毛毛脩一『青のあわだつ』(書肆山田、2018年10月25日発行)
毛毛脩一『青のあわだつ』は行変えのない詩と、行変えのあるものがある。ない方がおもしろい。表題作。
何が書かれているか。繰り返される「体言止め」。「の」で直列つなぐか、「と」で並列につなぐかしながら動いていく。動詞は「降りる」まで登場しない。つまり、ここまでで「一文」のように読むことができる。「一文」のなかに、どれだけ「詩的情報」を盛り込むことができるか、を試しているように思える。「ほそい」とか「すきおおった」とか「あわい」、あるいは「かがやかしい」とか「あおじろい」とか、さらには「ゆるやか」「からまる」「ふるえ」とか。いわゆる「詩語」がからみあっている。その「からみあう」精緻さというようなものを書きたいのだ。
と、指摘するのは、簡単なことだ。
私は、しかし、他の方法でこの「からみあい」を言いなおしてみたい。
(1)青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖
(2)指とほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖
(2)は(1)を言いなおしたもの、ととらえることができる。「植物」と「繁殖」ということばが繰り返されている。(1)の「植物」は、これだけではどういう植物かわからない。(2)で「ほそい茎」がつけくわえられることで、その植物の「弱さ、繊細さ」のようなものが見えてくる。さらに(2)の「指」と「ほそい茎」の接続は、「ほそい指」を連想させる。人間が見えてくる。「ほそい指」をもった人間。そのひとは「感情」的な人間、感情を生きる人間であり、その感情はやはり「ほそい」ものでできている。
こういう「ことばの接続」(選択的関係)というのは、「文学」で繰り返され、定型化したものである。そういう領域で、毛毛はことばを動かしているのだが。
私は、それよりも「生まれた」ということばが繰り返されていることに興味を持った。「生まれた」は「生まれる」の「連体形」であり、これが「体言止め」を誘うきっかけになるのだが、この「生まれる」という動詞こそが、この詩を貫いているキーワードだと思う。
最初の二行で繰り返されるだけだが、他の動詞も、実は「生まれた/生まれる」を言いなおしたものとして読むことができるからである。
昨日のつぶやきから「生まれる」ゆるやかなその呼吸
浅い水底に「生まれ」かさりあうかわいたその眠り
水曜日のかざりのように「生まれる」すきとおったその音楽
たしかに心の くらく澄んだあかりの中でしか「うまれることができない」ほどの
あわい虹色に「生まれ変わった」水と 耳のかがやかしい気泡
そこで「うまれる」あおじろい瞼
そこに「うまれる」弱くもつれた葉脈と ほそい花弁のふるえのうえに
未来のあいさつのようにやすやすと「生まれる」
「生まれる/生まれ変わる」。たぶん「生まれ変わる」で統一した方がわかりやすくなると思う。一つのことばが次のことばを誘い出し、それが結びついたとき、そこから別のことばが生み出される。それは最初のことばの「生まれ変わり」である。ことばがセックスし、そこから別のことばが誕生する、といえばいいのか。
ことばから始まり、ことばで終わる詩である。
問題は。
毛毛のことばのセックス、ことばの結婚は、「近親相姦」の匂いが強い。それはそれで魅力的なのかもしれないが、どうしても「衰退」につながりかねない。
純粋培養は、弱々しい。
セックス(結婚)の前提である「愛」というのは、自分がどうなってもかまわないと決意することに似ている。破壊的、暴力的なものである。暴力によって生まれ変わるものがある。むりやり誕生させられるものがある。それも詩(いのち)である、と毛毛が認識しているかどうか。認識していて、それでもなおかつ「古典(文学的定型)」を選びとっているのだとしたら、それはそれでいいのだが。
行変え(行分け)詩は、一字空きではなく改行の分だけ「切断」が目立つが、それは視覚の問題であって、暴力、暴走にまでは至っていないと私は感じた。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
毛毛脩一『青のあわだつ』は行変えのない詩と、行変えのあるものがある。ない方がおもしろい。表題作。
青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖 指と
ほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖 昨日のつぶや
きから溢れるゆるやかなその呼吸 浅い水底にかさなりあうかわい
たその眠り 水曜日のかざりのようにすきとおったその音楽 たし
かに心の くらく澄んだあかりの中でしか見られぬほどの あわい
虹色にひたされた水と 耳のかがやかしい気泡 そこで沈んでゆく
あおじろい瞼 そこにからまる弱くもつれた葉脈と ほそい花弁の
ふるえのうえに 未来のあいさつのようにやすやすと降りる
何が書かれているか。繰り返される「体言止め」。「の」で直列つなぐか、「と」で並列につなぐかしながら動いていく。動詞は「降りる」まで登場しない。つまり、ここまでで「一文」のように読むことができる。「一文」のなかに、どれだけ「詩的情報」を盛り込むことができるか、を試しているように思える。「ほそい」とか「すきおおった」とか「あわい」、あるいは「かがやかしい」とか「あおじろい」とか、さらには「ゆるやか」「からまる」「ふるえ」とか。いわゆる「詩語」がからみあっている。その「からみあう」精緻さというようなものを書きたいのだ。
と、指摘するのは、簡単なことだ。
私は、しかし、他の方法でこの「からみあい」を言いなおしてみたい。
(1)青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖
(2)指とほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖
(2)は(1)を言いなおしたもの、ととらえることができる。「植物」と「繁殖」ということばが繰り返されている。(1)の「植物」は、これだけではどういう植物かわからない。(2)で「ほそい茎」がつけくわえられることで、その植物の「弱さ、繊細さ」のようなものが見えてくる。さらに(2)の「指」と「ほそい茎」の接続は、「ほそい指」を連想させる。人間が見えてくる。「ほそい指」をもった人間。そのひとは「感情」的な人間、感情を生きる人間であり、その感情はやはり「ほそい」ものでできている。
こういう「ことばの接続」(選択的関係)というのは、「文学」で繰り返され、定型化したものである。そういう領域で、毛毛はことばを動かしているのだが。
私は、それよりも「生まれた」ということばが繰り返されていることに興味を持った。「生まれた」は「生まれる」の「連体形」であり、これが「体言止め」を誘うきっかけになるのだが、この「生まれる」という動詞こそが、この詩を貫いているキーワードだと思う。
最初の二行で繰り返されるだけだが、他の動詞も、実は「生まれた/生まれる」を言いなおしたものとして読むことができるからである。
昨日のつぶやきから「生まれる」ゆるやかなその呼吸
浅い水底に「生まれ」かさりあうかわいたその眠り
水曜日のかざりのように「生まれる」すきとおったその音楽
たしかに心の くらく澄んだあかりの中でしか「うまれることができない」ほどの
あわい虹色に「生まれ変わった」水と 耳のかがやかしい気泡
そこで「うまれる」あおじろい瞼
そこに「うまれる」弱くもつれた葉脈と ほそい花弁のふるえのうえに
未来のあいさつのようにやすやすと「生まれる」
「生まれる/生まれ変わる」。たぶん「生まれ変わる」で統一した方がわかりやすくなると思う。一つのことばが次のことばを誘い出し、それが結びついたとき、そこから別のことばが生み出される。それは最初のことばの「生まれ変わり」である。ことばがセックスし、そこから別のことばが誕生する、といえばいいのか。
ことばから始まり、ことばで終わる詩である。
問題は。
毛毛のことばのセックス、ことばの結婚は、「近親相姦」の匂いが強い。それはそれで魅力的なのかもしれないが、どうしても「衰退」につながりかねない。
純粋培養は、弱々しい。
セックス(結婚)の前提である「愛」というのは、自分がどうなってもかまわないと決意することに似ている。破壊的、暴力的なものである。暴力によって生まれ変わるものがある。むりやり誕生させられるものがある。それも詩(いのち)である、と毛毛が認識しているかどうか。認識していて、それでもなおかつ「古典(文学的定型)」を選びとっているのだとしたら、それはそれでいいのだが。
行変え(行分け)詩は、一字空きではなく改行の分だけ「切断」が目立つが、それは視覚の問題であって、暴力、暴走にまでは至っていないと私は感じた。
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
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