詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江口節『篝火の森へ』

2019-01-20 10:38:57 | 詩集
江口節『篝火の森へ』(編集工房ノア、2019年01月17日発行)

 江口節『篝火の森へ』は、手触りがとてもなめらかな本である。私は本の装丁にはまったく関心がないのだが、この本は手になめらかな感じを伝えてくる紙をつかっている。それがとても印象的だ。で、ついつい、手が滑るようにしてページをめくっていく。手が滑るように、すらすらと読んでしまう。何かだまされているような感じにもなる。(色の対比が美しい表紙も同じような感触がある。帯は異質の手触りだが。)
 引き返して、詩を読み直す。「しらじら明け山の端に」。

あの時は違った
気が付くと絵が完成していた
色と線を選んだのは 誰か
この指に添えられた手
見えない手を画家は思い出す

彫刻家もうなずく
自分が彫り出したのではない
遥かな昔より木の中に俟つ像が
おのずから現れてきたと

 この「起承」の展開は、すっと読むことができるが、読み直すと少し微妙だ。
 画家は誰かの手に導かれて絵を描いた。彫刻家は誰かの手に導かれてではなく、木の中に生きていた像に導かれた。画家に引き返すと、線と色の中に生きていたものに導かれたとならないと「対」にはならない。
 このあと、「転」というよりも、「承、その二」という感じで詩人が登場する。

詩人は知る
意を尽くしたスタンザは美しい
だが 美しいにすぎない
廻りくる「時」の針にもろもろと突き崩される
永い時を漕ぐ手が 詩を立たせるのだと

 うーん、
 最初に読んだときは、画家、彫刻家、詩人とも、自分ではない誰かに導かれて作品を完成させるという「意味」が動いていたが、いまは、とまどう。
 主人公(?)は画家、彫刻家、詩人ではなく、私は、彼らに働きかけた「誰か(何か)」を主役として読み始めている。その「主役」は画家、彫刻家、詩人のように「ひと」というくくりではとらえられない。
 「手」「木(のなかに存在していた像)」「時」。
 これをひとまとめにすることば(意味/概念)を、私は知らない。だからこそ、詩に書く必要があるのかもしれない。ここから「新しい意味/概念(哲学)」が生まれようとしているのかもしれない。
 そう思い、私は、しばらく私のことばを動かしてみる。
 主役が、比喩から抽象へと転換してゆき、「意味」そのものに純化していく。純化の到達点は「時」のなかにある。「いまという時間」と「いまではない時間」を結ぶ、「時間を超えた永遠」のなかにある。「永遠」が具体的なものになって、「いま」「ここ」に立ち現われてくる。
 この運動に、詩そのものがある、という具合に言えるかもしれない。そんなふうに「要約」すれば批評としての形をとることができるかもしれない。江口が書きたいのは、たぶん、そういうことかもしれない、とも思う。

一日 一年 もっとだろうか
ついに 大いなるものの気が満ちる時
一心不乱に制作する人間の手に
もう一つの手が重なる
絵は絵に 剣は剣に

 「永遠」を「満ちた気」と言いなおしていることになる。「気」が個人を超えて永遠と結びつく。

 さて、困ったなあ。
 こんな「結論」になってしまっていいのかなあ。何か物足りない。滑らかすぎる。本を手にとったときの感じそのままの「なめらかさ」が気になる。落ち着かない。
 どうしてなのかなあ。
 私は「あとがき」というものをめったに読まないのだが、今回、「なめらかさ」が気になり、読んでみた。
 この詩集は、神戸の生田神社で催される薪能を題材にして書かれているという。ただし、江口は薪能を見てから詩を書いたのではなく、演目を知らされて詩を書いたという。このあたりに、私が感じた「なめらかさ、すべすべ、つるつる」の原因があるかもしれない。
 私は能になじみがない。一回だけ、那珂太郎の詩を題材にした作品をみたことがある。だから、私の感想は「見当外れ」のものかもしれないが……。
 能にしろ、他の芝居にしろ、それを演じるのは「肉体」である。見ていると訳者の肉体に私の肉体が重なろうとする。ときどき、重なってしまう。あるいはこれは逆で、訳者の肉体が私の肉体に重なってくるのかもしれないが、無意識の内に、肉体が動く。
 そういう肉体を揺さぶられる感じが、江口のことばからはつたわってこない。ことばは「意味」(頭)をととのえてしまうと、ぱっと消えてしまう。
 能をみたあとでも、江口はおなじことばを動かしただろうか。
 それを聞いてみたい気がする。



*

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池澤夏樹のカヴァフィス(32)

2019-01-20 09:30:20 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
32 危険

《理論と研究を通じて強化された者であるわたしは
臆病者のようにおのが情熱を恐れはしない。
この肉体は快楽に手渡そう、
また夢に見た楽しみの数々に、
あるいは大胆な恋の欲望に、
そして放恣きわまる我が血の衝動に。

 意味はわかるが、こころをそそられない。「肉体は快楽に手渡そう」と書いてあるが、「快楽」が意味になってしまっている。
 池澤の訳は正しいのだろうけれど、几帳面すぎて、快楽が見えてこない。快楽というのは意味を超えてしまうものだと思う。池澤のことばを読むと、快楽は意味に支配されてしまっている。ことばの響き、リズムに「快楽」がない。
 「強化された者であるわたし」という、理屈っぽい言い回し(関係代名詞を含む文章を、後ろから訳していく受験栄枯のような表現)が全体を支配している。

恐れることは何もない、なぜならその気になれば--
(略)
禁欲的な我が魂を見いだせるだろうから。》

 「なぜなら」というのは「論理」のことばだ。ここに「理論と研究」があらわれている、といえばそれまでだが、整然としすぎている。矛盾がない。
 池澤は「なかば異教徒、なかばキリスト教徒」(引用では省略)に注目して、登場人物(詩の話者)であるミルティスとカヴァフィスを結びつけてこう書いている。

このミルティスのような狡猾な考えかたもあったろうし、カヴァフィスは必ずしもそれを退けてはいない。

 たぶん私と池澤では詩(あるいは文学)への向き合い方が違うんだろう。私は小学生の感想文の「定型」そのままに、もし私が主人公であったなら、と思って読む。
 この詩なら、そうか「理論と研究」を重ねれば、どんな快楽でも手に入るんだな。理論も研究も充分じゃないから、快楽や大胆な恋におじけづくんだな。この主人公はうらやましいなあ、と感じたい。
 「感じたい」と書いたのは、池澤の訳では、カヴァフィスの書いた「快楽」「大胆な恋」が絶対的な魅力としては迫ってこないからだ。「放恣きわまる我が血の衝動」というのは、ことばが論理的すぎて、つらい。三島由紀夫でもこう書かないかも。




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