詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(13)

2019-01-01 09:42:49 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
13 約束違反

 ヘロドトスの『歴史』の第一巻、リュディアの王クロエソスと同じく予言が人をあざむく。この話の場合にはアポローンその人が自分を予言を完全にくつがえしてしまう。

 と池澤は詩の概略を書いている。
 私がおもしろいと思ったのは、予言が人をあざむくということよりも、あざむかれたときの人間の態度である。(この詩では人間ではなく、女神なのだけれど。)カヴァフィスは生き生きと描写している。

テティスは紫の衣裳を引き裂き、
首飾りや指環を身から引きむしり
地面に向かって投げつけた。

 各行に動詞がひとつ、くっきりと描かれる。「投げつける」とき「地面に向かって」と具体的なのがいいなあ。自分の息子が死んだことを嘆いているというよりも、怒っている。おさまることのない怒りは、予言をしたアポローンへ向けられる。

嘆くうちに昔日の記憶がよみがえり、彼女は
自分の息子が若いさかりで死んだその時、
賢きアポローンは何をしていたのか、婚礼の卓で
忘れがたい言葉を口にした詩人は、
かの予言者はいったいどこにいたのか、とたずねた。

 嘆きから怒りへの「転調」というのか、「拡張」というのかわからないが、この変化がとてもいい。「怒り」が瞬間的なものではなく、「記憶」をひっぱりだし、予言者の責任を問うという形で「論理的」に展開するところが、強くて、恐ろしい。
 「嘆き」はほっておけば、やがて鎮まるかもしれない。しかし、「論理的」に展開される「怒り」は鎮まらない。長引くぞ。「怒り」は「恨み」へと形を変えるぞ。
 というようなことを感じさせる。
 詩は、「恨み」へと転調していかないけれど、それは詩だから。
 もし、ここに書かれている「予言/あざむく」が人間に起きたら、絶対に「恨み」に変わる。
 これが「恋」ならば、恋人を紹介してくれた人が恋人といい仲になり、自分が棄てられてしまったというような感じかもしれない。驚き、悲しみ、嘆き、怒り、恨む。「約束」というのはいい加減なものだけれど、「裏切り」に対する反応は普遍のものだ。だから何度でも書き直される。





カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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池井昌樹「竪琴」、谷川俊太郎「イル」

2019-01-01 09:27:16 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「竪琴」、谷川俊太郎「イル」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 池井昌樹「竪琴」。一連目と二連目が好きだ。

せかいはふしぎにみちている
なにしろうたがあるからね
なにしろそらがあるからね
そらのしたにはうみがあり
うみのほとりにひとがすみ
ながらくくらしてきたからね

せかいはふしぎにみちている
なにしろうたがあるからね
うたいつづけてきたそらが
うたいつづけてきたうみが
うたいつづけてきたひとが
ながらくともにあるからね

 一連目と二連目は違うのだけれど、どこが違うのか説明することはむずかしい。池井は違うことを言っているのだが、私にはおなじに聞こえる。同じように聞こえるように、違うことを言うことができるのが池井なのかもしれない。
 変な言い方かな?
 こう言いなおしてみよう。
 一連目、池井は「空がある、空の下には海がある、海のほとりには人が住んでいる」と言っている。でも、私は何を聞いたと答えるべきか。「空がある、空の下には海がある、海のほとりには人が住んでいる」はあくまで池井が言ったことであり、私が聞いたことではない。
 私が聞いたのは、「うたがある」と「うたつつづけてきた」ということ、つまり二連目で池井が言ったことを、一連目を読みながら「聞いている」。
 だから二連目を読むと、あ、これは一連目で聞いたことだ、と感じる。つまり、「繰り返し」に聞こえる。
 こういうことが詩なのだと思う。
 
 でも、私は、そのあとの展開が好きではない。

せかいはふしぎにみちている
ふしぎにみちたそのどこか
うたうたわせてきたものが
そらでなく
うみでなく
ひとでなく
いまもまだ

みえない竪琴を
つまびくゆびが

 「竪琴」には「リラ」とルビがふられている。この三、四連目が、いやな感じがする。いまも「竪琴」や「リラ」ということばが生きているのかと驚く。こういう言い方をすると「そら」や「うみ」も、もう詩に書かれることばではない、という人がいるかもしれない。でも、「日常のことば」として生きている。「竪琴(リラ)」とは違う。
 「結論」などなくていい、と思う。「結論」がない方が、「ふしぎ」に満ちていて、美しいと思う。

 新しい年なので、批判から始めてみることにした。



 谷川俊太郎「イル」は、池井と同じようなことを書いている。池井が谷川と同じようなことを書いている、のかもしれない。

今日
私がイル
のである
昨日も私はイタ
姿かたちは違っていたが
八十七年前もイタらしい
のである
犬でも
猫でもない
私が
今も昔もイル
のである

 私は何を聞いたか。言い換えると何を読んだか。何を「誤読」したか。
 「のである」の繰り返しを読んだ。聞いた。「のである」が私の肉体のなかで鳴り響いている。「のである」はなくても「意味」はおなじになるかもしれない。「のである」には「意味」はない。いや、「意味」はあるのだが、それを説明することはむずかしい。
 あるいは、こう言うべきかもしれない。
 「のである」という繰り返しこそが「意味」である、と。
 では、どういう意味?
 「確認」である。谷川は「イル」を確認している。
 「せかいはふしぎにみちている」と池井は繰り返していた。繰り返していえば「意味」が変わるかといえば、変わらない。変わらないことを「確認」するために繰り返している。繰り返すとき少しずつ違うものがあらわれてくる (ずれていく) のだから、おなじではなく、変わらないのではなく、変わっているのだと言うこともできるが、繰り返されているからそれは違っていてもどこかで同じものにつながっていると言える。
 でも、そのつながっているもの、つないでいるものを「みえない竪琴を/つまびくゆび」と池井が断定してしまっては、つまらない。
 脱線した。谷川の詩に戻る。

イルから
あなた
なのよと
女が言った
イルから
うざい
と男が言った
それがどうしたと
私は思った
空が青い
今も昔も青いが
マンネリない

 「それがどうした」。
 ああ、そうなんだと思う。
 詩は新しい何かの発見かもしれないが、それは「それがどうした」と言いたくなるような、どうでもいいことにすぎない。
 というと、言いすぎになるが。
 だぶん、詩は「それがどうした」と開き直ることなんだと思う。
 「のである」も「開き直り」だ。繰り返すのは、開き直っているのだ。開き直れるのが詩人なのだ。

 池井の詩に戻る。
 一、二連目だけでは、たぶん、「それがどうした」と批判する人がいると思う。何も書いていない。「結論」が書いてない。つまり「要約」できない。「ストーリー」にならないという人がいるかもしれない。
 だから「みえない竪琴」というようなものをひっぱりだしてしまった。読者には見えないけれど池井には「みえる」ものをひっぱりだしてきた。
 この「みえない竪琴」に対しても「それがどうした」という批判はできるのだけれど、ふつうはしいなだろうなあ。「結論」だから。

 でもねえ。
 「意味」は、それぞれが生きている。他人の出す「結論」なんて、別の人には「それがどうした」でしかないのだから、どうでもいいのだ。
 「結論」ではない部分にも、ひとは「それがどうした」と言うが、それは疑問なのだ。「それがどうした? 私にはわからない」と立ち止まらせるのが詩なのだと思う。
 谷川の二連目の「それがどうした」は谷川から女と男への反論。
 一連目を読んで「それがどうした?」と思うのは、読者の疑問。
 疑問は同時に答えを抱え込む。
 読者に代わって「女」と「男」が答えているのが二連目。
 これには、私も「それがどうした」と谷川と同じように思ってしまう。「そんなことじゃないんじゃないかな? そんな簡単には言えないんじゃないかな」と。
 それで一連目に引き返し、自分自身で「それがどうした?」と言ってみる。いや、これは正確ではない。「それがどうした?」と思いながら、私は二連目へと読み進んだのだから。「それがどうした?」と思ったとき「ことば」にならない何かが動いていた。
 池井の詩の、一、二連目を読んだときも「それでどうした?」と思っていた。あるいは「なんだ、これは」とか「また、これか」とか。「これ」が何か、その瞬間はことばにできないんだけれどね。でも、その瞬間、ことばになりたがるものが私の肉体の中で動く。
 それでいいんじゃない?と私は思う。その瞬間が詩というものだろうなあ、と思っている。

 こんな調子で、今年もことばを動かしていく。







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