140 他人の庭
「139 悲しみ」の続篇か。
「昼寝から目覚めて」は「昼の夢から目覚めて」かもしれない。夢は本能が見ている。本能から見れば、現実は「他人」なのかもしれない。そしてこのとき、「他人」とは「本能の自分ではない」という以上の意味を持たない。
しかし、詩は、こうつづいている。「意味」をつくりはじめる。
「ほんとう」というのは、むずかしい。定義できない。「ほんとう」と信じるものがあるだけであって、「ほんとう」などないかもしれない。「ほんとう」にしたいだけなのだ。「ほんとうの自分」というものなど、ない。
あるのは「そうではなくて」という論理がつくりだす運動だけである。そして論理は動き出すと、論理であることをやめることができない。
まるで合わせ鏡のなかの像のように、論理は増えるばかりだ。決して「減る」ということをしらない。そうして論理は意味という「無意味」になる。「本能の自分」は、完全に消え失せてしまっている。
「139 悲しみ」の続篇か。
昼寝から目覚めて見る 自分の庭は
他人の庭のようによそよそしい
「昼寝から目覚めて」は「昼の夢から目覚めて」かもしれない。夢は本能が見ている。本能から見れば、現実は「他人」なのかもしれない。そしてこのとき、「他人」とは「本能の自分ではない」という以上の意味を持たない。
しかし、詩は、こうつづいている。「意味」をつくりはじめる。
そうではなくて ほんとうに他人の庭なのだ
もともと自分のものなど どこにもありはしない
「ほんとう」というのは、むずかしい。定義できない。「ほんとう」と信じるものがあるだけであって、「ほんとう」などないかもしれない。「ほんとう」にしたいだけなのだ。「ほんとうの自分」というものなど、ない。
あるのは「そうではなくて」という論理がつくりだす運動だけである。そして論理は動き出すと、論理であることをやめることができない。
そういう自分だって 自分のものではない
他人のものである自分が 他人の庭を見る自分を
見ている
まるで合わせ鏡のなかの像のように、論理は増えるばかりだ。決して「減る」ということをしらない。そうして論理は意味という「無意味」になる。「本能の自分」は、完全に消え失せてしまっている。
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