詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(30)

2019-01-18 10:15:36 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
30 プトレマイオス朝の栄光

わたしはラギディス、国の王、(権力と
富とによって)究極の悦楽を手に入れた者。
マケドニアに、蛮族の地に、わたしに匹敵する
者はいない。わたしに近い者さえいない。セレウコス家の
若僧の安っぽい好色こそ笑うべきしろもの。

 池澤は、

王が自慢しているのは自国の官能的な悦楽(ヘドニス)の面であり、「知識」も「技術」もその悦楽の手段である。

 と書いている。
 うーん。
 この詩でいちばん印象に残るのは、王が「究極の悦楽を手に入れた」と言っておきながら、「若僧の安っぽい好色」と比較していることだ。王が若僧を引き合いに出して、自分を自慢するというのは、それこと「安っぽい」かもしれないが、そこがいちばんおもしろい。「若僧」の前に「わたしに匹敵する/者はいない」「わたしに近い者さえいない」と繰り返して言っているのも、王自身の悦楽を自慢するためだろうなあ。
 でも、池澤の注では、その自慢が王自身のものというよりも、「町」の自慢になってしまう。

もしもおまえがそれ以上のものを望むなら、知るがいい、
我が町こそは教師、全ギリシャ圏の頂点、
すべての知識すべての技術を知る最高の賢者、と。

 この部分の「それ以上のもの」もわからないなあ。「それ」は「好色/悦楽」を指していると思うのだが、なんだか抽象的すぎる。
 原文も知らずにこういうことを書いてはいけないのかもしれないが、私はここに「悦楽(好色の)」ということばを補って、「悦楽(好色)に関するすべての知識、すべての技術」と読んでみたい気持ちになる。
 「悦楽(好色)」こそが最高の文化、その体現者が私だと誇っている王の姿を書いていると読みたい。「我が町」の自慢ではなく「我(王自身)」の自慢と読みたい。









カヴァフィス全詩
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書肆山田


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藤井晴美『量子車両』

2019-01-18 09:49:27 | 詩集
藤井晴美『量子車両』(七月堂、2018年12月31日発行)

 藤井晴美『量子車両』は、誰にも受け止めてもらえないことばで書かれている。どのことばにも「意味」はある(と、思う)。しかし、その「意味」を共有したいとは、私は思わない。「無意味」のまま、そこにほうりだしておきたい。「無意味」であってもことばは存在する。その「強さ」を、そうやって感じたい。
 私は何を書いているのか。
 たぶん、何も書いていない。

 「スクリュー」という詩がある。一行ずつ、ことばが動いていく。一行じゃないところもあるのだが、基本は一行一連になっている。その作品の45ページ。

性器が重たくて

 これが、私は気に入った。
 ことばでしかない。
 ことばとして、そこにあるしか、ない。
 誰かが、助けてくれるわけではない。でも、ことばは、そこにそうして、ある。そういうことばがある。
 気に入ったが、これは「共感」とは違う。

 「ポルノ」という詩も好きだ。書き出しのポルノ写真、母かもしれない、叔父かもしれないという部分もいいが、それよりも。

 小学生のぼくは時々、よその家にもらわれていきたいと思った。殊に夕方、
どこか通りを歩いていて家からオレンジ色の明かりが漏れているのを見たりす
ると。そこに本当の自分がいるような気がした。たとえばミッキーに扮した私。

 こういうことは、小学生なら誰でも一度は思うことかもしれない。そして、それは、ことばとして、ことばだけがずっと存在し続けるようなものである。「いま」とは結びつかない。大人になってからも「よその家にもらわれていきたい」と思う人はいないだろうし、それをことばにすることもない。では、なぜ、そういうことばは小学生のとき存在したのか。わからない。わからないけれど、もしそういうことばがことばとして「思い」のなかで動かなかったら、世界はまったく違ったものになるだろうなあ、と思う。これは、違った世界になってもらっては困るという意味だが、なぜ困るのか、やっぱりわからない。
 藤井のことばは、何か、そういう変な感じをえぐりだす。

 「よくアパートのドアのところにいる黒い猫の話」も好きだ。短いので、全行引用する。

「かた子ね、あれは実は私の妹なんだよ」
「まさか、じゃ、あの小説は実話だと……」

 富士額の異様な赤ら顔の男、「ぼくはサルですよ」と自嘲気味に言ってアッ
ハハハッと大声で笑う。それは自然な笑いではない。彼の詩の言葉のようにど
こかぎくしゃくして顎がズレている。

 結局そういう現場は人々を醜悪にさせる。

 「醜悪にさせる」かどうかわからないが、そこはたしかに「現場」である。
 藤井は「現場」を書いている。「現場」には「いま」につながる意味もあれば、「過去」にしかつながらない意味もある。言い換えると、「いま」につながってしまうといやだなあ(それこそ醜悪だなあ)といいたくなるような意味がある。「未来」にもつなげたくない。
 でも、人がどう思おうが。
 そのことばはことばとして、存在する。「過去」に存在したのなら、「いま」も存在するし、「未来」にも存在する。
 「時間」というものを超えてしまう。

 手がつけられない。制御できない。そういうことばである。それが詩なのだと思う。




*

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