詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』

2018-11-12 08:52:30 | 詩集
今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』(金雀枝舎、2018年10月23日発行)

 今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』を読みながら、西脇順三郎を目指しているか、と思った。

ギザギザを書いている指だ
ジャコメッティの本にはなかった
荒野が広がっている
あんなになってはもうさよならと
うたうしかない
葦が葦とむすばれて考えの
大事な原理がにぶる

 「やきゅう(午)」の書き出しである。「人間は考える葦である」とは言わずに、「葦が葦とむすばれて考えの/大事な原理がにぶる」というように、「ことば」をぽきっと折って、その断面を見せる。「その断面」とは、しかし、「ことばの断面」ではなく「教養の断面」である。
 さて、このあと、私は何を書くべきか。

 ずいぶん、悩んだ。

 「教養」がほんものであるかどうか、判断する知識は、私にはない。私は本のない家で育った。教科書以外の本を見たのは小学校の五年か、六年か。父の兄が死んだ。通夜だか、葬式だかに行ったとき、その家には本があった。本といっても雑誌、「家の光」である。それが私の生活である。家には裸電球が一個くらい。夜は飯を食ったら寝る、というのが生活だったから、学校での授業くらいしか「教養」に属するものがない。
 こういう人間が他人の「教養」について判断することはできない。できないのだけれど、なんといえばいいのか、「こっちの方がいいなあ」と感じることはできる。そのとき「いいなあ」という感じのよりどころは、「ことばの響き(音楽)」である。強く、くっきり聞こえる「音」が、私は好きである。
 で。
 西脇と比較するのは酷かもしれないが、「音」がなんとなく物足りない。「明るさ」がない。「むすばれて」のスピードが鈍い。それに「にぶる」が重なる。もっと軽快で、光をはじくような「音」がほしいなあ、と思う。
 「意味」の動かし方に、「脱臼感覚」がないのも、物足りない。西脇のことばの動きは「脱臼」のおかしさと、「脱臼」しても、平気で歩いていく「強さ」が共存している。「明るさ」が「脱臼」を自分自身で笑い飛ばしている。

 こういうことを書いても、しようがないのだけれど。
 思いついたことは書くしかない。

 次の詩は、もっと西脇を想像させるかもしれない。

遠い国からの客人 のような梨
ちょうどきみに似た
カバネルの天使が
気づいてばたばたと飛来する間に
平らげるんだ
(おいしかった もうないの?)
でもいつか
天使以外が手を差し伸べたら
黙ってフォークをおいて
笑いなさい

 「野蛮」の力がない。「フォーク」のことを言っているのではない。「手を差し伸べたら」の「差し伸べる」。ことばの響きが「差す+伸べる」に分裂して、弱くなってしまう。「メロディー」は美しくと整うかもしれないが、物足りない。

 しかし、こんな「理不尽」な感想を書いてしまうのは、この詩集(詩篇)がおもしろいものだからかもしれない。
 ぜんぜんおもしろくなかったら、西脇を引き合いには出さないだろうなあ。

 「もらい手」には、こんな部分がある。

歴史は浅くまだ妹(未)だからしかた
がないが
大根くらいしか飾るものがなかった

 この「大根くらいしか飾るものがなかった」という一行は、とてもおもしろい。「くらいしか」がもたもたしているが、「野蛮」の美しさがある。
 「野蛮」というのは、私のような無教養な人間が口にしてしまってはみっともないだけだが、教養があれば、「野蛮」ほど美しいものはない。いのちがまだ「形式」にととのえられていないまま、「行為」として噴出してくるからだ。
 この行には、そういう「いのちの力」を感じる。「音楽」を感じる。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(127)

2018-11-12 08:50:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
127  作法

 三島由紀夫を描いている。

かねてギリシア党を標榜するあなたにして
あの自裁は すこしもギリシア的とは思えない

 否定で始まり、否定で終わる。

腹をかっさばいたのち 首を断ち落とさせるとは
よろず潔さを旨とする蛮風の風上にすら置けない

 しかし、ほんとうに否定しているのか。
 途中の行は、こうである。

あなたの時代錯誤の血なまぐさい作法は
ギリシア人も ローマ人も 目を覆うだろう蛮風

 ここには「否定」の「ない」がない。「蛮風」には「批判」のニュアンスはあるかもしれないが、「ない」ということばが直接でてこないので、それは「批判」というよりも「ドラマチック」に見える。「劇」に見える。
 何かが、身動きがとれずに、破裂した。
 一種の「カタルシス」がある。

それも公の義のためでなく 私の美のために

 「美」が出てくる。「美」は「カタルシス」のひとつだ。何かが壊れ、それを凌駕する形で何かがあらわれる。「綺麗は汚い 汚いは綺麗」(シェイクスピア)が成り立つ瞬間。
 「蛮風」が「目を覆うだろう蛮風」と「よろず潔さを旨とする蛮風」に二種類の意味をもっていることにも、この詩を読むときは、気をつけなければならない。「蛮風は汚い(目を覆うしかない) 蛮風は綺麗(目を見開いて見てしまう)」「公の義は綺麗 公は汚いを義で隠す 私は野蛮を隠さない 私の蛮風は綺麗」と、ことばを動かして読み直すと、高橋が三島をどれだけ愛していたかがわかる。


つい昨日のこと 私のギリシア
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