江口節『篝火の森へ』(編集工房ノア、2019年01月17日発行)
江口節『篝火の森へ』は、手触りがとてもなめらかな本である。私は本の装丁にはまったく関心がないのだが、この本は手になめらかな感じを伝えてくる紙をつかっている。それがとても印象的だ。で、ついつい、手が滑るようにしてページをめくっていく。手が滑るように、すらすらと読んでしまう。何かだまされているような感じにもなる。(色の対比が美しい表紙も同じような感触がある。帯は異質の手触りだが。)
引き返して、詩を読み直す。「しらじら明け山の端に」。
この「起承」の展開は、すっと読むことができるが、読み直すと少し微妙だ。
画家は誰かの手に導かれて絵を描いた。彫刻家は誰かの手に導かれてではなく、木の中に生きていた像に導かれた。画家に引き返すと、線と色の中に生きていたものに導かれたとならないと「対」にはならない。
このあと、「転」というよりも、「承、その二」という感じで詩人が登場する。
うーん、
最初に読んだときは、画家、彫刻家、詩人とも、自分ではない誰かに導かれて作品を完成させるという「意味」が動いていたが、いまは、とまどう。
主人公(?)は画家、彫刻家、詩人ではなく、私は、彼らに働きかけた「誰か(何か)」を主役として読み始めている。その「主役」は画家、彫刻家、詩人のように「ひと」というくくりではとらえられない。
「手」「木(のなかに存在していた像)」「時」。
これをひとまとめにすることば(意味/概念)を、私は知らない。だからこそ、詩に書く必要があるのかもしれない。ここから「新しい意味/概念(哲学)」が生まれようとしているのかもしれない。
そう思い、私は、しばらく私のことばを動かしてみる。
主役が、比喩から抽象へと転換してゆき、「意味」そのものに純化していく。純化の到達点は「時」のなかにある。「いまという時間」と「いまではない時間」を結ぶ、「時間を超えた永遠」のなかにある。「永遠」が具体的なものになって、「いま」「ここ」に立ち現われてくる。
この運動に、詩そのものがある、という具合に言えるかもしれない。そんなふうに「要約」すれば批評としての形をとることができるかもしれない。江口が書きたいのは、たぶん、そういうことかもしれない、とも思う。
「永遠」を「満ちた気」と言いなおしていることになる。「気」が個人を超えて永遠と結びつく。
さて、困ったなあ。
こんな「結論」になってしまっていいのかなあ。何か物足りない。滑らかすぎる。本を手にとったときの感じそのままの「なめらかさ」が気になる。落ち着かない。
どうしてなのかなあ。
私は「あとがき」というものをめったに読まないのだが、今回、「なめらかさ」が気になり、読んでみた。
この詩集は、神戸の生田神社で催される薪能を題材にして書かれているという。ただし、江口は薪能を見てから詩を書いたのではなく、演目を知らされて詩を書いたという。このあたりに、私が感じた「なめらかさ、すべすべ、つるつる」の原因があるかもしれない。
私は能になじみがない。一回だけ、那珂太郎の詩を題材にした作品をみたことがある。だから、私の感想は「見当外れ」のものかもしれないが……。
能にしろ、他の芝居にしろ、それを演じるのは「肉体」である。見ていると訳者の肉体に私の肉体が重なろうとする。ときどき、重なってしまう。あるいはこれは逆で、訳者の肉体が私の肉体に重なってくるのかもしれないが、無意識の内に、肉体が動く。
そういう肉体を揺さぶられる感じが、江口のことばからはつたわってこない。ことばは「意味」(頭)をととのえてしまうと、ぱっと消えてしまう。
能をみたあとでも、江口はおなじことばを動かしただろうか。
それを聞いてみたい気がする。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
江口節『篝火の森へ』は、手触りがとてもなめらかな本である。私は本の装丁にはまったく関心がないのだが、この本は手になめらかな感じを伝えてくる紙をつかっている。それがとても印象的だ。で、ついつい、手が滑るようにしてページをめくっていく。手が滑るように、すらすらと読んでしまう。何かだまされているような感じにもなる。(色の対比が美しい表紙も同じような感触がある。帯は異質の手触りだが。)
引き返して、詩を読み直す。「しらじら明け山の端に」。
あの時は違った
気が付くと絵が完成していた
色と線を選んだのは 誰か
この指に添えられた手
見えない手を画家は思い出す
彫刻家もうなずく
自分が彫り出したのではない
遥かな昔より木の中に俟つ像が
おのずから現れてきたと
この「起承」の展開は、すっと読むことができるが、読み直すと少し微妙だ。
画家は誰かの手に導かれて絵を描いた。彫刻家は誰かの手に導かれてではなく、木の中に生きていた像に導かれた。画家に引き返すと、線と色の中に生きていたものに導かれたとならないと「対」にはならない。
このあと、「転」というよりも、「承、その二」という感じで詩人が登場する。
詩人は知る
意を尽くしたスタンザは美しい
だが 美しいにすぎない
廻りくる「時」の針にもろもろと突き崩される
永い時を漕ぐ手が 詩を立たせるのだと
うーん、
最初に読んだときは、画家、彫刻家、詩人とも、自分ではない誰かに導かれて作品を完成させるという「意味」が動いていたが、いまは、とまどう。
主人公(?)は画家、彫刻家、詩人ではなく、私は、彼らに働きかけた「誰か(何か)」を主役として読み始めている。その「主役」は画家、彫刻家、詩人のように「ひと」というくくりではとらえられない。
「手」「木(のなかに存在していた像)」「時」。
これをひとまとめにすることば(意味/概念)を、私は知らない。だからこそ、詩に書く必要があるのかもしれない。ここから「新しい意味/概念(哲学)」が生まれようとしているのかもしれない。
そう思い、私は、しばらく私のことばを動かしてみる。
主役が、比喩から抽象へと転換してゆき、「意味」そのものに純化していく。純化の到達点は「時」のなかにある。「いまという時間」と「いまではない時間」を結ぶ、「時間を超えた永遠」のなかにある。「永遠」が具体的なものになって、「いま」「ここ」に立ち現われてくる。
この運動に、詩そのものがある、という具合に言えるかもしれない。そんなふうに「要約」すれば批評としての形をとることができるかもしれない。江口が書きたいのは、たぶん、そういうことかもしれない、とも思う。
一日 一年 もっとだろうか
ついに 大いなるものの気が満ちる時
一心不乱に制作する人間の手に
もう一つの手が重なる
絵は絵に 剣は剣に
「永遠」を「満ちた気」と言いなおしていることになる。「気」が個人を超えて永遠と結びつく。
さて、困ったなあ。
こんな「結論」になってしまっていいのかなあ。何か物足りない。滑らかすぎる。本を手にとったときの感じそのままの「なめらかさ」が気になる。落ち着かない。
どうしてなのかなあ。
私は「あとがき」というものをめったに読まないのだが、今回、「なめらかさ」が気になり、読んでみた。
この詩集は、神戸の生田神社で催される薪能を題材にして書かれているという。ただし、江口は薪能を見てから詩を書いたのではなく、演目を知らされて詩を書いたという。このあたりに、私が感じた「なめらかさ、すべすべ、つるつる」の原因があるかもしれない。
私は能になじみがない。一回だけ、那珂太郎の詩を題材にした作品をみたことがある。だから、私の感想は「見当外れ」のものかもしれないが……。
能にしろ、他の芝居にしろ、それを演じるのは「肉体」である。見ていると訳者の肉体に私の肉体が重なろうとする。ときどき、重なってしまう。あるいはこれは逆で、訳者の肉体が私の肉体に重なってくるのかもしれないが、無意識の内に、肉体が動く。
そういう肉体を揺さぶられる感じが、江口のことばからはつたわってこない。ことばは「意味」(頭)をととのえてしまうと、ぱっと消えてしまう。
能をみたあとでも、江口はおなじことばを動かしただろうか。
それを聞いてみたい気がする。
*
「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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