詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(22)

2019-01-10 10:14:15 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
22 あの男

エデッサ出身の一人の男--ここアンティオキアではよそもの--

 その「よそもの」が最終連で、こう変わる。

けれども、この困憊の内から急にある考えが
浮びあがる--素晴しい「あの男だ」という声、
かつてルキアノスが夢の中で聞いたその声が。

 池澤の注。

ルキアノスの「夢」という詩に由来する。彼が若い頃、夢の中で文芸の女神から「(略)人々はおまえを見て隣のものをうながし、おまえを指さして『あの男だ』と言うだろう」と言われて文筆で立つ決意をした。カヴァフィスの作品の中の無名詩人はこの逸話に励まされる。

 つまり、カヴァフィス自身を、その無名詩人に仮託しているというわけである。
 その通りだと思うが。
 私は、「よそもの」から「あの男」への、ことばの変化に詩を感じる。よそものは「あの」という特定の指示詞を持たない。「あの男」ということばが動くとき、そこには明確な意識がある。「知っている」を意味する。
 それだけではない。
 「すでに知っている」ではなく、「あの」と指示することで「知る」にしてしまうのだ。知らなくても「知っている」ものにする。
 それは逆に言えば「知られる」ことを「知っている」でもある。
 詩では、こういう「矛盾」のようなものが起きる。それが、とてもおもしろい。
 そして、この作品では「あの男」は「詩人」ということになっているが、それだけではないかもしれない。「よそもの」なのに「あの男」と呼ばれる。この主人公には「あの」ということばで指し示される「独特」のニュアンスがある。「あの男」と呼ばれた男は「あの男だ」という声を聞いた。それは「視線の声/まなざしの声」だったかもしれない。「あの男」と呼ばれたとき、主人公は「その男」を見たのだ。








カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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藤井貞和『非戦へ 物語平和論』、「無季」

2019-01-10 09:51:38 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和『非戦へ 物語平和論』(水平線、2018年11月09日発行)

 藤井貞和『非戦へ 物語平和論』の41ページに、こう書いてある。「戦争の要素」について書いたものである。

 私は虐殺と陵辱と掠奪とを三要素として認定する。おもしろいと言うとたいへん語弊があるけれども、〈虐・辱・掠〉と略してみると、これらは字としてどうも私には筆記しようとしてうまく書けない(書き順が分からなくて、ひっくり返して書いたり、リャク奪を書こうとして字が浮かばず、略字の「略奪」と書いたりする)。発音しようとしても、〈ギャク・ジョク・リャク〉と、どうしても一度では言えないむずかし音声が並ぶ。それにはきっと理由があるはずで、戦争がそのむずかしさの深層にこそ潜む、ということではなかろうか(ギャグだと思ってくれてよい)。

 藤井は「ギャグ」だと思ってよいと書いているが、私はそうは思わない。
 戦争の「三要素」が藤井の定義どおりかどうかはわからないが、ここには「ギャグ」ではなく「ほんとう」が書かれていると思う。
 〈ギャク・ジョク・リャク〉が言えない。〈虐・辱・掠〉が書けない。これは、その音、その文字が藤井の「肉体」とは相いれないということだ。つまり、藤井の「肉体」は、そのことゆえに「戦争」には加担しないということを意味する。「肉体」は「戦争」にゆけない。ゆこうとすると「肉体」が抵抗する。
 言えない音がある、書けない文字がある、というのは大切なことである。「肉体」が無意識の内に、何かを判断する。その無意識は、意識できないくらいに「肉体」にしみついている。私は、そういうものを信じる。

 逆のこともあると思う。つまり、好みの「音」がある。好みの「漢字(文字)」がある。それを自然につかってしまう。ほかにもことばがあるはずなのに、「音」や「字面」で選んでしまうということがある。
 そういう「音」「漢字/文字」を読むとき、私は「意味」を重視しない。
 こう書くと申し訳ないが、作者の書こうとしている「意味」は、私は大切だとは思わない。「意味」は自分にとっての「意味」だけで手一杯。作者が何を言いたいかなんて、気にしない。私には「聞いた声/読んだ文字」が大切だ。
 「現代詩手帖」12月号のアンソロジーには、藤井の「無季」(初出、「望星」10月号)という作品が載っている。

子規と虚子のあいだ、
ふたつのはしらに挟まれ、
無季はかなしいね。

季節が生まれる、
ぼくらの句集の若草に、
掛けぶとんを掛ける。
お寝み、春は終わるよ。
すや すや あかちゃん。
月の光も はつかねずみも眠る。
夏草の 跳ねぶとん、
よぞらのベッドのうえで、
跳ねる子ジカの一句。
それでも眠る 枯れ草の敷きぶとん、秋。
野のかぎあなあけて、
まだまだ足りない眠りです、お寝み。

 「ぼくらの句集の若草に、」からあとがとても楽しい。「若草」「夏草」「枯れ草」が出てくるから「無季」ということにはならないのかもしれないけれど、「音」が明快だから、そういう「意味/論理」はどうでもいい感じで読んでしまう。
 何を書いてあるのか、「意味」なんて、考えない。
 とは言いながら。

掛けぶとんを掛ける。
お寝み、春は終わるよ。

 そうか、一日が終わったら寝るように、春が終わったら「若草」も寝るのか、なんて思ったりする。「若草」は次の行で「あかちゃん」と言い換えられているのかもしれないなあ。ちゃんとした(?)比喩なのか、単なる思いつきなのか、まあ、どうでもいい。「すや すや あかちゃん」も音が美しい。「すや すや あかちゃん」というのは「常套句」というか、誰もが口にすることば(音)だけれど、というか、何度も聞いてきたことがある音(ことば)だから、そのまま丸ごと私の「肉体」のなかへ入ってきて、勝手に眠っている赤ちゃんになってしまう。私の思い出している赤ちゃんは、藤井が書いている赤ちゃんとは無関係なのだけれど、そういうことを忘れてしまう。
 そういう藤井の書いていることを無視して、私の「肉体」は、私の知っているものを勝手に抱きしめる。藤井が「そのあかちゃんじゃない」と否定しても気にしない。藤井の言いたい「意味」なんか気にしない。私は私の「聞きたい」ことを聞く。私は私の「意味」を生きる。
 私は、そういうことが好きなのだ。というか、そういうことしかできない。

 と、書いて、ここから飛躍する。
 「非戦へ」という藤井の願い。その願いを実現するために、私たちは何をすべきか。
 私たちは、もっと自分が「聞いた」ことを大切にすべきなのだと思う。私たちが「聞いた」ことは、たとえば安倍が「言っている」こととは違う。安倍は「ていねいに説明する」(説明した)と言っているが、私にはぜんぜんそんなふうには「聞こえない」。安倍の言っていることは全部嘘に「聞こえる」。
 私が「聞いた」ことを、安倍は「間違っている」と言うだろう。
 だとしたら、どうなのだ。
 誰にだって「言いたいこと/正しい意味」はあるだろう。ひとは「正しいと思っている意味」しか言えない。
 でも、その「意味」は私の信じている「意味」とは違う。私の肉体は私の「意味」を生きているのであって、安倍の「意味」を生きているわけではない。だから「嘘つき」と思う。安倍の言っていることは嘘に「聞こえる」。
 安倍の言っていることは「ひとつ」かもしれない。でも、それをどう「聞く」か。「聞こえ方」は、聞いた人それぞれによって、違う。百人が聞けば、聞こえ方は百通りあるはずだ。「違って聞こえる」ということを、ひとりひとりが声にする。
 それが大切なのだ。
 ひとりひとりが、全部、違うことを言う。
 ひとりひとりが、全部、違うことを言うとき、戦争は起こり得ない。起こせない。戦争は「一致団結」しないと、戦えない。「それはいや、あれは嫌い」とみんなが言えば、どんな独裁者も「軍隊」を指揮できない。

 だから、とまた飛躍する。
 私は人が何というかは気にしない。私は「こう聞いた/こう読んだ」と、ことばにしつづける。作者が言いたい「意味」なんて、知ったことじゃない。







*

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