詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

毛毛脩一『青のあわだつ』

2018-11-06 11:02:34 | 詩集
毛毛脩一『青のあわだつ』(書肆山田、2018年10月25日発行)

 毛毛脩一『青のあわだつ』は行変えのない詩と、行変えのあるものがある。ない方がおもしろい。表題作。

 青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖 指と
ほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖 昨日のつぶや
きから溢れるゆるやかなその呼吸 浅い水底にかさなりあうかわい
たその眠り 水曜日のかざりのようにすきとおったその音楽 たし
かに心の くらく澄んだあかりの中でしか見られぬほどの あわい
虹色にひたされた水と 耳のかがやかしい気泡 そこで沈んでゆく
あおじろい瞼 そこにからまる弱くもつれた葉脈と ほそい花弁の
ふるえのうえに 未来のあいさつのようにやすやすと降りる

 何が書かれているか。繰り返される「体言止め」。「の」で直列つなぐか、「と」で並列につなぐかしながら動いていく。動詞は「降りる」まで登場しない。つまり、ここまでで「一文」のように読むことができる。「一文」のなかに、どれだけ「詩的情報」を盛り込むことができるか、を試しているように思える。「ほそい」とか「すきおおった」とか「あわい」、あるいは「かがやかしい」とか「あおじろい」とか、さらには「ゆるやか」「からまる」「ふるえ」とか。いわゆる「詩語」がからみあっている。その「からみあう」精緻さというようなものを書きたいのだ。
 と、指摘するのは、簡単なことだ。
 私は、しかし、他の方法でこの「からみあい」を言いなおしてみたい。

(1)青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖
(2)指とほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖

 (2)は(1)を言いなおしたもの、ととらえることができる。「植物」と「繁殖」ということばが繰り返されている。(1)の「植物」は、これだけではどういう植物かわからない。(2)で「ほそい茎」がつけくわえられることで、その植物の「弱さ、繊細さ」のようなものが見えてくる。さらに(2)の「指」と「ほそい茎」の接続は、「ほそい指」を連想させる。人間が見えてくる。「ほそい指」をもった人間。そのひとは「感情」的な人間、感情を生きる人間であり、その感情はやはり「ほそい」ものでできている。
 こういう「ことばの接続」(選択的関係)というのは、「文学」で繰り返され、定型化したものである。そういう領域で、毛毛はことばを動かしているのだが。
 私は、それよりも「生まれた」ということばが繰り返されていることに興味を持った。「生まれた」は「生まれる」の「連体形」であり、これが「体言止め」を誘うきっかけになるのだが、この「生まれる」という動詞こそが、この詩を貫いているキーワードだと思う。
 最初の二行で繰り返されるだけだが、他の動詞も、実は「生まれた/生まれる」を言いなおしたものとして読むことができるからである。

昨日のつぶやきから「生まれる」ゆるやかなその呼吸
浅い水底に「生まれ」かさりあうかわいたその眠り
水曜日のかざりのように「生まれる」すきとおったその音楽
たしかに心の くらく澄んだあかりの中でしか「うまれることができない」ほどの
あわい虹色に「生まれ変わった」水と 耳のかがやかしい気泡
そこで「うまれる」あおじろい瞼
そこに「うまれる」弱くもつれた葉脈と ほそい花弁のふるえのうえに
未来のあいさつのようにやすやすと「生まれる」

 「生まれる/生まれ変わる」。たぶん「生まれ変わる」で統一した方がわかりやすくなると思う。一つのことばが次のことばを誘い出し、それが結びついたとき、そこから別のことばが生み出される。それは最初のことばの「生まれ変わり」である。ことばがセックスし、そこから別のことばが誕生する、といえばいいのか。
 ことばから始まり、ことばで終わる詩である。

 問題は。

 毛毛のことばのセックス、ことばの結婚は、「近親相姦」の匂いが強い。それはそれで魅力的なのかもしれないが、どうしても「衰退」につながりかねない。
 純粋培養は、弱々しい。
 セックス(結婚)の前提である「愛」というのは、自分がどうなってもかまわないと決意することに似ている。破壊的、暴力的なものである。暴力によって生まれ変わるものがある。むりやり誕生させられるものがある。それも詩(いのち)である、と毛毛が認識しているかどうか。認識していて、それでもなおかつ「古典(文学的定型)」を選びとっているのだとしたら、それはそれでいいのだが。

 行変え(行分け)詩は、一字空きではなく改行の分だけ「切断」が目立つが、それは視覚の問題であって、暴力、暴走にまでは至っていないと私は感じた。



*

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書肆山田
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(121)

2018-11-06 07:44:05 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
121  J・L・ボルヘスに

あなたという不死の水を呑んで 死ねなくなった私たち
呑んだ私たちが死ねないから あなたはますます死ねない

 こう書くとき、高橋はボルヘスをどうとらえているのか。「不死」にあこがれているのか、「不死」を拒んでいるのか。こういうことは問う必要がない。自明のことだ。「不死」にあこがれ、「不死」を理想化している。そして理想化するとき、人は、自分を理想化した人と「等しい」ものと思い込む。
 そして、ここから、さらに私は、こう思う。「不死」を理想化するとき、「死」は「不死」に等しいものになると。「絶対的な死」(完璧な死)こそが「不死」なのだ、と。
 「他人の死」についてなら、たいていの人は知っている。しかし「自分の死」というものを知っている人はいない。自分の「絶対的な死」こそが「不死」である。死ぬことによって、生き続けるものが生まれるからだ。生きているあいだは、すべてのものは死んで行く。しかし、死んでしまったら、そのときいっしょに生きていたものは死ねない。奇妙な言い方になるが、「死」を認める人間がいないと、「死」は存在しない。「死」をみとめるということは、「生きていた」を認めることであり、認めて瞬間に、それは「生き続ける」。「死」こそが「不死」を生み出してしまう。
 高橋は、そういう「ことば」にあこがれている。「文学」にあこがれている。ボルヘスにではなく。だからというべきなのか、ボルヘスは「人間」としては描かれない。人間のかわりに、高橋は「宇宙」を描いてしまう。

宇宙の限り 内へ渦巻く無の陥穽 その底が
湧き返るとき 宇宙そのものが裏返り
すべての有の母なる無さえも 消えようか

 しかし、これはギリシアなのかなあ。「有の母なる無」というのは、東洋の哲学のような気がする。宇宙から見れば、ギリシア(西洋)も東洋もないだろうけれど。

 私はまた、こんなことも思う。
 ボルヘスがギリシアならば、ナボコフはなんだろう。ボルヘスの簡潔、凝縮に対してボルヘスは饒舌、拡大。私にはまったく違った印象がある。高橋のこの詩集に、ボルヘスは登場するだろうか。そう考えるとき、高橋にとってのギリシアとは何かが、もう少し輪郭を明確にするかもしれない。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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