暁方ミセイ「早春譜」、最果タヒ「通行人の森」(「現代詩手帖」2019年01月号)
暁方ミセイ「早春譜」のことばは「音」が聞こえる。その音は宮沢賢治の音に似ている。何度も何度も同じことを書いて、ちょっと申し訳ない気がするが。でも、この宮沢賢治の音が聞こえるというのは、悪いことではない。誰だって、誰かの音を聞いて、そこからことばを覚える。もちろん最初から「自分の音」を響かせる詩人もいるかもしれないが、めったにいないと思う。
音ではないが、色についてなら、セザンヌはたしか、こういうことを言っている。塗り残しの部分について聞かれたときだ。「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」。ひとはたぶん、すでに存在するものしか理解できない。
で、暁方ミセイ「早春譜」。
「見えもしない」「聞こえもしない」を「目を閉じ」「耳を塞ぎ」と言いなおす。それで終わらずに、「瞼の裏を見て」「自分の血液の音を聞いて」と世界を内側から逆転する。このダイナミックな運動の後、
この一行の「限られた」という音の強さ。ここに私は宮沢賢治を聞く。相対立するもの、矛盾したものが矛盾したまま、ごつごつと流動していくイメージも宮沢賢治だが、それが「限られた」というような非常に強い音になって、遠いところ(深いところ?)から響いてきて、世界を統一する。
ここがいいなあ。
このあと、強い響きから、音がさらに飛躍していく。連が変わって、書き出しが二字下げになっている。(引用は、頭を下げずに引用する。)
「凍て椿とぼた雪は靴底で混ざり」が特徴的だが、「濁音」が美しい。豊かだ。濁音は汚い、清音が美しいと言う人が多いけれど、私は濁音はつややかで豊かだと感じる。豊かさに美を感じる。声帯の振動が肉体全体に広がり、共鳴する楽しさがある。清音にはこの声帯と肉体の喜びがない。
「細かく反射して光るのに」の行には濁音がない。それで、この行が浮いて感じられる。力強さがない。それが残念だ。
「こればかりは」という、どうでもいいようなというと変だけれど、イメージをともなわない行にも濁音があって、とても強い感じがする。「夢がきみどりいろの浅瀬で」というのは、私には絶対に思いつかない音楽だけれど(もしかしたら「汚い」音だけれど)、ぐいっと引きつけられる。「聞こえる」感じがとても強い。
で、ここまで来ると宮沢賢治を忘れてしまう。宮沢賢治って、こういう音楽だっけ? 違うなあ。どうして宮沢賢治を思い出すのだろう、という具合に印象が変わってしまう。あ、私個人の印象のことであって、他の読者はどう感じるかわからないが。
三連目、
「針葉樹林」か、いい音だなあ。音楽だな、と私はうっとりしてしまう。「針葉樹林」や「雪の針」は宮沢賢治のイメージかもしれないが、音楽は完全に暁方のものになっている。
*
最果タヒ「通行人の森」。
最果のことばにも濁音はある。けれど暁方の詩とは逆に、私は清音ばかり聞き取ってしまう。特に、「きれいな」「泣きそうになった」が耳に深く響いてきた。泣くことのきれいさを知っている詩人なのだろう。「引き裂いて」「離れられなくて」の呼応も清音で構成され、「隙間」を透明な感じで誘い出す。
うーん、きれいだ。
*
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暁方ミセイ「早春譜」のことばは「音」が聞こえる。その音は宮沢賢治の音に似ている。何度も何度も同じことを書いて、ちょっと申し訳ない気がするが。でも、この宮沢賢治の音が聞こえるというのは、悪いことではない。誰だって、誰かの音を聞いて、そこからことばを覚える。もちろん最初から「自分の音」を響かせる詩人もいるかもしれないが、めったにいないと思う。
音ではないが、色についてなら、セザンヌはたしか、こういうことを言っている。塗り残しの部分について聞かれたときだ。「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」。ひとはたぶん、すでに存在するものしか理解できない。
で、暁方ミセイ「早春譜」。
ここは本当は無色の見えもしない聞こえもしない世界で
そのなかにぽっつり目を閉じ耳を塞ぎ
立っているだけで
(瞼の裏を見て自分の血液の音を聞いて)
誰ひとり見知らぬところなのだけど
みんな限られたわたしの範囲を
泳ぎまわって
結局最後は春の証拠を探す
「見えもしない」「聞こえもしない」を「目を閉じ」「耳を塞ぎ」と言いなおす。それで終わらずに、「瞼の裏を見て」「自分の血液の音を聞いて」と世界を内側から逆転する。このダイナミックな運動の後、
みんな限られたわたしの範囲を
この一行の「限られた」という音の強さ。ここに私は宮沢賢治を聞く。相対立するもの、矛盾したものが矛盾したまま、ごつごつと流動していくイメージも宮沢賢治だが、それが「限られた」というような非常に強い音になって、遠いところ(深いところ?)から響いてきて、世界を統一する。
ここがいいなあ。
このあと、強い響きから、音がさらに飛躍していく。連が変わって、書き出しが二字下げになっている。(引用は、頭を下げずに引用する。)
春にして
凍て椿とぼた雪は靴底で混ざり
誰かの古いこころ
この空気のなかにとざされているんだな
細かく反射して光るのに
溶けないんだな
こればかりは
夢がきみどりいろの浅瀬で
潜ってしまうからしかたないんだな
「凍て椿とぼた雪は靴底で混ざり」が特徴的だが、「濁音」が美しい。豊かだ。濁音は汚い、清音が美しいと言う人が多いけれど、私は濁音はつややかで豊かだと感じる。豊かさに美を感じる。声帯の振動が肉体全体に広がり、共鳴する楽しさがある。清音にはこの声帯と肉体の喜びがない。
「細かく反射して光るのに」の行には濁音がない。それで、この行が浮いて感じられる。力強さがない。それが残念だ。
「こればかりは」という、どうでもいいようなというと変だけれど、イメージをともなわない行にも濁音があって、とても強い感じがする。「夢がきみどりいろの浅瀬で」というのは、私には絶対に思いつかない音楽だけれど(もしかしたら「汚い」音だけれど)、ぐいっと引きつけられる。「聞こえる」感じがとても強い。
で、ここまで来ると宮沢賢治を忘れてしまう。宮沢賢治って、こういう音楽だっけ? 違うなあ。どうして宮沢賢治を思い出すのだろう、という具合に印象が変わってしまう。あ、私個人の印象のことであって、他の読者はどう感じるかわからないが。
三連目、
そうだ
シャツの間からさわやかな針葉樹林の香りがする
熱され燃え落ちる雪の針の香りがする
「針葉樹林」か、いい音だなあ。音楽だな、と私はうっとりしてしまう。「針葉樹林」や「雪の針」は宮沢賢治のイメージかもしれないが、音楽は完全に暁方のものになっている。
*
最果タヒ「通行人の森」。
なんどだって死んでいるのに気づかないで、破裂していく感情が
また、ぼくを引き裂いて、この街にきれいな木漏れ日をひろげる、
優しく抱きしめると汗があふれて、それでも離れられなくて熱中
症になる二人、だからお別れしたくなる、そのとき、すずしい風
が二人の肌の隙間にながれて、かれらは泣きそうになった、あん
なにも、これだけは確かなものと信じようと語り合ったのに、今
では手放そうとしています、
最果のことばにも濁音はある。けれど暁方の詩とは逆に、私は清音ばかり聞き取ってしまう。特に、「きれいな」「泣きそうになった」が耳に深く響いてきた。泣くことのきれいさを知っている詩人なのだろう。「引き裂いて」「離れられなくて」の呼応も清音で構成され、「隙間」を透明な感じで誘い出す。
うーん、きれいだ。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」10・11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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