詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外26)

2018-11-22 20:26:12 | estoy loco por espana
Joaquin Llorens Santa の「Entre dos aguas 」



 水が動く。水は出会った瞬間にひとつになる。
 しかし、ホアキンは二つの水を描く。
 「波」ではなく「流れ」と思って見つめる。
 ひとつの流れはどこからやって来て、どこへ行こうとしていたのか。
 もうひとつの流れもまた、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。
 おそらく違ったところから来て、違ったところへ行こうとしていた。
 けれども出会ってしまった。
 出会うことで、互いに影響し合う。
 いっしょに行きたい、ついて来い、と言っているのか。
 おれが行こうとしていたところだ、おれに譲れ、と怒っているのか。
 出会いが、愛であれ、憎しみであれ、出会いは運命だ。
 たとえ二つの水が一つになった後、さらにまた分かれて二つになることがあったとしても、出会ったという記憶はそれぞれの「肉体」のなかに残る。
 記憶に残る。
 いっしょに生きていくしかないのだ。

 すぐれた芸術は、見ているときはもちろん強い影響を受ける。
 しかし、その作品から遠く離れても、見たという記憶、そのときの感情はいつまでも肉体の中に残る。そして、生きていく。
 そういうことも思った。
*

Entre dos aguas, Joaquin Llorens Santa

El agua se mueve. El agua estará unida en el momento en que se encontren.
Pero Joaquín hace dos aguas.
Creo que es "flujo" en lugar de "onda" y lo mira.
¿De dónde vino el flujo y hacia dónde irá?
¿De dónde vino el otro flujo y hacia dónde irá?
Probablemente venía de un lugar diferente y irá a otro lugar.
Sin embargo, dos aguas se encontren y se conocieron.
Al reunirse, se interactúan entre las dos.
Un agua dice : Quiero ir contigo, o Vienes sobre mi.
Otro agua dice : Esa dirección era lo que buscaba, Déjame ir primero.
No sé si los encuentros crean amor u odio, pero el encuentro es destino.
Incluso si dos aguas se han convertido en una, incluso si se divide más en dos, la memoria que encontramos se deja en cada "cuerpo".
Es memorable
Dos aguas tienen que vivir juntos.

El arte excelente, por supuesto, está fuertemente influenciado cuando estamos mirando.
Sin embargo, incluso si está lejos del trabajo, la memoria que vimos, las emociones en ese momento permanecerán en nos cuerpo para siempre. Y, va a vivir.
También pensé en tales cosas.


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50年後の発見(3)

2018-11-22 19:39:52 | 50年後の発見
 岩倉雅美の作品。(追加)(実物を見ていないのだが、何枚か写真を送ってもらったので、その感想を書いておく)



 この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。
 しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた幹を突き破って出てきた最後の一枚、と。
 この作品のタイトルは「記念樹」なのだが、私はこの木が木である理由は、この一枚の葉にあると思うからである。
 それは「いのち」の象徴である。

 抽象的な作品は、あるとき抽象でおわらず、「象徴」になるときがある。「象徴」とは「意味」のことでもある。「意味」が生まれる。一枚の葉が生まれるように、「意味」も生まれ、育っていく。

 

 「変香合」というタイトルがついている。香を楽しむための器なのか。私は「香合」というものの実際を知らないので、よくわからない。
 一枚の葉には、穴があいている。そして蝶も止まっている。とても小さな蝶だ。
 「香合」の前に、木と葉と蝶が出会っている。そこに、やはり「象徴/意味」を感じ取らせようというのだろう。
 四人の中では「意味指向」が強い作家と言える。
 こういう感じは、たとえば大丸などから見ると、かなり「うるさい」感じがするかもしれない。
 「意味」よりも前に、もっと「木」そのものに語らせるということを、大丸の作品は狙っていると思う。
 大丸の作品について書いたとき書き漏らしたが、大丸の作品は、どれをみても「木」そのものを感じさせる。木が生きている。「意味」を壊して、木が自己主張している。芸術とは、たぶん、意味を超えて行く自己主張なのだと思う。



 「河童の酒盛り」というタイトルの根付。根付だから、たぶん、とても小さい。
 写真でしか見ていないのだが、写真で見た作品の中では、これがいちばん温かい味がある。河童が酒を飲んでいる。昔からある題材だと思う。そこには「形」があるけれど、新しい「意味」はない。意味が付け加えられていない。
 岩倉は私の感想には不満かもしれないが、意味が付け加えられていない作品、「象徴」になることを拒んでいる作品の方が、私は好きである。
 前回紹介したひな人形は、すでに「形」として完成している。どこかに新しい要素が加わっているのかもしれないが、あ、ここが新しいという感じはしない。しかし、そこに「親しみ」というものがある。
 「意味」など、いちいちいわなくてもいい。「形」があれば、そこに生きてきた人の歴史がある。「形」には人の生き方が受け継がれている。そういう作品があってもいいはずだ。
 根付を手で転がしながら、河童と酒を酌み交わすのも楽しいかなあ、と思うことがあれば、もうそれで十分だ。
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(137)

2018-11-22 09:33:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
137  鬼能風に

 誰の死を描いているのか。「能」を手がかりにすれば能役者か。愛煙家。死因は肺がんかもしれない。
 後半部が生き生きしている。「批判」というか、あきれ返っている。批判を含むから生き生きしているといえるし、批判は嫉妬から生まれるから生き生きしているのかもしれない。

しかも 根っからの頑健を信じて 疑いもしなかった
それというのも いつでも勃起する それだけの理由で
なんたる妄信 世には疲れ勃ちということもあるのだよ
ついでにいえば 臨終の一物は 染色体を後に残そうと
死神に抗って むなしく勃ちつづける というではないか

 「それというのも」というのは死んだ能役者のことばではなく、引用している高橋が言いなおしたことばだと思う。頑健を自慢するひとは「それというのも」という理由をみちびくことばなど必要としない。「おれは頑健だ。いつだって勃起する」と直接事実を語る。頑健「即」勃起。「即」はことばを必要としない。だからこそ「即」である。これを「それというのも」と言いなおすと、「事実」ではなく「論理」になる。「論理」だから批判に変わる、妬みに変わる、とも言える。
 未練がましく「ついでにいえば」という論理の追加(補強)がある。補強など必要としないのが「事実」というものなのに。
 高橋は、こうつづけている。

今のきみが纏っているのは 死出三途の川霧か タバコの煙か
(カロン カロン あれは渡し守の 疾く帰れの警告の鈴音)
慌ててきみが沈む河水さえ ニコチンの脂で吐気がしそうだ

 「吐気がする」というのは、追悼のことばとはいえないだろう。ふつうはこんなふうなことばをつかわない。しかし、そういうことばでもつかわないと、高橋は「きみ」を死の国に追いやることができない。
 愛が憎しみを生む。ここにも嫉妬が隠れている。そのために、ことばに不思議な強さがある。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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