詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(120)

2018-11-05 07:36:25 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
120  R・M・リルケに

……生殖の輝く中心……あなたの沢山の作品の中から
ぼくがいつもまず思い出す とりわけ魅惑的な詩句
発掘されたギリシアの胸像をうたった おそらく中心部

 私はリルケをあまり読んだことがない。かすかに「アポロンのトルソ」というような作品があったような気がするが、手元に詩集がないので、わからない。トルソなのだが、胸の筋肉を見ながら、それが「生殖の輝く中心」へと思いを引っ張っていくというような市だったと思う。「生殖の輝く中心」という訳だったかどうかは、わからない。
 その詩を読んだとき、私は「性器」を思い浮かべたか。思い出せない。だいたい西洋の彫刻は「性器」が小さい。それを見て「輝く中心」と思わないなあ。
 「性器」ではなく、胸の筋肉から性器へと視線が動いていく、その動きの方が「色っぽい」。そこに存在しないものを想像するという意識の方が「輝き」に満ちていると思う。というようなことを思っていたら……。

しかし ぼくは同時に連想しないわけにはいかない
あなたのふだんはズボンと下着に匿された中心部

 高橋は、リルケが書いているトルソの性器ではなく、リルケ自身の性器の方に関心を向ける。ここに、私は驚いてしまった。
 詩を読む(あるいは、他の文学作品を読む、芸術に触れる)というのは、作者と向き合うことだ。それは作者が対象とどう向き合っているかという「姿勢」に向き合うことであって、作者自身の「肉体」には関心がいかない。リルケがどんな「性器」をもち、どんな性生活をしていたか、「アポロンのトルソ(?)」とは関係ないなあと思う。
 「リルケに」という詩を書いている高橋が、どんな「生殖の輝く中心」をもっているか、というのも関係ないなあ。
 詩の続きを読むと、こうなっている。リルケは指にバラのとげがささったことが原因で死んだといわれるが……。

その前に荒淫のため 中心部から腐りかけていたのでは?
隠棲先と触れ込みの館は そのじつ出入り激しい売淫窟
淫を売っていたのは ほかならぬあなたという男妾
古代アタナイにも アレクサンドレイアにも聞かない悪所

 こう批判するとき、高橋は、どう感じているのだろうか。ことばのリズムから、リルケのように「荒淫のため 中心部から腐り」たいと思っているようにも読める。特に最後の二行がいきいきと動いている。「悪所」で「淫を売って」みたい気にさせる。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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