詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(143)

2018-11-28 09:53:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
143 誘拐者

人は抱擁の悦びにおいて 関わりのない魂を攫ってわが子にする
だから 生殖には本源的な罪がある と聞いたことがある

 私は、聞いたことがない。ここに書かれていることが、よくわからない。聞いたことがあったとしても、わからないから、聞いたことがないと思うのかもしれない。
 人はあらかじめ知っていることしか、わからない。

 私はまず「魂」を知らない。「聞いたことはある」が見たことも触ったこともない。「魂」が「ある」と考えたことがない。ひとがそのことばをつかっているので、しかたなくつかうが、自分から進んでつかうことはない。
 それがこの詩がわからない、いちばんの理由かもしれない。
 わかることは「抱擁」を高橋が「生殖」と言い直しているということだ。この「言い直し」は、とても冷たい。「魂」と同様に、私はこういう「言い直し」を自分のものとして引き受けることができない。「抱擁の悦び」「性交の悦び」というものはありうるが、「生殖の悦び」が「ある」かどうかわからない。
 少なくとも男には「抱擁/性交の悦び」はあっても、「生殖の悦び」は「肉体」としてはありえない。「精神的」なものなら考えることはできる。
 「精神的 (抽象的) 」なものを出発点として、高橋のことばは「だから」「ならば」「だから」と論理を、つまり「精神の運動」を突き動かしながら、こう展開する。

私が異性との抱擁を避けるのは 無辜の魂を攫うことを怖れてか
とはいえ 独りから産まれる詩に対し 責めがないといえようか
しかも 私は恥知らずにも その産子を白日 市で競売にかけている

 「生殖」というのは「生む/産む」であって「産まれる」ではないと思う。なぜ「産まれる」という表現を高橋が選んだのか、これも、よくわからない。
 「攫う」という動詞を高橋はつかっているが、むしろ「攫われた」という意識の方が強いのかもしれない。高橋は「詩に攫われた人間」である。「父母」は人間ではなく、「ことば(文学)」であるというところから、この詩を読み直すべきなのかもしれない。省略してきた二行は、次の通り。その中にある「父母」「肉親」を「文学」と読み直すと、高橋の姿が見えてくる。

ならば わが父母はわが肉親にして 同時にわが誘拐者
だから われらは父母を深く愛し しかも激しく憎むのか



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする