パブロ・ソラルス監督「家へ帰ろう」(★★★★)
監督 パブロ・ソラルス 出演 ミゲル・アンヘル・ソラ
ナチスのユダヤ人虐殺を生き延び、アルゼンチンで暮らしていた老人がポーランドに帰るロードムービー。
終盤に、非常に素晴らしいシーンがある。
主人公が命の恩人を訪ねて、かつて住んでいた家へ向かう。その裏通りというか、路地の風景のとらえ方がすばらしい。同じ路地のシーンは、前半にも出てくる。そのときは、主人公は命からがらドイツ兵から逃れてきたときのもの。ふらつく足で家にたどりつく。最後のシーンは車椅子に乗って、若い女性にともなわれて路地に入り込むのだが、見た瞬間に、なつかしくなる。あ、この道を覚えている、という感じが蘇る。それは私の知っている「ふるさと」ではない。でも、ふるさとの道や家並みを思い出すときのように、記憶がざわつく。時代が過ぎているから、もうかつてと同じではない。路地の舗装も、家々の様子も(たとえばドアや窓も)違っている。違っているけれど、その違いの奥から知っているものが蘇ってくる。その感じが生々しい。
この生々しさが、地下室へ通じる階段へつながり、窓越しに級友との対面になるのだが、これはもう「予定調和」のようなもので、見ていて感情がざわつくという感じではないのだが。
どうしてなのかなあ。
その直前の、表通りのシーンでも、私は奇妙な感じに襲われた。すっかり新しくなっている表通りは、主人公の知っている通りではない。スクリーンに映し出されるのも初めてである。だから私も、その街を知らない。その知らない街がスクリーンに映し出された瞬間、私は自分の肉体がふわーっと浮くような感じがした。それまでの風景描写とは違う。一種の「違和感」が肉体そのものをつつむ。
それまで主人公が、自分の足で歩いていたのに、ここでは車椅子に乗っているということが影響しているのだと思う。はっきりとはわからないが、カメラの位置がいままでよりも低くなっているのかもしれない。そのため風景をなんとなく見上げる感じになる。視線が上を向く。足元を見ない。足元が視野に入ってこない。視線に誘われて、肉体が浮く、という感じになる。
この感じをひきずって、路地に入っていく。まるで、足が地につかないまま、記憶、あるいは夢のなかへ引きずり込まれる感じだ。
で。
映画を思い返すと、この「不安定な足」の感覚というのは、最初から意図されていたものだとわかる。
主人公は右足が悪い。いのちを護るためには切断も考えないといけないくらいである。その主人公はアルゼンチンからスペイン(マドリッド)へ、マドリッドからパリへ、さらに列車でポーランドへ向かうのだが、ドイツの土地は踏みたくない。でも、列車乗り換えのときはプラットホームに降りなければならない、足でドイツに触れなければならない、という「難題」が控えている。そういうエピソードを含んで、足という、肉体を刺戟し続けている。それが無意識に私の肉体にしみ込んで、最後の街のシーンがとても生々しく感じられるのだ。
さらに言えば。
主人公が最初に巻き込まれるトラブルが、二階の窓が開いているという見上げるシーンで象徴され、最後のクライマックスの入り口が地下室に通じる階段を見下ろすシーンというのも、なかなかおもしろい。途中、マドリッドにいる娘、はじめてみる孫娘とのシーンに階段がつかわれているのもおもしろい。主人公の足の感じを、常に観客に意識させる。ロードムービーなのに、足が悪い老人が主人公であり、そのことが映像の揺れに奇妙な「実感」を与え続けている。
(2019年01月13日、KBCシネマ2)
監督 パブロ・ソラルス 出演 ミゲル・アンヘル・ソラ
ナチスのユダヤ人虐殺を生き延び、アルゼンチンで暮らしていた老人がポーランドに帰るロードムービー。
終盤に、非常に素晴らしいシーンがある。
主人公が命の恩人を訪ねて、かつて住んでいた家へ向かう。その裏通りというか、路地の風景のとらえ方がすばらしい。同じ路地のシーンは、前半にも出てくる。そのときは、主人公は命からがらドイツ兵から逃れてきたときのもの。ふらつく足で家にたどりつく。最後のシーンは車椅子に乗って、若い女性にともなわれて路地に入り込むのだが、見た瞬間に、なつかしくなる。あ、この道を覚えている、という感じが蘇る。それは私の知っている「ふるさと」ではない。でも、ふるさとの道や家並みを思い出すときのように、記憶がざわつく。時代が過ぎているから、もうかつてと同じではない。路地の舗装も、家々の様子も(たとえばドアや窓も)違っている。違っているけれど、その違いの奥から知っているものが蘇ってくる。その感じが生々しい。
この生々しさが、地下室へ通じる階段へつながり、窓越しに級友との対面になるのだが、これはもう「予定調和」のようなもので、見ていて感情がざわつくという感じではないのだが。
どうしてなのかなあ。
その直前の、表通りのシーンでも、私は奇妙な感じに襲われた。すっかり新しくなっている表通りは、主人公の知っている通りではない。スクリーンに映し出されるのも初めてである。だから私も、その街を知らない。その知らない街がスクリーンに映し出された瞬間、私は自分の肉体がふわーっと浮くような感じがした。それまでの風景描写とは違う。一種の「違和感」が肉体そのものをつつむ。
それまで主人公が、自分の足で歩いていたのに、ここでは車椅子に乗っているということが影響しているのだと思う。はっきりとはわからないが、カメラの位置がいままでよりも低くなっているのかもしれない。そのため風景をなんとなく見上げる感じになる。視線が上を向く。足元を見ない。足元が視野に入ってこない。視線に誘われて、肉体が浮く、という感じになる。
この感じをひきずって、路地に入っていく。まるで、足が地につかないまま、記憶、あるいは夢のなかへ引きずり込まれる感じだ。
で。
映画を思い返すと、この「不安定な足」の感覚というのは、最初から意図されていたものだとわかる。
主人公は右足が悪い。いのちを護るためには切断も考えないといけないくらいである。その主人公はアルゼンチンからスペイン(マドリッド)へ、マドリッドからパリへ、さらに列車でポーランドへ向かうのだが、ドイツの土地は踏みたくない。でも、列車乗り換えのときはプラットホームに降りなければならない、足でドイツに触れなければならない、という「難題」が控えている。そういうエピソードを含んで、足という、肉体を刺戟し続けている。それが無意識に私の肉体にしみ込んで、最後の街のシーンがとても生々しく感じられるのだ。
さらに言えば。
主人公が最初に巻き込まれるトラブルが、二階の窓が開いているという見上げるシーンで象徴され、最後のクライマックスの入り口が地下室に通じる階段を見下ろすシーンというのも、なかなかおもしろい。途中、マドリッドにいる娘、はじめてみる孫娘とのシーンに階段がつかわれているのもおもしろい。主人公の足の感じを、常に観客に意識させる。ロードムービーなのに、足が悪い老人が主人公であり、そのことが映像の揺れに奇妙な「実感」を与え続けている。
(2019年01月13日、KBCシネマ2)