットに残っているものでは、この作品がいちばん美しい。少女の肉体と、裸体に巻いた布のリズムが楽しい。足のバランスも落ち着いている。



 岩倉雅美は欄間を彫っていた。
 やはり店先で客を待ちながらの制作である。




 手元にある作品は、モダンアート風のオブジェ。同級生の中では作風が変わっている。面が組み合わさって立体になるのか、立体が解体して面になるのか。接続と同時に、切断もある。相反する概念をつなぎとめるものとして、木を選んでいるのだが、理に走りすぎている感じがする。




 木が時間をかけて一本の木に育つように、作品の中で概念が育ってくるとおもしろいと思う。木のことはよくわからないが、形と材質が固く結びつくと違った風に見えるかもしれない。
 展示場所も選ぶ作品といえる。違う場所で見れば、また違った感じがするだろうと思う。欄間をつくっている店先とは相いれない気がする。
 


 ひな人形は、形が落ち着いている。つくりなれている安心感がある。
 モダンアートの試みもいいけれど、手になじみのある形の方が、木が生きている感じがする。

 高桑良昭の作品は、鯉が印象に残った。




 シンプルな形に作為がない。自然な美しさがある。うろこのパターンと、顔の対比も鮮やかだ。一匹つくるというよりも、何度も何度もつくってきたことを感じさせる静かさがある。鯉をつくることが生活になっているのだろう。
高桑本人の写真は、手振れでぼけてしまった。申し訳ない。




井波には瑞泉寺がある。その山門の柱に掘られた獅子がおもしろい。右側の柱は、獅子が子供を滝から突き落としている。左の柱には、滝壺からよじ登ってくる子獅子が掘られている。そうやって生き延びるものだけを育てる。厳しい自然の掟である。
 この獅子を見ながら、私の同級生は育ったのだ。
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estoy loco por espana (番外25)

2018-11-20 11:50:21 | estoy loco por espana
Javier Messia の展覧会のポスターから。




天地が対称になっている。
正確には対称ではないのだが、正確ではないからこそ、対称という意識を覚醒させる。
そして、ここにある対象の乱れは何か、ということを考えさせる。
水面(たとえば川、たとえば海)に映った夜の街。
銀色は窓の光か、星か。
星ならば、それは降ってくる星。
星がビルの中で明かりに変わる。
そういう夢を誘う。
夢とは、世界の「誤読」である。
「誤読」は、対称の乱れによって誘い出された感情である。



El cielo y la tierra son simétricos.
No es exactamente simétrico. Debido a que no es preciso, hace que se despierte la conciencia de simetría.
Y pensemos en cuál es la perturbación del objetivo aquí.
Ciudad nocturna en la superficie del agua (por ejemplo río o mar).
¿Es el color plateado una luz de ventana, una estrella?
Si es una estrella, es la estrella la que baja.
Una estrella se convierte en una luz en un edificio.
Invita esos sueños.
Un sueño es una mala lectura del mundo.
La mala lectura es una emoción inducida por el trastorno de simetría.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(135)

2018-11-20 00:19:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
135  雪崩 那須スキー場献花台前にて

きみたち十七歳の七人 引率の若い先達を入れてつごう八人を
突然の雪の塊が襲い 呑みこんだ 誰もが予想しなかったこと

 と、事故のことを書いている。その「誰もが予想しなかった」を、高橋は、こう展開する。

おそらく 雪塊だってそう きみたちの匂い立つ若さを見て
急に惜しくなったのだ 数年のうちにむくつけき大人に
ついには無残な老人にしてしまうのが なんとも忍びなくて
そこで思わず知らず 走り寄り 覆いかぶさってしまったのだ

 雪、雪崩に「意志」を与えている。しかし、それは高橋の「意志」である。「思い」である。
 自然は非情、情けなど持っていない。意志なんかも持っていない。だからこそ美しい。人間の情けも意志も無視して動いているから、私たちは、人間そのものになる。その瞬間に、美しさが響きあう。
 自然に「意志」や「情」を与えてはいけない。自分の考え(欲望)を代弁させてはいけない。
 「思わず知らず」ということばがあるが、「何も思わず、何も知らず」を貫かないと自然とは言えない。

 詩は「人情」を描くものかもしれないが、「人情」が「論理」として動き始めると、窮屈で味気ない。

いずれにしても きみたちはとこしえに浄らかな十七歳

 この最終行は「論理的結論」ではある。しかし、それは「とこしえに浄らかな」ものというよりも、淫らとしか言いようがないものだ。








つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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